ことば
毎日新聞(4/30 及び 5/7)から
⑴ 「障害者」を「障験者」にしよう、という提案
⑵ 聖書の表記「らい病」を「ツァラアト」に書き改めよう、という提案
先ず ⑴から 東京都身体障害者団体連合会国際部部長・阪本英樹の言い分(要約)
《一般社会に定着しているマイナスイメージから、国内外を問わず、長い間、くり返し議論を巻き起こしてきた、といい、英語を持ち出す。「Disability」そもそもこの言葉には「Ability(能力=適性や技能など)」を打ち消す語として使われており、事実、「Disability」という用語は、世界中の社会政策文書や法律文書などで使用されている。01年5月22日に行われたWHO(世界保健機関)総会では、新しい見解として「個人因子」と「環境因子」から捕らえるべきである。つまり、人間として生まれ、成長し、やがて老いを迎えていくライフサイクルにおいて、誰もが身体に何らかの変調や病気を背負うことが運命づけられているということであると説明している。人によって異なるのは「いつ障害を背負うのか」「どの程度の障害になるのか」ということだけであるという。
にも拘らず、わが国では、いまも「障害者」という呼び名は日常用語として広く使われている。「障」は「*じゃまになる」という意味合いがある。一方「害」は「災い」「妨げ」というニュアンスが含まれている。【引用者*「障」の1義は「じゃまになる」ではなく、「じゃまをすること」であり、2義には「防ぎ隔てとするもの」の意味もある】
近年わが国では「障がい者」や「チャレンジド」などの呼び方が代用語として使われているが、どちらもやや不自然な感があり、一般社会に定着したとは言いにくい。【全くその通りだと思う、私にとっても始めて目にし、耳にする言葉だ、漢字を平仮名に置き換えても(耳に届く音には何も違いはない)真実が見えなくするだけだし、西洋かぶれの横文字を使うのは、流行りではあっても、ごまかしでしかない。誰にでも理解できる日本語で表現すべきだ。とは言っても、「痴呆症」を言い換えた「認知症」は全く意味不明の言葉だ。差別や偏見を助長するとして作られた言葉だが、そう思うこと事体、偏見と差別なのだ。例えば、わが子と‘認知’する、と使用するが、それに‘症’の字をつけて意味はどう解釈する。パソコンの文字変換さえまだ追い付いていない。任知将人知将、任知将人知将の繰り返しだ。(例は“ことえり”】
そこで彼は提案する「障害者」を「障験者」にしようと。そこでまた彼自身が拵えたという英語の造語を持ち出す。XPD(The people experienced disabilities)として。
【彼は言う】所詮、「障害」とは人間のライフサイクルにおける1つの経験でしかない。「障害者」対「健常者」という図式は対立概念をつくり出し、さまざまな偏見を生み出す温床である。もっとも、「障害者」をどう呼ぼうと、存在する事実に変わりはない。しかし、呼び名は単に用語の問題だけではなく、障害者に対するまわりの人々の態度の問題と直結している。言葉が変わることによって障害者への社会一般の理解や認識も変わることは十分あり得る。と》
ここで彼が例として上げたのが、戦後の歓楽街に犇めいていた「トルコ」と呼ばれ、男の癒しの場にもなっていた「特殊浴場」だ。大勢のトルコ嬢と呼ばれた女性が働き、さもアラビアンナイトの世界を彷佛し、ハーレムを想起させ、鼻の下を伸ばした男どもが競って集まったいかがわしい場所であった。来日したトルコの一青年が、その名は国を冒涜するとして異義を申し立て、全国一斉にその呼び名が消えた快楽の場だ。日本人にしてみれば遠い昔の夢の国、大勢の女性にかしづかれたい思いで汗を流していただけだった(と、思う)。それが、一歩間違えば、外交問題にも発展しかねない当該国への蔑視ととられることになる危険を含んでいた。女性には別の問題はあるが、日本の男にはハーレムは憧れであって偏見でも差別でもなかったのだが。
彼は「障害者」を人間のライフサイクルにおける一つの経験でしかない、と言うが、一つしかないライフサイクルを、生まれついての重度の障害を持つ者にも只の一つの経験でしかないと言えるのだろうか。生まれ変わっての人生を期待せよとでも言うのか。その当人にしてみれば、全てのライフサイクルが障害者として生きる人生になるのに、「経験」で済ませ、というのだろうか。⑵に触れてからまとめるが、私には別の考えが有る。
続いて ⑵ 、岡山県瀬戸内市邑久町の「長島愛生園」にある長島曙教会の牧師・大嶋得雄(65)の活動から
聖書中の「らい病」(癩病)や、「重い皮膚病」などの表記を改める活動を続けている。これまでに普及率の高い聖書【世界一のベストセラー本である】で表記をやめたケースもあるという。今年は、らい予防法廃止から10年になる。
聖書の知識は不足するが、旧約聖書のレビ記には「ツァラアトの者は(中略)『汚(ケガ)れたもの、汚れたもの』と叫ばなければならない」「衣服はツァラアトが生じた時は(中略)その物を火で焼かなければならない」などとある。「ツァラアト」はヘブライ語で、日本語訳では「らい病」、英語などでも「ハンセン病」と訳されてきた。彼は1983年6月、同教会の牧師となって間もなく、教会員を連れて別の教会に行った時、伝道師が「らい病」を罪の象徴のように語るのを聞いている。
最初はそのような説教を録音したテープの販売の中止を訴え、97年頃からは聖書の出版元への働き掛けをを始めてきたという。00年から2年間、アメリカの神学校に留学する。そこで「ツァラアト」がハンセン病を限定する言葉ではなく、人間の皮膚や衣服、家の壁の表面が損なわれた状態を総合してあらわすものであることを確認する。
予防法廃止と大嶋氏らの活動で、出版元も見直しに着手し、国内で普及する4種の聖書のうち一つは「らい病」の表記を「ツァラアト」に、二つが「重い皮膚病」に改訂した。大嶋氏は「『重い皮膚病』でもハンセン病を連想する。無理に訳さず、原語の使用を」と訴えている。
⑵を書いてからまとめるとした私の考えはこうだ。
言葉で漢字を平仮名にしようと、カタカナにしようと、はたまた横文字で表わそうと、何も改まらない。なぜか、そこには深層心理に潜在する差別、偏見が拭い去られることなく残るからだ。失恋で、忘れようと努力すればするほど、「忘れようとする物は何か?」という、忘れる対象を思い浮かべるジレンマ(嫌いな横文字だが)に陥ることと同じだからだ。どうすればいいのか、失恋は時が過ぎるのを待つ以外にはない。自然に思い浮かぶこともなくなるまでの期間があれば済み、傷も癒える。
むかし、高座では障害を持つ人を取り上げて話すユーモラスな噺が幾つもあった。悪意はない、差別もない、蔑視もない、嘲笑もない、同情もしない。ありのままを認めた。明るい話題があった。本当の平等があった。耳の聞こえない人をつんぼと呼び、目の見えない人をめくらと呼んだ。足を引きずる彼をびっことからかった。追い駈けっこをして遊んだ。鬼さんこちら、と。蔑んでの事ではない、相手の人格を認め、目をそらさず対等に向き合うためにはそれが本当の接し方になる。
日本語では不味いから、と外国語を訳さないでカタカナ表記でごまかす。この方がよほど差別をする底意を感じることになるのではないか。何という意味かを調べる、ああそうなのか、そういうことだったのか、と。最初から教えておけば済むものを、隠しだてするような言い換え語やカタカナ語では役に立たない。現在のように同情(人は人間性と言うかも知れないが、人を殺すのも人間だし、騙すのも人間だ)を下敷きにしたような言葉を作り上げても逆効果になるだけだ。「障害」がだめなら「障験」に、「痴呆」がだめなら「認知」に、「癩」や「らい」がダメなら「ハンセン」に、それもダメなら「ツァラアト」にするか。これでは解決にはならない。なぜそうしなければならないのか、どうしてそうなったのか、を意識している間は差別も偏見もなくならない。お互いに心の底からぶつかり合い、向き合うところから言葉の壁、障害の壁は溶解していく。
本質は、隠すほどに表われるものだ。
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