奈良の放火殺人
昨日の毎日新聞から
《奈良県田原本町で母や弟妹を死亡させたとして高1の長男(16歳)が殺人と現住建造物等放火などの非行事実で家裁送致された事件で、父親の医師(47歳)が2日、事件後初めて長男と面会した際のやり取りを公表した。》《先月13日の面会の様子を付添人弁護士に伝えるために作成したメモで、弁護士を通じて明らかにされた。県警や地検は、父親の暴力も交えた厳しい指導への反発が長男の動機と見ている。このメモには、父親が暴力を振るったことを詫び、「死ぬまで一緒に罪を償うつもり」と語りかけ、長男が泣きじゃくりながら反省の言葉で応えた様子が記されている。》
ちょうど新聞紙面4分の1を埋めたメモに、まるで小説か戯曲か芝居の脚本でも書いているような書き振りで、私(父親のこと)「パパが悪かった・・・・」A(息子のこと)「せりふ」、私が見たAの素振り、私「せりふ」A「せりふ」などと、台詞のやり取りが何度も繰り返されている。
何を考えて弁護士はこのメモ(戯曲)を新聞社に送りつけたのか、また、受け取った毎日新聞もどういう心理で広い紙面で公表したのか。読者には、お互いに交わされる顔の見えない登場人物に同情でもせよ、と迫るつもりか。まっぴらご免だ。お互いの会話の中で何度“パパ”という語が飛び交うことだ。16歳にもなるまで男子高校生に父親のことをパパと呼ばせている家庭が日本に存在していることに我が耳を疑う。戦前、限られた上流家庭内ではステータスのように使用されていたことは知っているが、いくらアメリカかぶれをした敗戦後でも、16歳の男子高校生が乳ばなれも出来ず、“パパ”とは平民には あー、首筋が痒くなる、反吐が出る。父親の「一緒に罪を償おう」や殺人少年の「ごめんなさい、僕の代わりに、毎日花を供えたって」なんて、安っぽいお涙頂戴のお芝居だ。親子の傷の舐め合いに過ぎず、幼稚な親子関係を浮き彫りにしているだけだ。
父親は子に自分をパパと呼ばせ、何の違和感も覚えないまま気侭に育った16歳。蛙の子は蛙であることを求める親に厳しく叱られ、受験期になった途端に暴力を振るわれ(程度が分からないから瘤ができた程度か、歯が折れたのか、骨が折れたのかはわからない)、子どもの頃可愛がってくれた血縁はないが老夫婦のいる山野に遊ぶことを許されなくなったり、乳ばなれもしていない子に求めるにはハードルは余りに高いものだったのだ。
「地震 雷 火事 親父」昔の親父はそれほど恐いものに例えられていた。しかし一家の中心の大黒柱として威厳に満ち、尊敬されていた。父親と母親は車の両輪だった。親父が子を叱る。母親がそっと慰める、宥める。阿吽の呼吸で成り立っていた。その強い父親の立場が女性に取って代わられているのが今風の家庭になっているのじゃないだろうか。兎に角男は優しく威厳もなくした。叱ってくれる父親がいる家庭は幸せだと思えるのに、宥める立場の母親が学歴偏重を信じ込み一緒になって叱ると、「ウザイ」となる。
聞く耳持たぬ年齢になってからでは何事も手後れだ。小さいころからの躾を手抜きすると、何か事が起こらないと対処するのは難しい、もうその時は取り返しのつかない状況に陥っていることになる。子を持ち、親となったからには覚悟して子どもを育てないとならないのだ。
昔からある諺に言う、後悔先に立たず、と。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント