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2006年5月30日 (火)

臓器移植

このところ移植に関係のある内容で少し書いたので、少し話をまとめてみようと思う。

「日本は金にあかせて世界の臓器を買い漁っている」。約3年前、スペインで開かれた世界保険機関(WHO)の臓器移植に関する委員会で、日本は名指しで批判された。この時点で日本政府は実態を把握しておらず、反論もできなかった。

急遽今年に入って1〜3月、移植専門医がいる全国の医療施設を対象に、厚労省の研究班が急遽組織されて全国規模の調査を行った。それによると、全国の施設で調べたところ、海外で移植を受けた外来患者数を調査した。
対象施設は心臓17、肝臓123、腎臓154で回答率はそれぞれ100%、98%、90%だった。ただし、死亡した患者や他の施設に通う患者もいるため、実際の患者数はもっと多いとみられている。現在渡航移植患者は上の報告時よりも69人増えて522人に上っている。97年の臓器移植法施行後もアジアへの渡航を中心に増加傾向にあり、「国内の脳死移植体制が不十分なため(患者は)多額の医療費と生命のリスクをかけて他国民からの臓器提供を求めて渡航する」という。

【心臓】17施設で103人、05年度は最多の15人が渡航移植を受けた。現行法では15歳未満の提供は禁止されているため(自民・公明両党の有志議員は臓器移植法改正案を検討、12歳以上に引き下げることを提起している)子どもが心臓移植を求めて渡航する例が増えていた。とともに、法施行後も成人の渡航例が増加傾向にあることも判明した。それに提供者の多くが死刑囚だという中国の実態もあるが、欧米や日本にある移植患者の登録制度や選択基準が中国にはない。費用は米国の約6000万円に比べれば約1300万円と格段に安い。

【肝臓】123施設で221人、主な渡航先は豪州、米国、中国など。心臓でも触れたが中国での移植は、日本移植学会が倫理指針で禁止する臓器売買にあたるとの指摘や、死刑囚からの提供も問題化している。それに感染症対策や術後のケアや治療のデータも不十分だという。

【腎臓】154施設で198人、渡航先で最も多いのは中国で、フィリピン、米国と続いている。どの臓器もそうだが、インターネットで情報を入手し、個人で渡航する例も多いという。「不正確な情報を頼りに海外を目ざすケースも出ている。費用は米国が約1800万円、中国は約600万円。

しかし、国際的な非難を受けた中国は先月、不適正な臓器移植を禁じる管理規定を発表した。日本では法施行後8年を経過した現在も、国内移植は増えているとは言いがたい実態がある。また、二つの改正案を国会に再提出している。脳死を一律に人の死とし、本人が拒否しない限り家族の同意で提供可能となる案と、一律に人の死とせず、上に書いたように、提供可能年令を15歳から12歳に引き下げる案だ。いずれも提供者増を目指しているが、審議入りの見通しは立っていない。

97年に施行され臓器移植法は、付則で施行後3年をめどに見直すとされた。しかし、すでに8年半が経過している。脳死からの臓器提供は44件に留とどまっている。厚生労働省臓器移植対策室は「死生観なども絡む法律の性質上、政府提案は難しい」と見直しが遅れた背景を話している。

患者や関係団体からは「やっと提出された」改正案だが、議員の間では、脳死を人の死とすることへの反対意見も根強い。改正の行方は不透明のままだ。

海外で移植手術を受けた人が言う「まだ体温の残る他人の臓器をいただくことになるという現実と向き合った上で、まだ生きたいと思った」「渡航するだけでも命がけ。言葉の壁もあり、周りで何が起きているか分からず、不安だった。できれば国内で受けたかった」と言う。

国内だろうと海外だろうと、何千万円の高額の大金を用意できる人は、何処でも好きなところでやればいい。例えば我が身に置き換えて考えた場合、とても整えられる金額ではない。そんな人を手術が受けられる人はどう見るのだろう。借金してでも受けられればいいが、その借金は子に、孫に、引き継ぐ可能性の方が高い。議員に限らない、まだ暖かみの残る肉親を、切り刻まれることに耐えられる日本人はそう多くはいないだろう。私のような魂の存在を信じない人間でも、一昨年亡くなった温もりの残る弟にメスを入れようとした人間がいたならば、逆にその人間を刺し殺しもしたであろう。

‘どうぞ役に立てて下さい’と、死後の臓器を提供する人も日本人の中にもいるようだが、私は登録するつもりはない。死後の世界や天国を信じてもいないが、もしも、先で待つ母や父がいる世界があるとするならば、目を無くして母を捜し出せないこことでは困るし、母が生んでくれた完全な姿を見て欲しい。「ああ、◯◯ちゃん、お久しぶり、どこも怪我はないようだね」と言って欲しい。献血ぐらいは幾度も経験しているが、今になってはかすり傷もつけたくない。

 身体髪膚これを父母に受く、あえて毀傷せざるは孝の始めなり (孝経)

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2006年5月29日 (月)

どうなってるの

今日の毎日新聞(5/29)
企画特集ページ、「デジタルトレンド」の記事から。
踊る、踊る、横文字が踊る。仕方のない時代とは言えひどい女性向けの小さな記事がある。
漢字、ひらがな、ローマ字、カタカナを全て合わせても300文字程度の記事だ。

その記事の144文字がカタカナとローマ字になっている。
『女性向けSNS夏にもスタート』スクニエとゼイヴェル。後は解説になっているが、私は老人で男、関係のないことと見過ごしてもいいことだ。それにしても、どうしてこうも横文字なんだろう。どこまで英語劣等感を持っているんだろう。

まだある、IPと一般電話つながる、エニーユーザーがfreep開始。この記事も横文字だらけだ。
まだある、クレジット機能充実、FOMA新シリーズ。こちらは携帯電話のことらしい、NTTドコモが提供するおサイフケータイ(普通に‘お財布携帯’と書けない理由でもあるのだろうか)のクレジットサービス「DCMX]を標準装備、3・5G携帯の高速通信技術「HSDPA」や指紋認証に対応する端末が登場。

どれもこれも若者には何と言うこともない技術なのだろうが、世の中頻りに格差社会が取りざたされている中、この技術革新も似たような意味で、老人を置いてけぼりにした格差社会を確立しようとしているのではないか。解るものだけが付いてくればいい、では便利な機械が出来てもますます老人は、宝の持ち腐れ、猫に小判の使い道のないものになってしまう。この新シリーズ、クレジット機能が充実というのは世の中を騒がせている借金と返済、多重債務の問題を増幅させることになるのではないのだろうか。クレジット機能というのは携帯の操作、使用法だけのことなのか、持ったことがないのでよく解らない。

まだまだある。これは別のページだが、相変わらず繰り返しての表現。メタボリックシンドロームと書いてわざわざ「内臓脂肪症候群」と追い書きする。それも中途半端に。中途半端と言うのは内蔵脂肪だけで何故症候群?正しくは「内臓脂肪過多症候群」とするべきだ。しかし、これだってなにも怖がることはない。ずっと昔からこの類いの男どもは掃いて捨てるほど歩き回っている。いわゆるビール腹だ。酒飲みの酒飲みたる証だろう。摂生することなどない、好きなだけビールは飲めばいい。お相撲さんが体重を増やすために太るのは黒星を一つでも増やさないためだ。100キロよりも150キロを押すのは大変だ。職業上の必要からだが、引退すれば見事に普通の体に絞り込む。貴乃花など見すぼらしいほどに痩せ細っている。一般人には太っているからとて心配要らない。せいぜい飲みたいだけ飲めばいい。細くなることなど考えないが良い。医者を太らせるだけだ。製薬会社を儲けさせるだけだ。

一日の新聞にこんなに英語劣等感を並べ立てたことは少ない。
次いでは前にも取り上げた「アンチエイジング」、要するに年を重ねることに無駄な抵抗をしましょう、ということだ。何でもいいから飾り立てましょう、足りなければ手術があります、薬を飲みましょう、医者に懸かりましょう、少しは体を動かしましょうと、何処かで誰かが金の流れる動きをじっと観察している。秦始皇帝が不老長寿の薬を捜し、贅の限りを尽くして求めさせ、大掛かりな人数を日本(蓬来島)まで送りだした伝説は有名だが、もともとそんなものはない。必ず年老いて行く。昔は年を重ねるにつれて死の恐怖から仏に縋ったが、現代人には信心の心はない。神も仏もない。現世を愉しく生きられればそれで善し。神は結婚式で誓いの言葉を交わすのに形式として、仏は死出の旅路の決まりだから、の程度。兎に角長生きしたい、人が死ぬのを待って臓器を買い上げ、大金を投資してでも長生きしたい。ここにも金持ちと貧乏人との顕著な格差がある。限られた金持ちだけが長生きを金で買えるのだ。(特例として同情の大金も集まるが)

皺は年輪、髪の白くなるのは知恵の証、逆らえば逆らうほど醜くなる。

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2006年5月27日 (土)

最後の顔

自宅のすぐ近所に葬儀場がある。
近頃話題のようだが、亡くなった人の顔をカメラ付きの携帯電話で撮影する人が増えているらしい。葬儀の関係者には「人の死を悼む気持ちが荒廃している」と感じる人がいる一方で「時代とともに葬儀も変わる」と受け入れる人もいるということだ。

1昨年の暮れ、順序を間違って3歳下の弟があの世へ旅立った。もしもだが、その葬儀でそのような輩がいたならば、私は躊躇なくその人間を半殺しのめに合わせていたと思う。すでに命も失い、ただの肉の塊になっていたが、愛しい弟だった。中学を出るとすぐに親戚の家に家具塗装の見習いで住み込み、手に職をつけようとしたが、不幸にも倒産の憂き目に遭い、その後は仕事をかえて別の職についていた。

葬儀社では、携帯で写真を撮る姿を時々見かけるようになったが、「中学生や高校生は『撮ってもいいの?』という雰囲気だが、30〜40代の人は当然のように撮影する」という。「人を悼む気持ちが荒廃している、亡くなった方は死に顔なんて絶対に撮られたくはないはず。撮影の可否まで遺言をしなければならないのだろうか」と困惑顔だ。「カメラが身近になり、気軽に撮るのだろうが、心の写真を撮っておく(脳裏に焼き付ける)のが1番」だという。

一方、こんなことを言う人もいる。「臓器移植が一般化し、遺体が神聖不可侵なものとの考えが薄くなったのではないか」と。メディア社会論に詳しい評論家・武田徹氏は「対象を撮影し、他者とともに確認しなければ“リアリティー”が感じられなくなっている。葬儀も焼香だけでは満足できず、個人との確かなつながりを持ちたいとの思いから撮影するのだろう」と分析している。以前私は仕事柄遺体の写真は数えきれない数見て来た(三島由紀夫の首なし遺体も)が、決して思い出で眺めて心の休まるものではない。おおむねは窶れ果て、やせ細った寝顔だ。

そこに人の死を待って控えている臓器移植の人がいる。早速遺体が切り刻まれる。人間の尊厳なんて構っていられない。生暖かいうちに切り取らねば役に立たない。簡単に手を合わせてメスを入れる。手術とはそういうものかも知れないが、残される人間には堪らない現実だ。

カメラ付きの携帯の普及で、何でも撮影する風潮に加え、現代人の感覚や死生観の変容という社会背景も要因の一つにあげられている。

私は絶対に撮られたくない。

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2006年5月25日 (木)

心の傷

横浜市港南町の小森美登里さん(49)は、県立高校1年生だった娘の香澄さん(当時15)をいじめで亡くした。「アトピーが汚い」と言葉や態度によるいじめだった。「優しい心が一番大切だよ。その心を持っていないあの子たちの方がかわいそうなんだ」と、母(小森さん)に呟いた4日後の98年7月25日、自宅トイレで、制服のネクタイで首を吊った。

「娘の香澄は、いじめによって心を追いつめられて亡くなりました。いじめを受けるとわかっている学校へ向かうとき、どんなに辛かっただろうと今、想像しています。」「香澄を失い、香澄の体が焼かれてしまう、もう二度と抱きしめることはできない・・・・。人生で、あの時以上の苦しみはもうないと思います。」(中略)

「いじめられる側にも問題がある」と言いますが、人に傷つけれても仕方がない理由を持って生まれた人はいないはずです。人を傷つけても良い権利を持って生まれた人もいません。」「人はみんな違います。違うということは大切なことです。一人一人が違うことを認め合った時、人を傷つけることはなくなるのではないでしょうか」「人は一人では生きていけません。人とつながりながら生きていく時、何よりも大切なものが「優しい心」なのではないでしょうか」。

上は小森さんが、いじめをなくし優しい心を育てようと、全国の学校で講演活動を続けている中の、4月14日、横浜市南区私立関東学院の礼拝堂での公園の概要だ。

彼女は娘を亡くしてから夫の新一郎氏らと非営利組織(NPO)を設立。03年3月にNPOの認可を受けた。亡くなった香澄さんの「優しい心が一番大切だよ」から命名したのが「ジェントルハートプロジェクト」活動を始めて3年半が経つ、訪れた学校は200校以上、約7万人が講演を聞いている。子どもたちからは様々な感想が届いている。

何か違う気がする。第一、「優しい心」を『ジェントルハート』などと異様な言葉に言い換える必要がどこにあるのか。日本語のこれ以上ない「心」を映した「優しい」という語。わざわざカタカナ語にして世間を衒(てら)った“きれいごと”にしようとの魂胆さえ見え隠れする。こんなに子を失って悲しんでいる母を哀れにおぼしめせ、と。子どもたちは涙流して聞く子もいるだろう、聞きながらその時点では反省する子もいるだろう。文章にして誓う子もいるだろう。しかし、卑近な例になるが、私の少年時代、学校にはいろんな‘えらい人たち’がお話を垂れに来ていた。涙を流すような話こそなかったが、何一つ記憶に残る話を聞いた覚えがない。突然、はっとして聞き耳を立てたりしたが、それは‘えらい人’が言葉を知らないで間違って口にしたことぐらいだ。未だに当時の中学1年生の耳に飛び込んだ「はんしょう」の声が響く。誰でも知っている「反省」だ。それこそ何かを反省せよ、とのお言葉のはずだった。えっ、と一瞬目を剥いて壇上のおっさんを眺めたのを覚えている。聞き違いじゃない、2度3度繰り返した。鮮烈な記憶だ。それぐらいだろうか、小中学校での偉い人の話なんてものは。

それと話す相手が違う気がする。話さなければならないのはいじめをする子を育てた親に向かってだろう。子どもたちは、一時のその場の雰囲気の中で、話を理解した気になり、集団心理の中で同情し、私はもうやらないでおこう、おれももう止そう、とは思っても、一夜明ければ元の木阿弥になるのがおちだろう。しかし、本当にいじめを止めさせるには、いじめをする子の親たちがそれぞれに、自分たちの子を他人の心の痛みの分かる子に育てなければ、なくなるものではない。

親が仕事が忙しい、会社がある、で逃げている現状では、決していじめはなくならない。いつも言うことだが、いじめは学校教育とは何も関係ないし、先生の責任でも全くない。善悪の判断も躾けられない育児責任、他人の心の痛みも教えられない教育責任を放棄した、親の責任だ。

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2006年5月24日 (水)

自分を見捨てた国

今朝も早くから衆議院では、将に教育基本法案の特別委員会の質疑が行われいる真っ最中だ。
喧(かまびす)しく“愛国心”が取りざたされるが、ここに、今は東京都板橋区にお住まいの83歳のご老人から、毎日新聞への投書がある。掲載されたのは何日も前になるが、あまりに、悲しい内容に手控えていたものだ。この老人は当然招集され、国に命を捧げて激戦の地を渡り歩いたはずだ。生きて帰らない覚悟で弾丸の下を潜り、砲火の中を戦って来られたことと思う。この老人は口にする。「自分を見捨てた国、誰が愛せるか」と。

国会では知恵のある人たちが、子どもの教育について、あれこれ質疑しているが、どう決まり、どう転んでも現役の国会議員が戦場に出向くことはない。死ぬ心配は全くない。被ることもないから当然、火の粉を払わないでも済むのだ。愛国心を口にし、活字にすることは容易い。アメリカが日本を赤色革命の防波堤とし、守ってやる、と居座って何年になる。ところがペレストロイカ(再建・改革)を提唱するゴルバチョフの指導もあって1党独裁の共産主義国家は1991年に解体する。その途端に冷戦構造の敵対国ソビエトを失ったアメリカの陰に隠れていた日本は、仮想敵国をもっと身近な隣国に矛先を移し、テポドンが飛んで来たらどうする、日本にも迎え撃つ軍隊が必要だ、憲法を変えなければいけない、と騒ぎ始めた。

それには国を守る心を養なわなければ大変なことになる、さあ大変、憲法も、教育も、国体の護持に向けて挙国一致の国づくりが必要欠くべからざる急務だ。騒ぎ始めた人たちの年齢を見てみよう。国会で靖国参拝賛成だ、反対だと騒ぐ人たち、誰一人、もはや先の第2次世界大戦(太平洋戦争)を体験した人はいないことを思うべきだ。長老が70歳でいたとしよう、敗戦時でも9歳、戦争が始まったのが5歳、ということになる。麻生太郎が靖国を云々しても実体験はなく、彼はその時代は母の背中に背負われて鼻を垂らしていた年齢だから、風評でしか戦争を知らないのだ。

翻って投書者の話を聞いてみよう。
「ご多分に漏れず、私も強烈な軍国少年の一人でした。初めはおじいさんのひざの上、山陽線での出征兵士の見送り、小学校教育での忠君愛国教育があります。後年、帝国海軍の一兵士となった時、生還は想像のほかでした。帰還後、非人道的な米軍空襲下をただただ必死に逃げ惑うばかりであった一般国民の頭は、当然ながら生き延びるだけがその願いであったはずです。愛国心のカケラも消し飛んでいたはずです。事実、わが子を背負ったまま共に橋上で焼死していた母子の胸中を想像してみてください。」

「いま教育基本法を改め、愛国心を入れて、国民に対し、法律で決めたのだから愛国心を持てと言ってみてもそれは心の中の問題です。ハイ持ちました の返事を果たして確かめられますか。人は誰でも この国は私を大切にしていてくれる と思えた時にこそ本当の愛国心を持つことが出来るのではありませんか。自分を見捨てた国を誰が愛せますか。前大戦の結果が何よりもそれをよく示しています。」と結んでおられる。

どんなに苦しい戦後を生きて来られたのか、ますます飽食に明け暮れる日本、原子爆弾を見舞われた国に、戦いで戦友を失うことになった敵国に諂(へつら)うだけの日本政府には・・・、生き延びて来られた60年、想像するだけで胸が熱くなる。

数も少なくなっている先の大戦の生還者たち、「なぜ、自分は死ななかったんだろう、なぜあいつが死んだのに、なぜ」との思いを引きずりながらこの60年以上の長い年月を慚愧の思いで生きていらっしゃる。ある人は戦友の骨を拾うために南の島に何度も繰り返し渡り、国が見捨てた多くの遺骨を持ち帰り、現地で弔い慰霊塔をたててせめてもの罪滅ぼしをしていらっしゃる。戦後教育で何も教えられなかったために、土の下には未だに帰還叶わぬ戦友の遺骨の上での物見遊山や、新婚旅行の遊びの島になったサイパンで、グァムで。

年老いていくこの人たちに戦争はまだ終わってもいなのに。戦後処理の何一つもしないままの日本政府の目指す愛国心って一体何だろう。

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2006年5月23日 (火)

小学校の英語必修化

いよいよ小学校での英語必修化を実施しようとして、中央教育審議会の外国語専門部会が、小学校5年生以上で週1時間程度の必修化を提言した。今年度中にも改訂される学習指導要綱に盛り込まれる見通しになってきた。毎日新聞(5/15)から。

メディアは得意のアジテーターよろしく布石を敷く。バカの1つ覚えのように「グローバル化」を振りかざし、世界の国々では日本で取りざたされる英語教育論議のような動きはないものだろうか、とデータをかき集める。先ず、【イギリス】では母国語の英語だけしか話せない国民が65・9%、そこで政府は「外国語を早期にマスターすれば身につく」と、2010年までにすべての小学生(7〜11歳)に外国語を学ばせる方針を打出す反面、04年に中等学校生(11〜18歳)が16歳の時点で受けていた中等教育修了試験の必修科目から外国語を削除したため、中等学校で外国語を学ぶ生徒が激減した。慌てた政府は昨年の暮れ、16歳までの生徒の少なくとも半数が外国語を学ぶ新しいガイドラインを公表し、今年の秋からの導入を決めた話。

【アメリカ】では移民向けの英語を学ぶ教育システムは充実しているが、英語を母国語とする国民の外国語熱は高くない。しかし、国家安全保障の観点から外国語教育を促進する国家プロジェクトがスタートしている。最近の同時多発テロを契機に、「世界各地域との相互理解の欠如」が国家安全保障を脅かしていると判断。今年1月には「国家安全保障イニシアチブ」を提唱して、07年度から幼稚園〜大学生を対象に外国語教育拡大を開始する、という。

【フランス】ではどうか。頑迷にフランス語を信奉していたフランス人も、実は大学・高校では約9割の学生が英語を学んでいるという。フランス人にとって英語は文法的にも難しい言葉ではなく、学ぶ意思、つまり「外国への関心」次第で習熟度は決まる。

【ロシア】では、他の国と同様英語が圧倒的に重視されている。小学校5年生から英語教育を始めるが、小学校1年から英語の授業を導入している大学の付属校や私立校もあるようだ。大学受験科目で英語の難易度はソ連時代よりもかなり高くなり、受験生を持つ親たちは英会話学校よりも入試に向けて英語の家庭教師を雇うことに関心がある。モスクワでの家庭教師の相場は、相当に高く、大学教授クラスになると週2回でモスクワ市民の平均月収(約500ドル)に近い1ヶ月400ドルになるという。記者はこれを揶揄的に「語学力もカネ次第」と書いて拝金主義の悪弊が外国語教育の世界にも及んでいる、と書くが、こちら日本でもこれに近い格差社会のあおりを受けた現象が出ている、と思うが。

【中国】「英語を学ぶ国民の数はすでに3億人を突破した。数年後には英語を母国語とする国の総人口を上回るだろう」。中国でもチャンスを広げるには語学力を身につけるのが早道とされるが、中でも英語が突出している。中国教育省は「大学生の英語力は低い。同時通訳の人材は不足している」と指摘している。北京市は04年度以降、小学校1年生から英語を必修科目とした。近く5輪や万博を控え、北京や上海などの都市部が特に熱心とされる。

【日本】お題目のように口に上る「グローバル化」。アジアの29の国・地域中、TOEFL* の平均点が下から2番目の日本。03年には文部科学省が「英語が使える日本人の育成のための行動計画」を策定。筆頭にも書いたように、今年3月には中央教育審議会外国語部門専門部会が、小学校高学年での英語必修化を求め報告をまとめた。早ければ今年度中の学習指導要項で盛り込まれる。
   05年度の調査では、全国の公立小学校(約24.000校弱)の約94%が英語教育を導入している。報告では高学年で週1回、主としてコミュニケーション体験型教育を提言している。ここにもウサン臭いものが裏で蠢き、必修化を見越した子ども対象の約450校を持つ英会話大手の「ジオス」(本社・東京)は今年、関東を中心に20〜25教室を新設するべく手ぐすね引いて待っている。言うことはこうだ「視察したアジア各国の英語熱と比べ、日本の遅れを実感した」とのこと。
   *【TOEFL】(Test of English as a Foreign Language)
英語を母国語としない人々の英語力を判定するテスト。主にアメリカとカナダの大学・大学院(現在約4.500以上)が、英語能力の判定基準として採用し、入学審査の際に、スコアの提出を要求している。正規に留学するには第1関門とされる世界規模のものである。

だから、どうなんだろう。英語教育は国家戦略だ、という国際教養大学長・中嶋嶺雄のように「アジア地域を見ても国の施策としてやっている。国全体でしっかり取り組まないと、日本は将来、本当にだめになる」と言う識者もいる。彼は言う、「文部科学省は 知育、体育、徳育 と言うが、異文化教育、グローバル化教育が日本では欠落している」と。世界は急速に変わったのに、日本では教育が変わっていない。小学校で英語をやると国語がだめになる、という意見が強いが、バイリンガルを目指すわけではない。逆に英語を学ぶことによって日本語の素晴らしさや日本的な心の大切さを知ることもできる、と言う。

そんなたわけた話があるか、日本語の素晴らしさは、日本語で学ぶから分かるのであって、英語を学んで遠回りして日本の心の大切さを知ることもないだろう。

一方、お茶の水女子大学教授・藤原正彦は、真っ向から反対の立場で主張する。
「国際化」という甘い言葉で、国はいつまでだまし続けるつもりか、と。社会に出て英語を使う日本人は1割もいるかどうか、と。小学生全員に英語を強いるのはばかげている。必要とする者だけが一生懸命努力すればいい。確かに、早く始めるのが良いのはピアノなど習いごとと同じだ。問題は、小学校の限られた授業時間で何を優先するかだ。彼は激しい言葉で主張する。「一に国語、二に国語、三、四がなくて、五に算数。それ以外は十以下のずっと下だ」と。

「英語が話せれば国際人」は大うそ。英語がぺらぺらしゃべれても、自国の文化や言語を深く知らなければ、世界では相手にされない。ところが「それは開始が遅いせいだ」という俗論が大手を振り、小学校高学年から始めようという、いずれもっと早い方が良い、と「1年生から」ということになる。中途半端に英語が50、日本語が50、ではアメリカでも日本でも使いものにはならない。日本で暮らす限り、日本語で事足りる。これは植民地化されなかった国の誇るべき特権だ。

「英語ができなければ経済がだめになる」と言うが、学生の英語の成績が、先に見たTOFELでも日本よりも高いスリランカやフィリピンなどの国々は、日本よりも豊かなのか。英語を世界共通語にして能率のよい世界にするという発想はすこぶる危険だ。英米文化の世界支配につながる思想だからだ。

そして、私が共感を持って賛同する彼の主張は、近代日本の発展の基礎には、江戸時代の寺子屋以来の世界最高水準の初等中等教育があるということ、寺子屋の授業は徹底した「読み書きそろばん」であった。欧米コンプレックスで英語をありがたがる教育者の見識は、寺子屋の師匠の足元にも及ばない。と

お笑いの片割れが司会する朝の番組、「小学校に英語があってもいいじゃないか、歌の世界でも英語はふんだんに使われ、誰でも唄っている」と言う。考え方が狂っている、彼ら歌を作っている連中、唄っている連中は、日本語の豊富な語彙も知らず、どう使っていいのかも知らず、ただ、英語に対する劣等感からそれが かっこいい と勘違いしているだけなのが理解できないのだ。

英語導入に賛成の彼ら識者と呼ばれている人たち、街に出て若者たちの使う言葉を聞いたことがあるのだろうか。いかに日本語が低俗な言葉に成り下がっているか、言葉は変化するだろうことは承知していても、ひどすぎる。日本語の教育の、それに伴う日本文化の必要性を痛感するはずだ。

日本人の多くは国際化とは関係のない生活で生きている。中小企業で、農村で、牛小屋で、厩舎で、小さな船の上で、細々とした商売で、油まみれになり、泥だらけになり、牛馬の糞を片付け、鶏を飼い、荒れる海で漁をし、土と格闘している。彼らが支えて日本はあるのだ、グローバル化、グローバル化と、あまり思い上がらないがよい。

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2006年5月22日 (月)

欠食児童

しばらく目にしなかった活字だ。敗戦後ずっと続いていた貧困生活。食べるものもなく、学校へ弁当を持参することも叶わない子どもが多くいた時代があった。所謂欠食児童だ。

それが飽食の現代に起こっている。毎日新聞(5/15日)から。
この学校は東京都内の公立の小学校だ。校長によると、04年度の春の新入生に体が痩せ細り、元気のない男児がいた。授業中きちんとした姿勢を保てず、ぼんやりしていることも少なくなかった。

昨年4月、児童に話を聞くと、コンビニを営む両親から販売用のおにぎりや菓子パンを毎日のように与えられているという。校長は栄養を補うため、給食の牛乳を冷蔵庫に保管、他の児童に知られないように、校長室で毎日飲ませていた。

その後も児童の食生活に改善は見られず、賞味期限が切れた食品を与えられていたこことも分かった。児童にも好き嫌いがあり、校長がスープを与えても飲まなかった。栄養失調も疑われたため、見かねた校長は今年3月、保護者を学校に呼び出し、「今は成長期で脳がつくられる大事な時期である。きちんとした食生活をさせなあいと困る」と諭した。

母親は「(食事を)作っても食べない」と戸惑っていた。それでは「食べるように(食材を)小さく切るようにしてますか」と畳み掛けると、両親は互いに責任をなすり合い、喧嘩を始めたという

同校には数年前、「1日の食事はおにぎり1個」という児童がいたが、栄養状態が切迫したため施設に保護してもらったという。校長は「家庭の機能低下は現場で実感している。状況は悪化の一途だ」と憂えている。今も、男児と別の児童計2人に牛乳を飲ませている。「家庭の躾けまで学校が引き受けるのはどうかと思うが、(食事の劣悪さは)限度を越えている」。食育基本法が昨年夏施行され、国は朝食を取らない小学生をなくそうと呼び掛けるが、法の理念とかけ離れた現実に学校現場から悲鳴が上がっている。

政府は食育基本法に基づき今年3月、食育推進基本計画をスタートさせた。都教育委の昨年の調査で、朝食を必ず取る、と答えたのは小学生は79・7%、中学生は70・2%、食べない・食べたことがないが小学生5・1%、中学生では11・0% いた。

まるで小児虐待だ。親が親の責任を放棄し、子どもの命をないがしろにする。昔は言われていた。「放っておいても子は育つ」。人情に厚く、世間の連帯意識も強く、道路で遊んでいても殺される危険もなく、友達同士が喧嘩しながら仲間の輪を広げることで成長できた世の中だったから、放っておいても心配せずに済んでいた。

中学生になれば、特に女の子は難しい思春期に入り、目にするスタイル雑誌や、コマーシャルに釘付けになり、成長期の体を知らず、進んで朝食を取らない子が増えることは察しがつく。そのくせ、朝シャンと呼ばれるおしゃれには時間を割き、節食に嵌っていく。親は適切に生活指導することもせず、食べないなら用意する手間が省けて助かる、ぐらいの感覚で子どもの勝手にさせる。お父さんは、或いはお母さんは「仕事が忙しいんだから」、が免罪符になり、大手を振っての理由になる。子どもの健康を顧みずに言葉は悪いが金儲けに精を出す。

持参する弁当に貧富の差がでるから、と学校給食が普及した。貧しい時代はそうやって差別を避けてきた。現在の食料事情や生活水準から考えて、学校給食はもはや廃止してもよい。親は子どもの成長に伴う健康管理に気を配るようになるだろう。昔のお母さんたちは、現在働きに出ているお母さんたちや、女性たちよりも遥かに厳しい仕事をこなしていた。便利に電気で動いてくれる機具は何もなかった。今は便利に慣れすぎて心までが贅沢になっている。心の贅沢には際限がない。1つクリアすれば次にはもっと高い贅沢のバーが見える。贅沢を贅沢と考えなくなる。無くても済ませる贅沢品を買い込み、反面返済に苦しい苦しいと声を上げる。そのための金を儲けなければやっていけない。

振り返って子どもの幸せを考えなくなる。口では「子どものことを考えない親がいるか」と言うが、やっていることは親の勝手なわがままなことが多い。「すまないと思うこともある」と口にするが、結果は同じことで、生まれたばかりでも平気で他人に育児の世話を任せる。乳房を含ませて育てる最初の食事からできていない。

今の世に、欠食児童に学校が悲鳴を上げている。

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2006年5月21日 (日)

就職性差別

大卒者の就職率が、厚生労働省の調査で96年以来最高の水準となった。バブル期とほぼ同じとする民間のデータもあるが、大学の就職担当者らは「企業の厳選傾向は変わらない。内定を取れる学生と取れない学生に二極化している」と気を引き締めている。

東京都内の法政大学を今春卒業した学生の就職率は、前年比で6ポイント近く上がり、95%だった。人間環境学部4年の女子学生(21)は、「追い風は感じるが、みんなが売れるわけではない。メーカーを20社回り、まだ内定はない」と厳しい顔で話す。同大学の就職担当者は「バブル期は数合わせと言えるような採用もあったが、昨年は企業も厳選採用を崩さなかった」と。

企業の採用数の増加で学生が大企業を志向する傾向にあると言い「中小企業の採用にしわ寄せが出るかも知れない」と話す。このところ日本企業の特色であった終身雇用の見直しも囁かれ、安定志向の強い若い世代には、大企業寄りの施策を打つ政府の元では、わざわざ苦しい中小企業を選ぶことは勇気のいることだ。当然のように雇用形態のしっかりした大企業へ目が向くのは自然な流れでもある。

リクルートのワークス研究所が実施した大卒求人倍率調査では、07年度卒業予定の大学生・大学院生に対する民間企業の求人は約82万5000人、前年より12万6000人増加。84年の調査開始以来最多だった。91年の84万人に次ぐ水準だった。「リクナビ」と「就職ジャーナル」の編集長・前川孝雄は「内定が取れる学生と取れない学生に分かれる側面もあり、必ずしも就職活動が楽になったわけではない」と話している。

学生にも格差が、と注目したがるが、これはそのような問題ではない。昭和の初期(1929年)「大学は出たけれど」という映画が作られたように、今よりももっと厳しい冷たい就職戦線があった。10月24日、永遠に続くかと思われたアメリカの繁栄に、突如ストップが懸かる。ウォール街で始まった株の大暴落は世界中を巻き込んで大恐慌となって日本を襲ってくる。職はなくなり、優遇された高等教育も役に立たなかった。農村では家を継ぐ長男以外は都会へ出て働いていたが、不況のあおりで帰郷しても、邪魔者扱いで都会へ舞い戻り、浮浪者となる以外に道はなかった(彼らのことを指して ルンペン と言う言葉がはやった)。そして日本は、軍部主導で2年後に始まり(満州事変)、以後、長い長い侵略戦争の戦端を開く準備に追われていた時代だった。

当時とくらべると、現在は余ほど恵まれている。ニートやフリーターと言われる穀潰しに近い連中が、楽に生きて行かれる世の中なのだ。就職先の企業も当時とは比べられないほど多くの数が揃っている。にも拘わらず、どうして「みんなが売れるわけじゃない」「学生にも格差」と言わねばならないのだろう。当然のことだが企業は優秀な人材を求めている。大学を出たからとてみなが優秀とは限らない。今の教育、順位をつけないらしいが、企業は明確に順位で採用して行く。ただし、その基準には各社特色があり、必ずしも学歴だけではない採用基準をもつところもあるだろう。企業イメージにあうオリンピックレベルの、眉目秀麗なモデルに、もありだ。

今、最も注目されるのは、男か女かについてのことになる。就職で性差別を受けるのは女だけではない。つい最近のことだ。人材派遣会社の事務職の求人に応募したら、男性であることを理由に採用を断られたとして、大阪府内の専門学校生(29歳)が大手派遣会社5社を相手取り、大阪簡易裁判所などに一社当たり15〜5万円の賠償を求めて提訴していることがわかった。大半の社が請求を認めたり、和解に応じた。性別を理由にした就職差別を巡る男性の訴訟は極めて異例である。

訴えによると、男性は今年2〜3月にインターネットで派遣5社の求人募集を見て「特許事務所の英文書類ファイリング」「商社の事務職」などの求人に応募した。募集要項に性別の条件はなかったが、派遣会社から「派遣先が女性を希望している」「女性向けの仕事」などと断わりのメールが届いた。彼が「性差別ではないのか」と抗議したところ、各社とも口頭や文書で謝罪したという。しかし、企業によっては「社員教育が徹底していなかった」などとするケースもあり、同法違反や精神的苦痛を理由に3月に提訴した。

これに対し、一社が請求を受け入れる答弁書を提出、請求額の15万円を支払った。他の4社のうち3社は「同法は男性を保護するものではない」として争う姿勢を見せる一方、「会社側にも不手際があった」として和解に応じている。解決金額は8千円〜3万円。残る一社も和解に応じるとみられている。
これに対して厚生労働省雇用均等政策課の話は。「男性差別の存在は把握しているが、訴訟は聞いたことがない。本来、男女に関係なく性別を理由とした採用、募集はあってはならない」と言っている。

最早弱いのは女だけじゃない世の中になったようだ。これも当然の現象といえるだろう。
従来あった働く人間を受け入れる企業の数は、産業の発達とともにある程度は増えるものだが、無制限ではない。採算の取れない会社が増えることがないのが資本主義の鉄則だ。ところが働くことを望む人間は古くは、多くの職場が男性で占められていたが、女性の仕事への欲求が高まり、近年では特に均等法が設けられ、雪崩をうってその数を増やし続けている。そこで何が起こるか。

簡単なことだ、一つの職場に二倍の数の仕事を求める人間が発生したことになる。10人で済む仕事に20人は要らない。男であれ、女であれ、従来の5人を馘にするか退職がなければ新しく採用することは不可能だ。そこには競争が生まれる、優秀な人間が優先的に採用される、生産効率が望まれる、企業の継続を考慮した採用が優先する。続いて男か女かの問題が付いてくる。  — 未完 —

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2006年5月20日 (土)

カタカナを改めよ

毎日新聞(5/20)から
「ホームヘルパー」「ケアワーカー」「ケア・ハラ」私は理解できなかった。
題して『ホームヘルパーなのに家政婦と混同された』とある。どうして?、「家庭の補助をする」となっていれば一般的には家政婦のことと理解していいのではないのか。これを限定して「身障者の介護者」とする方がおかしい。新聞にもその文字の横に、『介護従事者』とわざわざ記してある。日本語で表記できるものを何故カタカナ語にするのか。「ケアワーカー」にいたっては初耳だ。

こう書かれている。「介護サービスを職業とするホームヘルパーやケアワーカーの多くが、利用者やその家族から、様々な形での「ケア・ハラスメント(嫌がらせ、人権侵害)」を受けた経験を持っていることが、八戸大人間健康学部の篠原良勝・専任講師のアンケートでわかった。これを新聞はこう書く。《「多くがケア・ハラ」体験》と。世界一の長寿国になり、老人の多い国になっている。そうでなくても日常生活で横文字に強くない(必要のない)人は幾らでもいる。次から次に生まれるカタカナ語、規制の働きかけもある中で、なぜこれほど適格に表現の可能な「介護」の言葉をわざわざカタカナにして分かりにくくするのか。ケア・ハラとは何と言う表現だろうか。書いた跡からカッコつきで意味を付け加える。一時「北朝鮮」と口にしてから、御丁寧にも正式国名に言い直していたメディアがまたまた同じことをしているのだ。
「ホームヘルパー」や「ケアワーカー」が。家政婦と間違われるのはちっとも可笑しくない。“嫌がらせ”で解ることを「ハラスメント」と書く。覚えなくても理解できるものを、覚える必要もない。家政婦と混同されるのは当然だ。
「家政婦と混同している」といった利用者らの「意識・態度」から受ける嫌がらせ(新聞は「ケア・ハラ」と表記)の他、「身体的・精神的暴力」や「性的嫌がらせ」なども経験しており、厳しい労働実態が浮き彫りになった。

アンケートは05年6月〜9月に東京、静岡、岡山、北海道などの10都道県のホームヘルパーとケアワーカー計500人(回答率57・2%)に実施したもの。
 利用者の「意識・態度」による嫌がらせ(ここもケアハラ)経験者は 80・3%
  内容は「家政婦と混同」が最も多く
     「1人で出来るようなことを頼む」
     「介護サービスは『利用者や家族がしてもらいたいことをしてくれるサービス』と思っている」
  また、「身体的・精神的暴力」の嫌がらせ(ここも「ケア・ハラ」)経験者は55・9%
  内容は「殴られた、蹴られた、噛まれた」
     「物を投げられた」など。
 また、不必要に手を握ろうと求められたり、胸や尻を触ろうとされたなどの、「性的嫌がらせ」の経験者は42・3%いた。

この他、掃除や洗濯など、「介護サービスの対象ではない業務の依頼を受けた」79・5%や「厚生労働省の通知で示された以外の医療行為を依頼された」64・9%も多かった。

アンケートを実施した篠崎講師は「『意識や態度』のケア・ハラが予想以上に多かった。利用者やその家族は、介護従事者の仕事をきちんと理解してサービスを受ける必要がある。『あの時は悪かった、戻ってきてくれ』と言っても後の祭りだ」と指摘している。

それは変だ、私にはホームヘルパーと ケアワーカーの違いが解らない。それに携わる人たちだけが解る言葉では 理解しろ と言っても無理だ。まして自分たちが勝手に拵えるカタカナ造語では何も伝わらない。介護を受けるお年寄り(現在圧倒的に多い)人たちはカタカナ語を知らなくて普通だ。私の世代(昭和一桁)は英語は敵の国の言葉として排斥することを教えられ、極端に拒否反応を持つ。ましてそれ以前の生まれのお年寄りが、カタカナ語を理解しなくて当たり前だ、ということを理解する方が先になる。用語が曖昧だから解釈が多様化することになる。「ホーム」が介護を必要とするひとの表現とはとても思えない。家庭一般、家族一般のことと思うのが正当な受け止め方だ。ケアだって何のケアか理解に苦しむ。風呂掃除、洗濯、みな包含されるような言葉だ。お手伝いさんか、家政婦と思うのが普通の受け止め方だ。

日本語で表現可能なものは早く、日本語に戻して表記するべきだ。

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2006年5月19日 (金)

モーツアルト症候群

Maestro

 くつろぎのときを過ごす部屋の壁


Wamozart

 ヴァイオリンを抱える少年時代のモーツアルト(銅板・エッチング)



15年前に没後200年の盛り沢山の記念行事が終わったばかりだが、低迷する業界も旨い汁を吸ったのだろう、今度は生誕250年で二尾目の泥鰌を狙って、動いているが、今度はちょっと違うようだ。近年とみに流行りになっている癒しに注目したコンサートが開かれ、モーツアルトの曲を集めたストレス解消や健康効果をうたったCDも作られているようだ。

「モーツアルト健康法」を提唱している埼玉医科大の和合治久教授の研究室では、数人の学生たちがヘッドホンを耳して、一心にモーツアルトを聴いて、人体への反応を調べる実験に参加している。
なぜ、モーツアルトなのか。「モーツアルトの音楽には、ストレスの溜まった体をリラックスさせる副交感神経を刺激して、バランスを取ってくれる効果がある」と教授は言う。モーツアルトの曲には
 ⑴ 人間が聴きやすい4000ヘルツ前後の音が多いこと
 ⑵ 小川のせせらぎのような人間にとって心地よい「ゆらぎ*」があること
  * ゆらぎとは、ほぼ一定のリズムの中に、ある程度の不規則性が含まれる状態のこと。
などが理由に上げられる。

1993年、アメリカ・ウィスコンシン大学の研究者たちが、モーツアルトの曲を聴くと知能指数(IQ)が向上するという実験結果をイギリスの科学誌「ネイチャー」に発表したことがある。「モーツアルト効果」とそいて世界的な注目を集めたが、アメリカ・ハーバード大学の研究者らが99年、その効果を否定する論文を同誌に発表した。和合教授も「音楽を聴いてリラックスし、集中力が増加しただけで、IQとは関係ないと思う」と懐疑的である。

そもそも【音楽療法】とは音楽の演奏、鑑賞で心身の健康を増進する療法。音楽の効果は古くから知られているが、現代の音楽療法は第一次、第二次世界大戦で心身が傷ついた兵士の治療を契機に、アメリカで発達した。認知症や知的・発達障害、総合失調症などの治療や、、入院患者の心の安定などに用いられている。

右と言えば右に、左といえば左に、一斉に動き出す日本人、一昔前、日本人が団地住まいに慣れ始めたころ、一軒の家にピアノが運び込まれたとする。ドアの隙間から何人もの奥さんたちがじっと息を殺してその様子を覗いている。旦那が仕事から帰ってくると、どこの家でもピアノ購入の話でひざ詰め談判が交わされる。間もなく誰某の家には遅れを取りたくない、と我先にピアノが運び込まれる。わが子の才能などには関係なく、対抗意識と見栄の投資だった家庭では、嫁入り道具にもならずに埃をかぶったまま邪魔な存在に成り下がる。これは一種のピアノ症候群、現在のモーツアルトも言うなればモーツアルト症候群だ。

誰かが「良い、効く、確かに」と言えばそっちに飛びつく。日本人の主体性のない付和雷同の流行(ファッション、化粧、衣服、髪型、などなど)を追い掛ける心理と寸分違わない。小沢が評判になれば彼のCDに飛びつく、ハリー・ポッターに飛びつく、韓国ドラマや、ペ、に飛びつくのと同じだ。政治すらその傾向にある。人気投票か票取りか、のレベルでしか選挙は認識されない。施策など空っぽでも人気は続く。

モーツアルトも同じだ。もともとビールのジョッキ片手で飲みながら聴ける音楽の多かった彼の曲、或いはヘンデルの曲。大体が「ターヘルムジーク」なる言葉は、「食事の音楽」という意味だ。皇帝貴族たちが、わいわい、がやがやと喋りながら食事する傍らで、楽員たちが、食欲が進むように、優しく弾いて聴かせたのが「ターヘルムジーク」だ。それをクラシック音楽というジャンル分けで、いかにも高貴ぶって、咳(しわぶき)一つ許されない別空間の雰囲気を作り上げ、タキシードに夜会服にしてしまった罪は誰にあるのか。確かに、ベートーベンのような苦虫を噛み潰したような、いかつい顔面とそれに似合った音づくりの曲もあり、畏まって拝聴する気にさせる音楽もある。また、厳かな雰囲気の教会で聴くに相応しい曲もある。

今の日本のモーツアルト、これはもう医学の世界で言う「ポリシーボ効果」としか言い様がない。昔、行商の薬売りをからかった囃し歌があった。「鼻くそまるめて萬金胆」だ。「どこが悪いの?ああ。そう、それじゃこれでも飲んで置きなさい」。医者が渡したのはただの「水」だった。それでも医者に貰った「水」を飲んだ患者は‘けろり’と熱も下がり、治ってしまった、という。「水」は魔法の「くすり」となって効果を現すのだ。これをポリシーボ「ポリシボ」効果という。こうなればもうモーツアルトでないと効かない。他の作曲家ではダメになる。誰でも好きな音があり、それぞれに心を休めてくれる曲があるはずだがどうにもならない。これはもう症候群の弊害でしかない。モーツアルトのどの曲にも安らぎの音が鏤(ちりば)められている訳じゃない。不協和音の多い頭が狂いそうな曲だってある。

心安らぐ音楽は人それぞれにあって、好みも異なる。人それぞれお互いに好きな曲を聴けばよい、それは何もモーツアルトには限らない。年老いてきた私には、若いころ敬遠していたバッハが最も心に響き、気も静まる。

現在の日本のモーツアルトを流行りの言葉で言えば、間違いない、
 『モーツアルト・シンドローム』という病気だ。

 

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2006年5月18日 (木)

器に個性はいらない

「スリップウエア」
18世紀から19世紀にかけて英国でつくられた日用雑器で、模様を描くのに使われる化粧土(スリップ)が名前の由来になった焼き物。この焼き物を現代に蘇らせて作り続けている陶芸家がいる。東京都生まれ、柴田雅章氏(国画会会員、大阪日本民芸館理事・展示主任、57歳)

大正期、民芸運動の創始者・柳宗悦や浜田庄司、バーナード・リーチらによって、その美が発見され、日本に紹介されている。暮らしと仕事が一体化していた時代、土を掘り、生活の灰を釉薬(ゆうやく=うわぐすり)に使い、薪で窯を炊いた。彼はいう、「そうやって出来た器は日常使うものでも動かしがたい強さを持っている」そんな「暮らしの力」を意識しながら、丹波篠山で灰釉と登り窯による「現代のスリップウエア」を作り続けている。1975年に登り窯を作り、「柳や浜田にくらべれば、まだ力は弱いけれど、技術を途絶えさせないためにも続けなければならない」と、日本に持ち込まれたスリップウエアのリストを作り、世界最大と言ってもいい展覧会を日本国内で03年から04年にかけて開催している。

人間国宝、或いは著明な作家の手になる使用を目的としない日常品、気楽にお茶も飲めないような茶碗、花も活けられることもなく眺めるだけに飾られる花瓶、直に手で触れることも叶わぬ壷。作るそばから何十万何百万の値がつく陶器やその他のもの。そのような物には何の価値もない。日常使って傷ついて、破損してこそ意義の有る茶碗や花瓶なのだ。柳や浜田らが見い出したのは、消費の中にある美、であったのだと思う。芸術は爆発だ!!で有名な岡本太郎、彼がパリから戻り、見い出した縄文土器の美もそうであった。決して稚拙と言うべきものではない。現代陶芸家も及ばないセンスを持ち、高い技術を持った人たちだったのだ。それを生業(なりわい)とする特種の人たちの作ったものではなく、至る所で誰でもが作る技術を所有していた。生活に使用するのに如何に便利に、使いやすく、壊れてもすぐに代わりが手に入る。日常雑器の真骨頂と言える。

かれらはそこから形を変え(デフォルメ)ることを知り、変形(バリエーション)を生んで行く。決して個性ではない、どちらかといえば、没個性だ。何百年に亙って殆ど変わらぬ形を持ち続ける。遺跡から出土する数えきれないそれらの遺物を見れば、いかに使いやすく作られ、壊れやすいかも理解できるだろう。人の目に触れない密室で、好事家だけが手にし、にやにやするものを作っても、それはもはや日常雑器ではない。

姫路城の中庭に「お菊井戸」と呼ばれる井戸がある。城が築かれる以前、そこにあった屋敷跡が取り込まれて姫路城が築城されたのだが、そこには以前青山播磨なる侍の屋敷があった。家代々伝わる家宝の10枚揃いの皿を、女中の菊なる女が1枚破損した。播磨はお家乗っ取りの悪だくみで菊が皿を割るように仕向けたのだが、渡りに船と問答無用で女を切り捨て、井戸に投げ捨てた。そのことがあってから、夜な夜なその井戸から「1枚、2枚、3枚・・・・9枚・・・・、1枚足りない」と女の啜り泣く声が聞こえてきた。これはご存知『番長皿屋敷』だが、生者必滅会者定離、形の有るものは何時かは必ず壊れる。その度に殺されては命が幾つあっても助からない。

高松塚古墳の内部壁画、密室の中でどんどん劣化が進んで行く。元々は人の手を入れてはならない他人の墓だ。そこに禁を犯して侵入し、学術調査だ、歴史の解明だと勝手なことをする。限られた特権保有者だけの世界だから悪事も闇の中、となる。前にも書いた、一刻も早く解体し、現在の科学で万全と思う対策を取ることが必要だろう。密室で放置することが最も危険な保存状態となる。小西六がカラー写真(銀塩写真)の長期保存可能の年次を100年と謳って発表し、フジフィルムはそれ以上、と追いかけたことがあった。写真より先に会社が消えそうだ。高松塚古墳、現時点でどう対策しても、この先何千年、何万年を維持する保証などないに決まっている。

岡本太郎が1954年に仲間と作った「今日の芸術」初版誌上の言葉。
 今日の芸術は
  うまくあってはならない
  きれいであってはならない
  ここちよくあってならない
 と、私は宣言します。それが芸術の根本条件と確信するからです。

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 こちらは稚拙。現在40歳近い長男が、小学二年の頃の作


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 内部には小鳥が泳ぐアイデアだ

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2006年5月16日 (火)

サッカーにメディア大騒ぎ

昨日・今日、メディアのサッカーに関する報道は過熱過ぎた。テレビは選抜の段階でのジーコの一言一言に反応する選ばれる側の男たちの悲喜こもごも、その後のニュース番組でながす報道は、昨日の夜から明けて今朝のテレビも新聞も、その過熱振りはどこのチャンネルでも異口同音の語り口だ。

振り返って、大活躍した野球の世界戦、メンバーがいつ決められたのか、どれだけの人数だったのか、詳しい報道はなかったように記憶する。話題になったのは、海の向こうの日本人選手の誰が加わるのか、なぜ一人だけの参加になったのか、ああ、彼こそ本当に日本を愛していたのか。ぐらいのことだった。その結果が最後まで残って世界で一番強いことになってしまった。するとどうだろう・・・後は言わずもがなのことだ。

今朝の毎日新聞、30ページの紙面づくりに8ページもの紙面を割いた。トップの一面はカラー写真で全員の顔写真。うしろのページではご丁寧に全選手の競技中のスナップのカラー写真まで載せる親切さだ。或いは選に洩れた実力者と、その怪我で救い上げられた選手との2枚のクローズアップ。‘日本が大好き’という監督の「国のため一丸」が大書され、教育基本法改正案の“愛国心”の後押し宜しく抜かりない。

反面、今まで国技として認識していた外国人横綱の休場の大相撲は、毎日の勝負が行われていても、ちっぽけな写真の一枚もなく、片隅に追いやれれた取扱いで寂しい限りだ。そう言えば現在では国技に名前が上がるのは、必ずしも相撲が一番とは限らずに、野球であったり、サッカーであったり、柔道であったりの、何でもいい、といったものになったようだ。確かに日本人以上に耐えることのできる人間が、家族のために、との高見山(その前には力道山もいたが)などハワイから始まった外国人力士の加入が目立ち始め、その逆に、豊かになった日本の少年、青年たちは、苦しみに耐えることを嫌がって、厳しい稽古から逃げ出した。勢い外国人力士に頼る傾向が生まれてきた。

勢いの落ち目の相撲や野球にマスコミは冷たくなって行った。新興勢力のサッカーに飛びつき、紙面の記事に対する取扱いにも微妙な変化が起こった。野球に対しては海の向こうに脱出して行った人間を、衛生放送のネットワークまで使って連日追い掛け、国内のリーグの取扱いを軽んじた。ただ一球団、驕り続けたチームにもはっきりと翳りが見え始め、テレビ視聴率も最低を記録し続けた。ますます日本の野球は輪を掛けて凋落の道に陥った。そこにちょうど救いの世界戦だった。勝って初代のチャンピオンで終わった。ここでもマスコミはバカ騒ぎで紙面を拵えた。曰く「野球がベースボールに勝った」などと。相撲の世界ははちょっと深刻だ。しばらく日本人横綱がいない。先の横綱のうち2人が家族問題で醜い姿を曝し、1人は格闘技の世界に入って見苦しいほどの無惨な姿を曝し、相撲界に泥を塗っている。人気の高かった横綱たちだけに相撲界の受けた打撃は大きかろうと思う。

今回のサッカー騒動、野球のような成績が出せなかった時、参加したことに意義があった、で終わるのだろうか。マスメディアは何と書くだろう。それに何かにつけてテレビでも新聞でも使用することば、『日本中』が見守ったという昨日の発表、私にはどうでもよいことだった。日本人の何パーセントを指して『日本中』というんだろう。

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2006年5月13日 (土)

親の責任

Botan_

牡丹 と 日本しゃくなげ



Shakunage


隠岐の島(白)と 屋久島(赤)のしゃくなげ



やっと新聞が『親の責任』について社説の記事として掲載した。毎日新聞(5/13)が「雨の中ずぶ濡れの子は 無責任な親のせいだ」とタイトルを附して。
私が昨年5月に、ブログを立ち上げたそもそもの目的が、現在の荒れ狂う世相を拵えた遠因が、敗戦後の親たちの(国家の経済復興に努力した反面、逆に、だからこそ結果)無責任な子育てにあったことを、その敗戦を経験し、くぐり抜けてきた昭和一桁の目で、おこがましくも言わねばならないと感じたからに他ならない。

ますます血腥(なまぐさ)くなっている犯罪、このところ特に低年齢化して凶悪犯罪の目立つ報道は、書き続けてきたように、親が子供の監督責任を放棄した結果から生じたものだ。新聞記事から考えてみたい。(要約)

《雨降りから、どんな光景を連想するだろうか。傘をさすか、雨宿りするか。童謡のように、傘を持って迎えに来た母親と子供が手を繋いで歩く姿を思い描くかも知れない。ところが、最近は雨の中の自己像を描くテストをすると、ずぶ濡れになった絵を描く子供が増えているのだそうだ。

このテストは「雨の中の私」と呼ばれ、各地の少年鑑別所で、非行少年の家庭環境や養育暦などを探る精神分析的手法として行われてきた。とくに親子関係を通じた安全感覚があぶり出されるといわれ、一般には大切に育てられ、親に守られている子供は当たり前のように傘をさす絵を描く。一方、親から庇護された体験に乏しい子供は、自分を防禦する力が不十分なため、雨にもなすすべがなく、ずぶ濡れになる自分を描く。ストレスにさらされた痛々しい心のうちの表われ、と考えられる。つい最近は福岡の鑑別所で30%、横浜では42%が雨に濡れた絵を描いたとの報告もあり、今後も増加する傾向が認められるという。

この手法が必ずしも厳密に親子関係を示すわけではない。だが、少年事件の関係者は経験則から、ずぶ濡れの絵の増加は、親子関係の歪みを投影する無気味な現象と受け止めている。少年院の教官の約8割が「指導力に問題のある保護者が増えた」と指摘している事実とも、児童虐待の増加とも、底のところで通じている。

少子化が、補導・逮捕の人数には歯止めがかかったのに、依然として人口比が高いのは気掛かりである。非行に走る少年の割合いが増えているからだ。少年院などでは処遇が困難な少年の増加も、大きな問題となっている。一昔前のように暴れて教官を困らせる粗暴型ではなく、ストレスや不安を抱えきれずに、泣叫んだり、情緒不安になるタイプが主流になっている。非行の年令も、14歳から16歳だったのが、最近は年長になっても低下しなくなっているのも不安材料だ。それでも成長に伴う通過儀礼型の歩行が減少し、成人後は常習犯罪者になる少年が目立つからだ、という。

こうした状況とずぶ濡れの絵の増加は、不思議に重なりあう。外見上の差異はなくても、親の愛情を一身に受けて育つ子と、親に邪見にされる子がいる。今に始まったことではないが、最近は後者が目立つというわけだ。養育上の格差というよりも、親の格差というべきかもしれない。例えば、離婚した両親がそれぞれ自分たちの恋愛に夢中になり、子供をほったらかしにしたため、子供が非行に走る・・・・といったケースまで激増しているのが実情といわれる。
親が子を庇護しないから、子は親を信じられず、非行も止められない。その責めを子にだけ負わせてはなるまい。少年法改正による厳罰化より、親への対策に取り組むのが急務ではないか。》

男女機会均等法で女性の職場参加が当たり前の世の中になっている。昔は家にいて家事万端をこなし、働く男の支えとなって子どもの躾け、教育は母親の威厳の元で行われていた。やんちゃ坊主も母親の一喝でおさまり、道を誤らないように見守っていた。敗戦によってアメリカから授かった民主主義は、自由を謳歌して責任を置き去りにして来た。敗戦の年、1945年10月、悪名高かった戦時の治安維持法が廃止され(今また、再び共同謀議に名を変えた法案が懸案となっているが)同じ年12月、占領軍(GHQ)による修身、日本歴史及び地理の授業の停止を指示されて(これまた、再び教育法案で『愛国心』問題として俎上に上がってきた)いる。占領政策による国の解体が進められるままに人々もまた、生きる支えを見失っていた。

敗戦後の国の復興につれ、働くだけの生活が始まり、男たちは労働に汗を流し、家庭を顧みることをしなくなって行った。まだ家庭は女が守るもの、との意識が根強く残っていた。しかし、戦時中男がいなくなった仕事場で、女性たちは立派に男に替わり工場で働いていたのだ。炭坑の中まで入り、汗まみれで鶴嘴を振り上げ石炭を掘るものまでいたのだ。アメリカの民主主義から‘女性上位’なる言葉を輸入し、女性の意識を政治への参画から仕事場へ目を向けさせた。

雪崩をうったように職場への女性の進出が始まり、瞬く間に男性を脅かすところまで成長してきた。私はそうなる前に、男性の反撃が起こることを想像していた。男が我慢できないところまで女性の勢いが迫ったところで男の反撃があると。予想は見事に外れた。その気概を持つ男は出てこなかったのだ。それどころか女性の勢いに飲まれた男どもは、逆にひ弱に女性化する方を選んだのだ。女性の職場進出は女性だけが家庭を守ることを放棄し、育児は男にも半分の責任はあるとし、それならばと他人が用意した一時預かりの場に乳飲み子から預ける挙に出た。子どもの成長の始まりの根本になる母親が必要な時期にだ。いにしえから有る育児の鉄則は‘黴の生えた神話’であるといって、身近で躾けることを放棄した。これでは母親の愛情を与えられない子が増えるのは当然の結果だ。そのような子が「雨の中の私」に傘をささないのは当たり前と言えるだろう。叱ってもくれない、褒めてもくれない。ただ、一時預かり所から受け取って帰った、短い時間だけ、猫の仔のように可愛がるだけで育てた子が、社会で仲間や他人との交流が持てなくても不思議ではない。

女性と仕事についてはほとんどの女性は反論が有るはずだ。この問題は項を改めて書きたい。

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2006年5月11日 (木)

ことば

毎日新聞(4/30 及び 5/7)から
⑴ 「障害者」を「障験者」にしよう、という提案
⑵ 聖書の表記「らい病」を「ツァラアト」に書き改めよう、という提案

先ず ⑴から 東京都身体障害者団体連合会国際部部長・阪本英樹の言い分(要約)
 《一般社会に定着しているマイナスイメージから、国内外を問わず、長い間、くり返し議論を巻き起こしてきた、といい、英語を持ち出す。「Disability」そもそもこの言葉には「Ability(能力=適性や技能など)」を打ち消す語として使われており、事実、「Disability」という用語は、世界中の社会政策文書や法律文書などで使用されている。01年5月22日に行われたWHO(世界保健機関)総会では、新しい見解として「個人因子」と「環境因子」から捕らえるべきである。つまり、人間として生まれ、成長し、やがて老いを迎えていくライフサイクルにおいて、誰もが身体に何らかの変調や病気を背負うことが運命づけられているということであると説明している。人によって異なるのは「いつ障害を背負うのか」「どの程度の障害になるのか」ということだけであるという。

にも拘らず、わが国では、いまも「障害者」という呼び名は日常用語として広く使われている。「障」は「*じゃまになる」という意味合いがある。一方「害」は「災い」「妨げ」というニュアンスが含まれている。【引用者*「障」の1義は「じゃまになる」ではなく、「じゃまをすること」であり、2義には「防ぎ隔てとするもの」の意味もある】

近年わが国では「障がい者」や「チャレンジド」などの呼び方が代用語として使われているが、どちらもやや不自然な感があり、一般社会に定着したとは言いにくい。【全くその通りだと思う、私にとっても始めて目にし、耳にする言葉だ、漢字を平仮名に置き換えても(耳に届く音には何も違いはない)真実が見えなくするだけだし、西洋かぶれの横文字を使うのは、流行りではあっても、ごまかしでしかない。誰にでも理解できる日本語で表現すべきだ。とは言っても、「痴呆症」を言い換えた「認知症」は全く意味不明の言葉だ。差別や偏見を助長するとして作られた言葉だが、そう思うこと事体、偏見と差別なのだ。例えば、わが子と‘認知’する、と使用するが、それに‘症’の字をつけて意味はどう解釈する。パソコンの文字変換さえまだ追い付いていない。任知将人知将、任知将人知将の繰り返しだ。(例は“ことえり”】

そこで彼は提案する「障害者」を「障験者」にしようと。そこでまた彼自身が拵えたという英語の造語を持ち出す。XPD(The people experienced disabilities)として。
【彼は言う】所詮、「障害」とは人間のライフサイクルにおける1つの経験でしかない。「障害者」対「健常者」という図式は対立概念をつくり出し、さまざまな偏見を生み出す温床である。もっとも、「障害者」をどう呼ぼうと、存在する事実に変わりはない。しかし、呼び名は単に用語の問題だけではなく、障害者に対するまわりの人々の態度の問題と直結している。言葉が変わることによって障害者への社会一般の理解や認識も変わることは十分あり得る。と》

ここで彼が例として上げたのが、戦後の歓楽街に犇めいていた「トルコ」と呼ばれ、男の癒しの場にもなっていた「特殊浴場」だ。大勢のトルコ嬢と呼ばれた女性が働き、さもアラビアンナイトの世界を彷佛し、ハーレムを想起させ、鼻の下を伸ばした男どもが競って集まったいかがわしい場所であった。来日したトルコの一青年が、その名は国を冒涜するとして異義を申し立て、全国一斉にその呼び名が消えた快楽の場だ。日本人にしてみれば遠い昔の夢の国、大勢の女性にかしづかれたい思いで汗を流していただけだった(と、思う)。それが、一歩間違えば、外交問題にも発展しかねない当該国への蔑視ととられることになる危険を含んでいた。女性には別の問題はあるが、日本の男にはハーレムは憧れであって偏見でも差別でもなかったのだが。

彼は「障害者」を人間のライフサイクルにおける一つの経験でしかない、と言うが、一つしかないライフサイクルを、生まれついての重度の障害を持つ者にも只の一つの経験でしかないと言えるのだろうか。生まれ変わっての人生を期待せよとでも言うのか。その当人にしてみれば、全てのライフサイクルが障害者として生きる人生になるのに、「経験」で済ませ、というのだろうか。⑵に触れてからまとめるが、私には別の考えが有る。

続いて ⑵ 、岡山県瀬戸内市邑久町の「長島愛生園」にある長島曙教会の牧師・大嶋得雄(65)の活動から
 聖書中の「らい病」(癩病)や、「重い皮膚病」などの表記を改める活動を続けている。これまでに普及率の高い聖書【世界一のベストセラー本である】で表記をやめたケースもあるという。今年は、らい予防法廃止から10年になる。

聖書の知識は不足するが、旧約聖書のレビ記には「ツァラアトの者は(中略)『汚(ケガ)れたもの、汚れたもの』と叫ばなければならない」「衣服はツァラアトが生じた時は(中略)その物を火で焼かなければならない」などとある。「ツァラアト」はヘブライ語で、日本語訳では「らい病」、英語などでも「ハンセン病」と訳されてきた。彼は1983年6月、同教会の牧師となって間もなく、教会員を連れて別の教会に行った時、伝道師が「らい病」を罪の象徴のように語るのを聞いている。

最初はそのような説教を録音したテープの販売の中止を訴え、97年頃からは聖書の出版元への働き掛けをを始めてきたという。00年から2年間、アメリカの神学校に留学する。そこで「ツァラアト」がハンセン病を限定する言葉ではなく、人間の皮膚や衣服、家の壁の表面が損なわれた状態を総合してあらわすものであることを確認する。

予防法廃止と大嶋氏らの活動で、出版元も見直しに着手し、国内で普及する4種の聖書のうち一つは「らい病」の表記を「ツァラアト」に、二つが「重い皮膚病」に改訂した。大嶋氏は「『重い皮膚病』でもハンセン病を連想する。無理に訳さず、原語の使用を」と訴えている。

⑵を書いてからまとめるとした私の考えはこうだ。
言葉で漢字を平仮名にしようと、カタカナにしようと、はたまた横文字で表わそうと、何も改まらない。なぜか、そこには深層心理に潜在する差別、偏見が拭い去られることなく残るからだ。失恋で、忘れようと努力すればするほど、「忘れようとする物は何か?」という、忘れる対象を思い浮かべるジレンマ(嫌いな横文字だが)に陥ることと同じだからだ。どうすればいいのか、失恋は時が過ぎるのを待つ以外にはない。自然に思い浮かぶこともなくなるまでの期間があれば済み、傷も癒える。

むかし、高座では障害を持つ人を取り上げて話すユーモラスな噺が幾つもあった。悪意はない、差別もない、蔑視もない、嘲笑もない、同情もしない。ありのままを認めた。明るい話題があった。本当の平等があった。耳の聞こえない人をつんぼと呼び、目の見えない人をめくらと呼んだ。足を引きずる彼をびっことからかった。追い駈けっこをして遊んだ。鬼さんこちら、と。蔑んでの事ではない、相手の人格を認め、目をそらさず対等に向き合うためにはそれが本当の接し方になる。

日本語では不味いから、と外国語を訳さないでカタカナ表記でごまかす。この方がよほど差別をする底意を感じることになるのではないか。何という意味かを調べる、ああそうなのか、そういうことだったのか、と。最初から教えておけば済むものを、隠しだてするような言い換え語やカタカナ語では役に立たない。現在のように同情(人は人間性と言うかも知れないが、人を殺すのも人間だし、騙すのも人間だ)を下敷きにしたような言葉を作り上げても逆効果になるだけだ。「障害」がだめなら「障験」に、「痴呆」がだめなら「認知」に、「癩」や「らい」がダメなら「ハンセン」に、それもダメなら「ツァラアト」にするか。これでは解決にはならない。なぜそうしなければならないのか、どうしてそうなったのか、を意識している間は差別も偏見もなくならない。お互いに心の底からぶつかり合い、向き合うところから言葉の壁、障害の壁は溶解していく。
本質は、隠すほどに表われるものだ。

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2006年5月10日 (水)

デブと高血圧などが原因

いま頻りに取りざたされている、わけの解らないやこしい病気『メタボリック・シンドローム』とは一体何?
日本人に解りやすい日本語では表現できないものなのか。単語をそのまま表現すると「代謝的症候群」或いは「同化的症候群」となる。一体何を言っているのやらさっぱり理解できない。言葉が先行して理解が追い付かない。だからそれを口にする度に、一々説明が入る。そんな回り道をする位なら、最初から日本語でデブと高血圧などが原因でそのまま放っておくと死ぬこともある恐い病気、とでも言えば良い。

かつて日本の長寿県といわれた沖縄、1990年には男性の平均寿命は5位、2000年には何と26位に転落している。若い20〜40代の死亡率が全国平均の1・6倍にもなっているそうだ。従来からある栄養バランスの優れたゴーヤチャンプルを主とした伝統的な食習慣が、手軽なファーストフードや肉を中心とする高脂肪、高カロリーの食生活に変わったことが原因と見られている。沖縄に限らない、米(コメ)から肉を中心とする欧米型の食習慣に馴染んでしまった日本人は、現在でこそ長寿世界一を誇っているが、すぐにも人間わずか50年・・・夢幻の如くなり の時代に逆戻りするのが予見できそうな気配がする。

歩くことをしなくなり、電車、自動車が好きなところに運んでくれる。過去には上流家庭にだけ存在した電話機が、今では一家に2台も3台も存在し、わざわざ外出しなければ電話できなかったものが、寝ながらにして海の向こうにまで声を届けることが可能になった。子供たちは、外で走り回って友情を育て、健康な体を作ったが、物騒な世の中はその場を剥ぎ取り、陽の光の届かない部屋の中でゲームに、テレビに釘付けとなる。反面、食生活では衛生管理が行き届いた生産物からたっぷりの栄養を摂取し、飽食の世を謳歌する。体を動かさないで十分過ぎる食事を摂っていれば、栄養過多になるのは当然のことだ。

予備軍を含め、今の日本の中高年のメタボリック・シンドロームと呼ばれる人の数は2700万人に登るという。男は2人に1人、女は5人に1人。女が少ないのは理解できる。女性誌、スタイルは骸骨のような肉体を美しいと褒め、それを見ては食べては痩せることに神経を費やし、果ては拒食症にまでなるものもいるからだ。結果は痩せ細った母体から低体重児が量産され、ますます日本人の寿命を短くする。

いくら小学校から英語を教えようとするからとて、横文字に疎い高齢者の多い現状の日本、横文字を使うには慎重に、全体を把握し、消化してから文字にするようにして欲しい。

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2006年5月 9日 (火)

美しいもの、汚れたもの

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 ポカポカ陽気に誘われて、近くの河原に出て見た。タンポポが、早く風に乗って飛びたそうに種をつけていた


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 くじゃくサボテン 10年目にして吃驚するような数の花を咲かせてくれた


修理の上がったパソコン、今度は最新バージョンの“Tiger”をインストールすることになった。またまた不規則なブログの日々が続くことになりそう。

昨日(5/7)の事、偶然映っていたテレビの画面、「チャングムの誓い」の主演女優イ・ヨンエ。清楚な顔だちに飾らない化粧、綺麗に整えた髪がた。なんという美しい女性だろう。今まで評判の韓国映画やドラマには全く興味はないし、これからも見るつもりは全くない。しかし、いつも見ている日本の女優たちやタレントの薄汚れた厚化粧や髪がたが、いつにも増して汚らしいものに思えた。日本女性のような、きつい瞼の色彩は一切ない、釣り上げた眉も見えない、口紅もほとんど目立たない、特に綺麗に結わえた髪型は乱れたようすもない。こんな美しい肌の女性もまた日本人女性の中には見当たらない。平均的に美しい女性は韓国人に多いことは意識していたが、これほど見事な違いを見せつけられては感服するよりない。

日があらたまって今朝の芸能ニュース、昨日まで長髪であったらしい(私は知らない)タレント・篠原涼子が、その髪を切ったことがニュースになり、物好きなメディアがそれに飛びつき、カメラの放列を布いた。こちらは汚らしい、という以外に例えようがない。カリスマ(一応名だけはそうなんだろう)かどうか知らないが、浮浪者然としたザンバラ髪にして、全く美的センスなど持ち合わせない姿でお目見え遊ばした。一斉に発光するストロボの嵐。額にかかり、頬にかかり、首から肩にまで垂れ下がったばらばらの髪。見ているこちらが首筋が、肩が痒くなる。彼女に限らない、例外無しに長短あっても日本女性が右へならへ、の髪型だ。この汚らしい髪に加えて釣り上げた眉、目のどす黒い睫毛に、瞼の濃い様々に彩色したアイシャドーと呼ばれるカラー化粧。まるで化け物の出来上がりだ。美しさなど微塵もない。

それ以上に情けないのは、それに群がる低俗な記者たちの発する言葉、「好みの男性は?」「御主人は長い髪と短いのとどっちが良いと言いましたか?」などだ。彼女たちに限らない、タレントが男であれ、女であれ、外国人であれ、日本人であれ、一様にまっ先に飛び出す質問が《女について、男について》のことになる。そんなこと放っておけ、男を見れば想像するのは女、女を見れば考えるのは男、なんという低俗で浅ましい質問だろう。現在の日本、まさにフリーセックスの様相を帯びてはいるが、二流三流の芸能記者連中ほど頭の中はからっぽの人間ばかりじゃない。もしも、私が篠原の取材担当になっていたら、「どうしてその髪型が美しいか、或いは綺麗と思えるのか」聞き糺したい。「首筋が痒くならないのか?」とも。

毎日新聞(5/5)に東京原宿を歩く女性を取材した記事と写真が載った。東京ストリート時装、姫系ファッションを『可愛くセクシーに』と題して。
写真は19歳の専門学校生。お決まりの茶髪のザンバラ髪、上着からスカートには中世風のびらびらのレースが付いた幼稚園児の似合いそうな如何にも幼い装いだ。髪型と着衣がどう見てもミスマッチだ。ぶら下げている白いカバンはメタルの手提げにピンクの大きいバラかボタンのような飾り付き、どこから見ても幼稚園児。ところが『可愛くセクシー』とある。可愛くは幼児の世界、セクシーは大人の世界と思うのだが、幼児のセクシーはアメリカの幼児性愛だけで十分だろう。「日本人の可愛い少女好みは、いつの時代も脈々と生きているが、セクシーさを加味した「姫系」は、可愛い系史上最強のスタイルといえるかもしれない」というのは、いつの時代も生きてきたのだろう伊藤忠のファッションシステム・コンシューマー・アナリストと呼ばれている小原直花氏(女史?)いったい何をする何ものだ。

記事を読んでみて、東京秋葉原の喫茶店に巣食う幼稚な男たち、言われる通りの可愛い少女(?)の“お帰りなさいご主人さま”に吸い寄せられているのかもしれない、と思った。

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2006年5月 3日 (水)

ふたたび「愛国心」って

憲法59歳の日。
時恰も教育基本法の改正、A級戦犯の合祀と小泉の靖国参拝の問題、何にも増して憲法改正の問題、と犇めく最なか、「愛国心」を語る前に是非書いて置きたいことがある。

毎日新聞(4/29)の記事から。
敗戦直後から1978年まで靖国神社の宮司を務めた故・筑波藤麿氏(旧皇族の出身で、46年に就任し、在籍のまま73歳で病死)が、A級戦犯の合祀を意識的に避けていたことを報じている。天皇は敗戦直後の1945年から52、54、57、59、65、69、と1975年11月21日の計8回出向いているが、この時を最後に靖国参拝を止めている。筑波氏は78年3月に亡くなり、間もなく後任の宮司(故・松平永芳)によって待っていたように1978年10月、東条英機らA級戦犯14人が合祀された。

靖国神社側には旧厚生省からA級戦犯の名簿が1966年に送られ、信徒代表らで作る総代会は1970年に合祀する方針を決めていた。しかし、扱いを任された筑波氏は死去まで合祀をしなかった。A級戦犯の合祀をすることで戦後続いていた天皇の参拝の妨げになることを懸念してのことと考えられる。筑波宮司は生前「BC級戦犯は一般兵士と同じ犠牲者だが、A級戦犯は責任者だ、国民の中には『東條憎し』で凝り固まっている人がだいぶいる」と国民感情への配慮も語っていた。筑波氏に合祀についての考えを聞いた同神社広報課長、馬場久夫(81)と、筑波氏の長男で元早稲田大学教授の常治(75)は、「宮内庁の関係もある。合祀は自分が生きている間はおそらく無理だろう」「事実上、合祀はしない意向だったと思う」とそれぞれ毎日新聞のインタビューに答えている。

1975年を最後に天皇は、靖国には行くに行けななったのが事実だろう。自分の命(命令)『上官の命は直ちに朕(ちん・天皇のこと)が命と心得よ[軍人勅諭]』で死んでいったBC級戦犯は弔えても、その最上位から命を下して多くの国民の命を奪ったA級戦犯が合祀されては行けないのは当然のことだ。その後を継いだ現天皇も、一度も参拝をしていない。父天皇と、戦争の歴史を真っ向から見据え、行かない理由をしっかりと持った人間と見た。

話は変わるが、自身旧満州で生まれ1943年召集、満州東部国境の各地を転々とし1945年8月、ソ連軍部隊の攻撃を受けて部隊は全滅。生存者は五味川(純平・1916〜1995年)以下数名だったという体験を持つ彼が、戦後書いた幾多の戦争文学から。

「人間の条件」「戦争と人間」「御前会議」「ノモンハン」「ガダルカナル」などすべて読んだが、「戦争と人間」について語りたい。1955年の「人間の条件」は発表するや忽ち増刷をくり返し、1.300万部を売りつくす大ベストセラーとなった。続いて書き始めたのが「戦争と人間」だが、東京オリンピックの年1964(昭和39)年〜1982(同57)年10月に筆を擱くまでに丸18年を掛けた。三一書房の新書判で全18册になる長篇だが未完のままだ。その途中で執筆したのが後に書いた3作品。前の2作品は映画にもなり、現在までに何度かテレビでも放映されているから御存じの方も多いと思う。

「戦争と人間」が未完で終わったいきさつを彼は“感傷的あとがき”として次のように書いた。(要約)
《随分年月が経ってしまった。予定ではそんなにかかる筈ではなかったが、途中でいろんな事が出来て、仕事が捗らなかった。昭和53年には喉頭摘出手術で声帯を切除したために声を失った。食道に空気を入れて、腹筋の圧力で押し出し、食堂粘膜を振動させて、音を作り、声を作り、会話をともかく人間らしくない声で出来るようになる方法(食堂発声)を修得するのにかなりの努力と時間が必要だった。その時には、まだ、通常に近い人間生活をする希望があった。それを叩き潰すように、57年5月、私の声の代わりをつとめてくれた妻が、130日そこそこの入院で、卒然と逝ってしまった。その間看病でほとんど眠ることが出来なかった。生きている時にはわからないが、死なれると、よくわかる。長年連れ添った配偶者が逝くことは、生き残ったものの半分以上を虚空へ持ち去って行くものだということが。

 妻が病気に倒れたころ、私はこの18巻目を書き始め、東京裁判まで書ききって、終わるつもりであった。だが、そこにどうしても出廷していて、尋問を受け、判決を受けなければならぬ筈の一人の人物が、東京裁判の埒外に置かれていて、のうのうと暮らすことを許した裁判は、ほとんど無価値に近いと思うようになった。書くなら、徹底的に調べ直して、東京裁判が茶番に過ぎなかった理由、経過、その後の影響を書き尽くさねば、ペンキ屋が歴史に下手なペンキを塗るにひとしいことだと考え直した。
 あと何年書く時間を私が持っているかは、全く予想もつかないが、書ける時が来たら、日本人のほんとうの不幸の原因、何事もいいかげんに済まして解決したと思いたがる日本人のでたらめさの根柢まで、ペン先が届くかどうかわからないが、試みなければならないと思っている。

 生きていて、少しも愉しくない。それは必ずしも妻を亡くしたからでも、世代の怒りを共にする友人が少ないからでもない。国も同胞の大部分も、大小の悪事をごまますことを正念場と考えているからであり、悪者のみが栄えて権勢を振るい、少数の正直者、善悪の区別を知って悪に加担しない者は、悪者たちの残飯で辛うじて生きているという、情けない、みっともない状態がこの島国全土を蔽っているからである。
 ペンは剣よりも強し、と、昔の賢人が言ったそうだが、果たしてそうか。私の目には、ペンは邪剣に奉仕するに忙しいようである。》

 1982年10月に閉じた結びである。あと一週間で79歳の誕生日になる1995年3月8日、死去。因に五味川と同じく今次大戦に関する題材で、作品を書いている女流作家の澤地久枝は五味川が「戦争と人間」執筆時、資料助手として働いていた人である。

今日の毎日新聞が憲法で保障されている国民の「知る権利」と、それに寄与する「報道の自由」が土台から揺さぶられていて、立法の場での人権擁護法案や、憲法改正手続きを定める国民投票法案に、メディア規制条項を設けるかどうか、一方、司法の場でも、アメリカ企業への課税処分に関する報道を巡り、後に反転したが、東京地裁が下した「取材源の秘匿」を認めないとの判断について、なぜ取材源の秘匿は求められるのか、といったことに対して各界の意見をまとめている。「取材源の秘匿が認められなければ、ちょうちん持ちのような記事が増えかねない」と。

五味川が嘆いた「ペンは邪剣に奉仕するに忙しいようである」は戦前戦後、現在にいたるまでマスメディアの姿勢を言い得て核心を衝いている。「ちょうちん持ちじゃダメ」が貫かれていれば、あれこれ手をかえ品をかえて平和憲法を骨抜きにすることも防ぐことができ、自衛隊の海外派遣は実現していなかっただろう。

いったい「愛国心」って何だろう。
 

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2006年5月 1日 (月)

愛国心って?

昨年(2005)来『戦後60年の原点』の題を冠して、毎日新聞社がずっと書き続けて来た日本の変遷の歴史の記事が、そろそろ終わりに近付いている。その締めくくりになったのが極東国際軍事裁判「東京裁判」の特集だ。昨日(4/30)今日ときて明日は60年の総括になる。

折しも政府は教育基本法改正に向けて28日、閣議決定し、改正法案を衆議院に提出した。連休明けから始まる国会審議では、新たに盛り込まれた「愛国心」表記に関する条項が学校の教育現場に及ぼす影響などを巡り、激しい論戦が展開されそうだ。

敗戦後、米ソ冷戦の激化に伴い、アメリカは対日政策を大きく転換させ、日本を「共産主義の防波堤」と位置づけて、旧体制側の人物を復権させ、東條英樹内閣で商工省大臣を務めていた岸信介を不起訴にし、東條ら7名の処刑の行われた翌日に釈放した。彼はその後1958(昭和33)年には第57代内閣総理大臣に就任し、新日米安全保障条約を調印・批准する。
権力に弱い新聞の偽善性は、戦時中に限らず戦後でも1960年6月15日、安保闘争中の東大生樺美智子(共産主義者同盟・ブント)の死(デモ隊に殴り込んだ警察権力の犠牲、それに加わった右翼による説、デモ隊自身の混乱中に起こった不慮の死説などがあり、不明のまま)を切っ掛けにして、それまで民主主義の先頭に立って旗を振っていたかに見えたマスコミは、一瞬にして平和運動を暴力と断じ、議会政治に戻れと号令し、論調が右傾化していくことになった要因を生んだ。

♦【今日は独立後初のメーデーの行われた日。敗戦から7年目の1952年5月1日、“血のメーデー”と呼ばれる惨劇のあった日だ。革新を叫ぶ全学連などデモ隊(約5000人)に、三度に亙って警官隊(約5000人)が突入し、皇居前広場を血に染めた事件だった。警察官側は催涙弾でも足らずに最後にはピストルの発砲まであり、死者2人、1232人が検挙され、重軽傷者500人を出した。】

毎日新聞4月14日の社説から冒頭を引用する。
 《「教育の憲法」といわれる教育基本法について、自民、公明両党でつくる与党検討会が改正案の内容に合意し、1947年の制定以来初の改正に向けて大きく踏み出した。上部組織の与党協議会も了承した。改正を求める中央教育審議会の答申から3年を経ての結論だが、その間の議論の経過は公開されなかった。
 今後の教育のあり方を決定づける法律の全面改正作業が、国民とは離れた「密室」で進められたことは残念だ。

 両党の議論の最大の焦点が「愛国心」の取り扱いだった。教育の目標に掲げる文言として、自民党が「国を愛する心」を養うことを明記するように主張したのに対し、公明党は「戦前の国家主義を想起させる」と反発し、「国」に統治機構(政府)は含まないことが分かる表現を求めていた。最終的に「伝統と文化を尊重し、それらを育んできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」との表現でまとまった。自民党案の「国」が「我が国」に、「心」が「態度」に変わり、「他国の尊重」が加わった。》

1945(昭和20)年8月6日広島に、続く8月9日長崎に原子爆弾が投下され、国土を焼け野原にして日本は敗戦を迎えた。アメリカでの原子爆弾投下に対する評価は、戦争の早期終結のためとされているようだが、当時の日本国民にとっても戦争の終結は紛れもなく‘ほっと’した安堵感を抱いたのが実感だ。原爆が落ちた広島、長崎の人たちには残虐な殺人兵器に違いないが、戦争が続けられていれば、日本国土はおろか日本人の生存者も絶えていただろうと思われる。天皇の終戦の詔勅が読まれなければ(マイクの前に立ったのではなく録音盤だが、事実ラヂオ放送を中止させようと、一部軍人達はその録音盤を略奪しようと画策していた)・・と思うと恐ろしくなる。

無条件降伏を受け入れた日本は、まっ先に軍隊の解体に手を加えられ、戦争犯罪者として外地では早くも処刑される者も出ていた。日本の軍隊では上官の命令は天皇の命令であり、絶対に背くことがあってはならないとされた士官、下士官たちの行為さえ問答無用の処刑の対象になっていた。兵たちが敗残の身一つで外地から陸続と引き上げて来た。国内にいた軍人たちはすでにこの時、軍隊の無秩序を露呈させていた。少しでも上位にあったもの、賄いの部署にあったもの、将校の地位で上手く泳いでいたものなどが、軍隊の物資を横領して持ち帰っていたのだ。それは配布されるべきものであった毛布であったり、食糧であったりと豊富な品物が(外地の軍人に輸送するのに優先的に準備されていた)家庭に持ち帰られた話が大人の口を通じて耳に入って来た。転んでも只では起きない心理ではあったのだろうが、純粋無垢な少年であった心にはなんとも遣る瀬ない情けない日本人の姿を見た気がしたものだ。

敗戦の翌年(起訴・1946年4月29日昭和天皇誕生日)から始まった極東国際軍事裁判が、同年5月31日より審理を開始し、48年11月4日判決、12日刑の宣告を含む判決の言い渡しが終了する。絞首刑(死刑)の執行が行われたのが12月23日(現天皇の誕生日)だった。東亜共栄圏の確立、東洋平和、アジアの盟主、を旗印に、死ぬまで戦え、気に入らない人間には非国民のレッテルを用意し、翼賛政治を布いた指導者たち、軍人に限らない、戦争で儲けるだけ儲けた財閥。これらに携わった人たちが次々に失墜していく。彼ら無責任な指導者たちの嘘が次々に暴かれた。現時点でこの裁判を茶番と呼ぶ人がいるが、これの拠って立つ根拠には勝者が敗者を裁いたものであった、との認識がある。当然当時は厳しい言論統制下に置かれ、裁判に関するもの言う権利は持ち合わせていなかった。前にも書いて繰り返しになるが、インドのパール判事は「天皇が戦争犯罪人として裁かれないのなら、日本には戦争犯罪人はいない」として全員無罪を主張する少数意見を吐いた。通常、裁判での少数意見は判決に添えられた参考意見で終わるのだが、この東京裁判だけは違う。現在ではこの少数意見が大多数意見であったかのように解釈されているのだ。

死刑執行の翌日にはA級戦犯を不起訴ですり抜けた岸信介のように、アメリカの対ソビエトの冷戦構造がその後の日本の右傾化の方向を示すこととなった。それ以来東京裁判は「勝者の裁き」とする意見が強く頭をもたげ、たった一人のカッコ付きの意見が東京裁判の圧倒的な意見であったような風潮を作り上げていく。しかし、裏切られたと感じた当時の私(14歳)の裁判に関する情報からでも、国家を破滅させたのは彼ら戦争指導者であり、為政者であり、裁かれるのは当然との認識が強かった。国家を護るとするその対象は、国民ではなく、皇室であることが読み取れた。こんな国へ忠義立てすることはさらさらない、護るべき国などない、国を愛する気持ちなど全く存在しなかった。天皇の存在すら必要のないものとすら解釈していた。天皇が裁かれないのが理解できなかった。そうしてこの感情は日本国民の多くが感じていた思いでもあった。

天皇が裁かれなかったことはその後の日本という国が、近隣諸国への侵略が追求されなかったことの遠因ともなって今日に来っていると考える。毎日新聞は1946年5月4日にこう書いた。「判決は日本人全体への厳粛な宣告」である、と。敗戦処理内閣の東久邇宮稔彦首相(1945年8月17日〜10月9日。東久邇宮朝彦親王の第9王子。GHQから「政治的・民事的・宗教的自由に対する制限撤廃の覚え書き」を突き付けられたが実行できないとして民主化に取り組めず、10月5日総辞職したがその後、皇籍離脱。)が言った「国民総懺悔」を言い換えただけの無責任論評だ。

巣鴨プリズンで東條以下A級戦犯が処刑された翌日の毎日新聞の号外「極東国際軍事裁判所において死刑を宣告された戦犯7名は23日午前0時1分から35分の間に全部絞首刑を執行された」と。号外ではないが我が家に配られた7名のそれぞれの写真と、対象になった刑の内容が印刷された新聞は、胸騒ぐ思いで眺め、この戦犯たち思い知ったか!との快哉を叫びたい感情が湧いたのを覚えている。その新聞は長い間父の居間の引き出しに畳まれてあったが、死後捜したが見当たらないまま行方が解らない。当時の私の心境は、ハッキリ言って護るに値する国などあるか!愛国心など持てる筈もない!くたばってしまえ!との思いだった。

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