小学校の英語必修化
いよいよ小学校での英語必修化を実施しようとして、中央教育審議会の外国語専門部会が、小学校5年生以上で週1時間程度の必修化を提言した。今年度中にも改訂される学習指導要綱に盛り込まれる見通しになってきた。毎日新聞(5/15)から。
メディアは得意のアジテーターよろしく布石を敷く。バカの1つ覚えのように「グローバル化」を振りかざし、世界の国々では日本で取りざたされる英語教育論議のような動きはないものだろうか、とデータをかき集める。先ず、【イギリス】では母国語の英語だけしか話せない国民が65・9%、そこで政府は「外国語を早期にマスターすれば身につく」と、2010年までにすべての小学生(7〜11歳)に外国語を学ばせる方針を打出す反面、04年に中等学校生(11〜18歳)が16歳の時点で受けていた中等教育修了試験の必修科目から外国語を削除したため、中等学校で外国語を学ぶ生徒が激減した。慌てた政府は昨年の暮れ、16歳までの生徒の少なくとも半数が外国語を学ぶ新しいガイドラインを公表し、今年の秋からの導入を決めた話。
【アメリカ】では移民向けの英語を学ぶ教育システムは充実しているが、英語を母国語とする国民の外国語熱は高くない。しかし、国家安全保障の観点から外国語教育を促進する国家プロジェクトがスタートしている。最近の同時多発テロを契機に、「世界各地域との相互理解の欠如」が国家安全保障を脅かしていると判断。今年1月には「国家安全保障イニシアチブ」を提唱して、07年度から幼稚園〜大学生を対象に外国語教育拡大を開始する、という。
【フランス】ではどうか。頑迷にフランス語を信奉していたフランス人も、実は大学・高校では約9割の学生が英語を学んでいるという。フランス人にとって英語は文法的にも難しい言葉ではなく、学ぶ意思、つまり「外国への関心」次第で習熟度は決まる。
【ロシア】では、他の国と同様英語が圧倒的に重視されている。小学校5年生から英語教育を始めるが、小学校1年から英語の授業を導入している大学の付属校や私立校もあるようだ。大学受験科目で英語の難易度はソ連時代よりもかなり高くなり、受験生を持つ親たちは英会話学校よりも入試に向けて英語の家庭教師を雇うことに関心がある。モスクワでの家庭教師の相場は、相当に高く、大学教授クラスになると週2回でモスクワ市民の平均月収(約500ドル)に近い1ヶ月400ドルになるという。記者はこれを揶揄的に「語学力もカネ次第」と書いて拝金主義の悪弊が外国語教育の世界にも及んでいる、と書くが、こちら日本でもこれに近い格差社会のあおりを受けた現象が出ている、と思うが。
【中国】「英語を学ぶ国民の数はすでに3億人を突破した。数年後には英語を母国語とする国の総人口を上回るだろう」。中国でもチャンスを広げるには語学力を身につけるのが早道とされるが、中でも英語が突出している。中国教育省は「大学生の英語力は低い。同時通訳の人材は不足している」と指摘している。北京市は04年度以降、小学校1年生から英語を必修科目とした。近く5輪や万博を控え、北京や上海などの都市部が特に熱心とされる。
【日本】お題目のように口に上る「グローバル化」。アジアの29の国・地域中、TOEFL* の平均点が下から2番目の日本。03年には文部科学省が「英語が使える日本人の育成のための行動計画」を策定。筆頭にも書いたように、今年3月には中央教育審議会外国語部門専門部会が、小学校高学年での英語必修化を求め報告をまとめた。早ければ今年度中の学習指導要項で盛り込まれる。
05年度の調査では、全国の公立小学校(約24.000校弱)の約94%が英語教育を導入している。報告では高学年で週1回、主としてコミュニケーション体験型教育を提言している。ここにもウサン臭いものが裏で蠢き、必修化を見越した子ども対象の約450校を持つ英会話大手の「ジオス」(本社・東京)は今年、関東を中心に20〜25教室を新設するべく手ぐすね引いて待っている。言うことはこうだ「視察したアジア各国の英語熱と比べ、日本の遅れを実感した」とのこと。
*【TOEFL】(Test of English as a Foreign Language)
英語を母国語としない人々の英語力を判定するテスト。主にアメリカとカナダの大学・大学院(現在約4.500以上)が、英語能力の判定基準として採用し、入学審査の際に、スコアの提出を要求している。正規に留学するには第1関門とされる世界規模のものである。
だから、どうなんだろう。英語教育は国家戦略だ、という国際教養大学長・中嶋嶺雄のように「アジア地域を見ても国の施策としてやっている。国全体でしっかり取り組まないと、日本は将来、本当にだめになる」と言う識者もいる。彼は言う、「文部科学省は 知育、体育、徳育 と言うが、異文化教育、グローバル化教育が日本では欠落している」と。世界は急速に変わったのに、日本では教育が変わっていない。小学校で英語をやると国語がだめになる、という意見が強いが、バイリンガルを目指すわけではない。逆に英語を学ぶことによって日本語の素晴らしさや日本的な心の大切さを知ることもできる、と言う。
そんなたわけた話があるか、日本語の素晴らしさは、日本語で学ぶから分かるのであって、英語を学んで遠回りして日本の心の大切さを知ることもないだろう。
一方、お茶の水女子大学教授・藤原正彦は、真っ向から反対の立場で主張する。
「国際化」という甘い言葉で、国はいつまでだまし続けるつもりか、と。社会に出て英語を使う日本人は1割もいるかどうか、と。小学生全員に英語を強いるのはばかげている。必要とする者だけが一生懸命努力すればいい。確かに、早く始めるのが良いのはピアノなど習いごとと同じだ。問題は、小学校の限られた授業時間で何を優先するかだ。彼は激しい言葉で主張する。「一に国語、二に国語、三、四がなくて、五に算数。それ以外は十以下のずっと下だ」と。
「英語が話せれば国際人」は大うそ。英語がぺらぺらしゃべれても、自国の文化や言語を深く知らなければ、世界では相手にされない。ところが「それは開始が遅いせいだ」という俗論が大手を振り、小学校高学年から始めようという、いずれもっと早い方が良い、と「1年生から」ということになる。中途半端に英語が50、日本語が50、ではアメリカでも日本でも使いものにはならない。日本で暮らす限り、日本語で事足りる。これは植民地化されなかった国の誇るべき特権だ。
「英語ができなければ経済がだめになる」と言うが、学生の英語の成績が、先に見たTOFELでも日本よりも高いスリランカやフィリピンなどの国々は、日本よりも豊かなのか。英語を世界共通語にして能率のよい世界にするという発想はすこぶる危険だ。英米文化の世界支配につながる思想だからだ。
そして、私が共感を持って賛同する彼の主張は、近代日本の発展の基礎には、江戸時代の寺子屋以来の世界最高水準の初等中等教育があるということ、寺子屋の授業は徹底した「読み書きそろばん」であった。欧米コンプレックスで英語をありがたがる教育者の見識は、寺子屋の師匠の足元にも及ばない。と
お笑いの片割れが司会する朝の番組、「小学校に英語があってもいいじゃないか、歌の世界でも英語はふんだんに使われ、誰でも唄っている」と言う。考え方が狂っている、彼ら歌を作っている連中、唄っている連中は、日本語の豊富な語彙も知らず、どう使っていいのかも知らず、ただ、英語に対する劣等感からそれが かっこいい と勘違いしているだけなのが理解できないのだ。
英語導入に賛成の彼ら識者と呼ばれている人たち、街に出て若者たちの使う言葉を聞いたことがあるのだろうか。いかに日本語が低俗な言葉に成り下がっているか、言葉は変化するだろうことは承知していても、ひどすぎる。日本語の教育の、それに伴う日本文化の必要性を痛感するはずだ。
日本人の多くは国際化とは関係のない生活で生きている。中小企業で、農村で、牛小屋で、厩舎で、小さな船の上で、細々とした商売で、油まみれになり、泥だらけになり、牛馬の糞を片付け、鶏を飼い、荒れる海で漁をし、土と格闘している。彼らが支えて日本はあるのだ、グローバル化、グローバル化と、あまり思い上がらないがよい。
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コメント
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ご挨拶を貴ブログに投稿させていただきました。
お目通し下さい。
投稿: 小言こうべい | 2007年5月12日 (土) 00時42分