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2006年5月 1日 (月)

愛国心って?

昨年(2005)来『戦後60年の原点』の題を冠して、毎日新聞社がずっと書き続けて来た日本の変遷の歴史の記事が、そろそろ終わりに近付いている。その締めくくりになったのが極東国際軍事裁判「東京裁判」の特集だ。昨日(4/30)今日ときて明日は60年の総括になる。

折しも政府は教育基本法改正に向けて28日、閣議決定し、改正法案を衆議院に提出した。連休明けから始まる国会審議では、新たに盛り込まれた「愛国心」表記に関する条項が学校の教育現場に及ぼす影響などを巡り、激しい論戦が展開されそうだ。

敗戦後、米ソ冷戦の激化に伴い、アメリカは対日政策を大きく転換させ、日本を「共産主義の防波堤」と位置づけて、旧体制側の人物を復権させ、東條英樹内閣で商工省大臣を務めていた岸信介を不起訴にし、東條ら7名の処刑の行われた翌日に釈放した。彼はその後1958(昭和33)年には第57代内閣総理大臣に就任し、新日米安全保障条約を調印・批准する。
権力に弱い新聞の偽善性は、戦時中に限らず戦後でも1960年6月15日、安保闘争中の東大生樺美智子(共産主義者同盟・ブント)の死(デモ隊に殴り込んだ警察権力の犠牲、それに加わった右翼による説、デモ隊自身の混乱中に起こった不慮の死説などがあり、不明のまま)を切っ掛けにして、それまで民主主義の先頭に立って旗を振っていたかに見えたマスコミは、一瞬にして平和運動を暴力と断じ、議会政治に戻れと号令し、論調が右傾化していくことになった要因を生んだ。

♦【今日は独立後初のメーデーの行われた日。敗戦から7年目の1952年5月1日、“血のメーデー”と呼ばれる惨劇のあった日だ。革新を叫ぶ全学連などデモ隊(約5000人)に、三度に亙って警官隊(約5000人)が突入し、皇居前広場を血に染めた事件だった。警察官側は催涙弾でも足らずに最後にはピストルの発砲まであり、死者2人、1232人が検挙され、重軽傷者500人を出した。】

毎日新聞4月14日の社説から冒頭を引用する。
 《「教育の憲法」といわれる教育基本法について、自民、公明両党でつくる与党検討会が改正案の内容に合意し、1947年の制定以来初の改正に向けて大きく踏み出した。上部組織の与党協議会も了承した。改正を求める中央教育審議会の答申から3年を経ての結論だが、その間の議論の経過は公開されなかった。
 今後の教育のあり方を決定づける法律の全面改正作業が、国民とは離れた「密室」で進められたことは残念だ。

 両党の議論の最大の焦点が「愛国心」の取り扱いだった。教育の目標に掲げる文言として、自民党が「国を愛する心」を養うことを明記するように主張したのに対し、公明党は「戦前の国家主義を想起させる」と反発し、「国」に統治機構(政府)は含まないことが分かる表現を求めていた。最終的に「伝統と文化を尊重し、それらを育んできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」との表現でまとまった。自民党案の「国」が「我が国」に、「心」が「態度」に変わり、「他国の尊重」が加わった。》

1945(昭和20)年8月6日広島に、続く8月9日長崎に原子爆弾が投下され、国土を焼け野原にして日本は敗戦を迎えた。アメリカでの原子爆弾投下に対する評価は、戦争の早期終結のためとされているようだが、当時の日本国民にとっても戦争の終結は紛れもなく‘ほっと’した安堵感を抱いたのが実感だ。原爆が落ちた広島、長崎の人たちには残虐な殺人兵器に違いないが、戦争が続けられていれば、日本国土はおろか日本人の生存者も絶えていただろうと思われる。天皇の終戦の詔勅が読まれなければ(マイクの前に立ったのではなく録音盤だが、事実ラヂオ放送を中止させようと、一部軍人達はその録音盤を略奪しようと画策していた)・・と思うと恐ろしくなる。

無条件降伏を受け入れた日本は、まっ先に軍隊の解体に手を加えられ、戦争犯罪者として外地では早くも処刑される者も出ていた。日本の軍隊では上官の命令は天皇の命令であり、絶対に背くことがあってはならないとされた士官、下士官たちの行為さえ問答無用の処刑の対象になっていた。兵たちが敗残の身一つで外地から陸続と引き上げて来た。国内にいた軍人たちはすでにこの時、軍隊の無秩序を露呈させていた。少しでも上位にあったもの、賄いの部署にあったもの、将校の地位で上手く泳いでいたものなどが、軍隊の物資を横領して持ち帰っていたのだ。それは配布されるべきものであった毛布であったり、食糧であったりと豊富な品物が(外地の軍人に輸送するのに優先的に準備されていた)家庭に持ち帰られた話が大人の口を通じて耳に入って来た。転んでも只では起きない心理ではあったのだろうが、純粋無垢な少年であった心にはなんとも遣る瀬ない情けない日本人の姿を見た気がしたものだ。

敗戦の翌年(起訴・1946年4月29日昭和天皇誕生日)から始まった極東国際軍事裁判が、同年5月31日より審理を開始し、48年11月4日判決、12日刑の宣告を含む判決の言い渡しが終了する。絞首刑(死刑)の執行が行われたのが12月23日(現天皇の誕生日)だった。東亜共栄圏の確立、東洋平和、アジアの盟主、を旗印に、死ぬまで戦え、気に入らない人間には非国民のレッテルを用意し、翼賛政治を布いた指導者たち、軍人に限らない、戦争で儲けるだけ儲けた財閥。これらに携わった人たちが次々に失墜していく。彼ら無責任な指導者たちの嘘が次々に暴かれた。現時点でこの裁判を茶番と呼ぶ人がいるが、これの拠って立つ根拠には勝者が敗者を裁いたものであった、との認識がある。当然当時は厳しい言論統制下に置かれ、裁判に関するもの言う権利は持ち合わせていなかった。前にも書いて繰り返しになるが、インドのパール判事は「天皇が戦争犯罪人として裁かれないのなら、日本には戦争犯罪人はいない」として全員無罪を主張する少数意見を吐いた。通常、裁判での少数意見は判決に添えられた参考意見で終わるのだが、この東京裁判だけは違う。現在ではこの少数意見が大多数意見であったかのように解釈されているのだ。

死刑執行の翌日にはA級戦犯を不起訴ですり抜けた岸信介のように、アメリカの対ソビエトの冷戦構造がその後の日本の右傾化の方向を示すこととなった。それ以来東京裁判は「勝者の裁き」とする意見が強く頭をもたげ、たった一人のカッコ付きの意見が東京裁判の圧倒的な意見であったような風潮を作り上げていく。しかし、裏切られたと感じた当時の私(14歳)の裁判に関する情報からでも、国家を破滅させたのは彼ら戦争指導者であり、為政者であり、裁かれるのは当然との認識が強かった。国家を護るとするその対象は、国民ではなく、皇室であることが読み取れた。こんな国へ忠義立てすることはさらさらない、護るべき国などない、国を愛する気持ちなど全く存在しなかった。天皇の存在すら必要のないものとすら解釈していた。天皇が裁かれないのが理解できなかった。そうしてこの感情は日本国民の多くが感じていた思いでもあった。

天皇が裁かれなかったことはその後の日本という国が、近隣諸国への侵略が追求されなかったことの遠因ともなって今日に来っていると考える。毎日新聞は1946年5月4日にこう書いた。「判決は日本人全体への厳粛な宣告」である、と。敗戦処理内閣の東久邇宮稔彦首相(1945年8月17日〜10月9日。東久邇宮朝彦親王の第9王子。GHQから「政治的・民事的・宗教的自由に対する制限撤廃の覚え書き」を突き付けられたが実行できないとして民主化に取り組めず、10月5日総辞職したがその後、皇籍離脱。)が言った「国民総懺悔」を言い換えただけの無責任論評だ。

巣鴨プリズンで東條以下A級戦犯が処刑された翌日の毎日新聞の号外「極東国際軍事裁判所において死刑を宣告された戦犯7名は23日午前0時1分から35分の間に全部絞首刑を執行された」と。号外ではないが我が家に配られた7名のそれぞれの写真と、対象になった刑の内容が印刷された新聞は、胸騒ぐ思いで眺め、この戦犯たち思い知ったか!との快哉を叫びたい感情が湧いたのを覚えている。その新聞は長い間父の居間の引き出しに畳まれてあったが、死後捜したが見当たらないまま行方が解らない。当時の私の心境は、ハッキリ言って護るに値する国などあるか!愛国心など持てる筈もない!くたばってしまえ!との思いだった。

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