« 心の傷 | トップページ | どうなってるの »

2006年5月27日 (土)

最後の顔

自宅のすぐ近所に葬儀場がある。
近頃話題のようだが、亡くなった人の顔をカメラ付きの携帯電話で撮影する人が増えているらしい。葬儀の関係者には「人の死を悼む気持ちが荒廃している」と感じる人がいる一方で「時代とともに葬儀も変わる」と受け入れる人もいるということだ。

1昨年の暮れ、順序を間違って3歳下の弟があの世へ旅立った。もしもだが、その葬儀でそのような輩がいたならば、私は躊躇なくその人間を半殺しのめに合わせていたと思う。すでに命も失い、ただの肉の塊になっていたが、愛しい弟だった。中学を出るとすぐに親戚の家に家具塗装の見習いで住み込み、手に職をつけようとしたが、不幸にも倒産の憂き目に遭い、その後は仕事をかえて別の職についていた。

葬儀社では、携帯で写真を撮る姿を時々見かけるようになったが、「中学生や高校生は『撮ってもいいの?』という雰囲気だが、30〜40代の人は当然のように撮影する」という。「人を悼む気持ちが荒廃している、亡くなった方は死に顔なんて絶対に撮られたくはないはず。撮影の可否まで遺言をしなければならないのだろうか」と困惑顔だ。「カメラが身近になり、気軽に撮るのだろうが、心の写真を撮っておく(脳裏に焼き付ける)のが1番」だという。

一方、こんなことを言う人もいる。「臓器移植が一般化し、遺体が神聖不可侵なものとの考えが薄くなったのではないか」と。メディア社会論に詳しい評論家・武田徹氏は「対象を撮影し、他者とともに確認しなければ“リアリティー”が感じられなくなっている。葬儀も焼香だけでは満足できず、個人との確かなつながりを持ちたいとの思いから撮影するのだろう」と分析している。以前私は仕事柄遺体の写真は数えきれない数見て来た(三島由紀夫の首なし遺体も)が、決して思い出で眺めて心の休まるものではない。おおむねは窶れ果て、やせ細った寝顔だ。

そこに人の死を待って控えている臓器移植の人がいる。早速遺体が切り刻まれる。人間の尊厳なんて構っていられない。生暖かいうちに切り取らねば役に立たない。簡単に手を合わせてメスを入れる。手術とはそういうものかも知れないが、残される人間には堪らない現実だ。

カメラ付きの携帯の普及で、何でも撮影する風潮に加え、現代人の感覚や死生観の変容という社会背景も要因の一つにあげられている。

私は絶対に撮られたくない。

|

« 心の傷 | トップページ | どうなってるの »

コメント

コメントありがとうございました^^
便利、お手軽、何でも簡単に済ます。
そういった意識が、人の命も、人のこころも
軽んじてしまっている・・・
そんな気がします。

投稿: mayumin | 2006年5月29日 (月) 09時52分

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 最後の顔:

» まさか1時間後に・・・・・ [現実にある出来事の紹介]
昨日のお電話の現場へ見積もりに行ってきました。 公団の5階で2Kのお部屋のおトイレに座っていたままの状態で亡くなっていたそうです、苦しんだ様子もなく穏やかなお顔をされていたとお話されました。 この公団には、独居老人が40%を占めているという事で見積もり時に行き交う方のほとんどが高齢者です、故人の両隣の方も独居老人でお一人は入院されているようで先週まで故人はその方のお見舞いに毎日通っていたのにまさかその方より早く亡くな�... [続きを読む]

受信: 2006年5月28日 (日) 23時02分

« 心の傷 | トップページ | どうなってるの »