わたしとおかあさん
毎日新聞に、しばらく連載された著名人が母を偲んで書いた『わたしとおかあさん』という文が載っていた。もう終わったが、その最終回に音楽評論家・湯川れい子(67歳)の母を想う一文が載り、目を通した。母上が40歳で生んだ子だとすると、お母さまは明治の生まれであることは間違いない。海軍の軍人であった父を彼女が6歳の時に失ってからは、湯川の言葉を借りれば“妥協を許さない愛情”を注いで女手一つで彼女を育てたようだ。後に、お父さまの出棺の日、「この子に白無垢の花嫁衣装を着せて送り出したらお傍(そば)に参ります」と約束したと、話しを聞かされて、これには湯川も参ったらしい。
“妥協を許さない愛情”とは明治の女性の毅然として立つ姿が自然に思い浮かぶ。たとえ友人の家でも外泊はもっての他、湯川が高校2年の年、独立プロダクションの女優の卵になった時も、門限は9時。降っても照っても嵐でも、(彼女の表現を借りれば)身体が弱いくせに、毎晩9時になると、玉電(現東急田園都市線)の駅まで迎えに出て娘の帰りを待つ母であったようだ。
長じて結婚話を打ち明け、母の望むような人と正反対の人で猛反対された時、「親の言いなりに結婚するなんて、永久売春と同じじゃないの」と言う湯川の言葉に、思いきり頬を引っぱたくようなお母さまでもあった。
「私の目の黒いうちは決して許しません」と、何ごとにつけても事あるごとにぴしゃりとけじめをつけるお母さまであった。本当に、さんざん心配をさせたようだが、どんな時も頑固に頑強に、娘の幸せだけを考え、決していい加減な妥協をしなかった人のようだ。「母様も苦労したから、腕に職を持つのはいいことだ」と湯川の仕事には積極的に協力し、理解を示した。それでも9時の門限を破らなければならない時には、必ず護衛役の人間をつけて彼女を守った。彼女が25歳の頃まで続けられたという。
言葉の端々に、凛とした明治女の母を想う湯川の文章が素晴らしい。そんな母親の目を楽しく盗みながら、過ごした日々を顧み、おかあさまの美貌と、品格と人間性、そして娘湯川れい子に対する絶対の愛情には、92歳で亡くなった今も、何処まで行っても彼女は勝てないと、思っているとしるしている。
門限と云う言葉、一般家庭では今は死語になっているのじゃないだろうか。小学生から携帯電話を持ち歩き、時間に遅れることには全く抵抗を持たない。一報すればすむそれで済む、親も全く意に介さない。夜中になろうと友人宅に泊まろうと電話1本で親は安心する。それで子どもの行動に責任を持った積もりになる。疑うことは決して良いこととは思わないが、監督責任の放棄だ。子も親もお互いの責任を放り出し、自由と野放途をはき違える。
世の変遷もある、全てに高望みする社会になり、教育は市立偏重で塾は華盛り、親の欲目は塾に通えばわが子も天才の仲間入りが出来る、とばかりに借金して学問だけの常識に欠ける無気力な半端人間を作り上げる。親の敷いたレールに乗り、大学は出てもニートになるだけ。社会を見る能力を養っていない。口だけは達者だが、自分自身が何ものかも分からない年齢で自分に合う仕事など掴めるなどは全く不可能だ。「ガラスのジョニー」を歌った歌手がいる。彼が最終的に歌手の道に辿り着くのに港湾労働者を始め、何と60回以上の職を転々している。彼が就いて直ぐに辞められた会社こそ迷惑だったろうが、己の道を突き進む努力はしてこそ理解されることになる。彼はアメリカに渡り、クラシックの殿堂・カーネギーホールで公演し、失敗したが当って砕けた結果だった。
我が家には門限があった。明治生まれの両親に育てられ、有り難いことに私自身厳しい躾を受けた。結婚して生まれた我が子にも躾けた。小学生5年までは5時、6年生になって6時。自分から望んだ塾の公文がある日だけは緩めた。夏冬関係なし、就寝時刻を8時に決めた。10時間寝て6時に起きる。中学生になってからは1時間遅らせて就寝は9時。私は仕事柄極端な不規則状態、すべて妻が躾けてくれた。男の子だが、中学・高校を通して外泊は全く認めなかった。十分寝かせたお陰で頭脳明晰な子になってくれた。
お母さんたち、湯川れい子の母のようになるのはとても無理だろうけれど、時代が違う、などと云わないで、少しでも近づくような子育てに責任を持って欲しい。
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