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2006年3月17日 (金)

「命」の授業

『今一番アイガモに云いたい言葉は「ありがとう」です。本当にありがとう。』
小学生の横で紐に吊るされたカモが「ガーガー」と鳴く。学校で世話をしてきた13羽と最後のお別れ。5年生の飛松利菜さんが代表で作文を読んだ。
並んで吊るされたカモの首に農家の人たちが包丁を入れて行く。赤い血がポタポタと落ちる。「うわあー」。放血にあちこちから声が上がる。女子の多くは遠巻きになり、友だち同士で身を寄せあった。みんな涙で目が真っ赤だ。

鹿児島市立川上小学校(永田房志校長)で1996年から続いているアイガモを使った無農薬栽培で、役目を終えたカモを子どもたちが保護者と近隣の農家とさばいて食べる活動が続いている。命と食の大切さを実感する全国でも珍しい取り組みをしている。子どもだけでなく親にも貴重な体験となり、地域を繋ぐ役割も果たしている。

2月5日。青空が広がった日曜日の朝。田園風景が残る鹿児島県の北部の川上小は、今年も「アイガモの命をいただく会」を開いた。学校に近い農家の庭に約200人が集まった。5年生3クラスの児童と保護者、カモの解体を手伝う農家の人たちだ。

咽を切られて息絶えたカモは毛をむしり易くするため、バケツの90度の熱湯に浸される。むせるような臭いが漂う。再び吊るして毛をむしる段になると男の子たちは笑顔で寄って来た。毛をむしり取られて丸裸になったカモをバーナーで残った毛を焼き切る。皮の焼ける香ばしい匂いが鼻を刺激する。

このアイガモは学校近くの10㌃の田んぼでせっせと働いてきた。害虫や雑草を食べ、糞は肥やしになった。川上小では5年生がアイガモ農法の米づくりを体験。現在は「総合的な学習の時間」で続けている。5月の種籾の選別から苗代作りから田植え、稲刈り、などの全てを体験する。収穫を終えたあとのアイガモは農家に譲っていたが、6年前この体験学習でカモを食べようと提案したのは当時の5年の担任だった東睦美教諭(58歳)=現・同市立草牟田小=だった。

当初、猛烈な反撥があった。「残虐な事件が多いのに、学校で動物を殺すなんて」「子どもにショックが大き過ぎる」など。PTAとの話し合いは5、6回に及んだ。迷いもあったが東教諭は「アイガモ農法は無農薬米とカモ肉を同時に得るのが利点なのに、アイガモの最後を見届けずにいた心残りが決断させた」と当時を振り返る。

子どもたちは今年も「命をいただく会」までに何回も話し合った。それぞれに名前をつけて可愛がったカモ。家畜とはいえ命を奪うことに葛藤があった。昨年12月16日、5年生31人は最初の話あいを持ち、「アイガモに感謝して食べたい」「かわいそう」「残したいけど自然に放すと生態系が崩れる」予定の3時間を超えて話し合いをしたが「食べたくない」が7人残った。

結局「命をいただく会」には参加を強制せず、子どもの意志を尊重した結果、各クラスで3、4人が参加しなかった。作業が進むに連れて賑やかになり、カモの解体になると女子も積極的に加わった。
「今の世の中は情報は沢山あるけれど、食べることの意味を忘れているような気がする。いろいろ考えさせられました」男子生徒と参加したお母さんは興奮気味に語っている。お昼時になり全員で手を合わせ、肉を美味しそうにほおばった。

子どもたちの感想文
「毎日当たり前のように食べていたものは、一つ一つの大切な、かけがえのない命だったんだ」
「今日のごはんはぶた肉があり、牛肉があり・・・これ全部命があったものなんだ。こうやってまた明日も命を食べ続けるんです」
食の細かった子が給食を毎日お替わりするようにもなった。給食の残飯は大きく減っている。3組の大山トモ子教諭(47歳)は「子どもたちは食べ物を見て命を感じられるようになった。大人でも『命があった』と意識できる人は少ないのに、命の大切さをアイガモとの体験を通して感じられる。生きて行く上で一番大事なことではないか」と。

素晴らしい授業が行われていたんだ。“いただきます”さえ碌に口に出来ない大人がいる中で、動物の命を奪うことで人は生かされていることを学び、感謝することを学んでいる。毎日のように少年の犯罪が報道される日本で、奪われる側の命を考えることを学んでいるのだ。

私の母も鹿児島の出身だった(故人)。近畿に来てからも鶏は家庭で捌いた。やはり家で飼っていたものだった。放血の場にも立ち会った。最初に見た子どもの頃はポトポト滴る血に凍りつくような悪寒を覚えたものだ。「かしわ」は関西でも口にする食し方だ。中学生になる頃から肉は避けるようになった。軍人になり戦死する姿を想像し、死と向き合い、生を渇望する年になっていた。動物(人間も同じ動物)の生と死についての考えに取り憑かれた頃だ。

2、3日前滋賀県の猿害に悩む人たちのサルを殺害賛成派と反対派の討論が報道された。市が殺害を認める前の集まりだった。現地でサルに生活を脅かされている住人に対し、反対派には他県からの愛護団体も加わり、噛み合わない話し合いがされた。反対派の根拠に驚いたが「体つきも一番人間に似たサルを子どもたちの前で殺すのはいかがなものか」この人たちはどうやら人間が一番偉いと思っているらしい。傲慢としか言い様がない。この攻撃に対して村びとは殺して悪いのなら「捕まえるから(反対派のお前たち)連れて返ってくれ。それに殺した牛や豚を食べたことがないのか」となった。すると「サルは食べない」と。何故牛や豚がよくてサルはいけないのか。同じ命だろう、何度も書いてきた。サルに限らず鯨の時もそうだった。「人間の次に利口な鯨を殺すのはいけない」と云う。人間が一番偉いなんてお笑いだ。傲慢だ。鹿児島の小学生にも劣る貧しい論理だ。

毎年「命」を見つめ直す子(親も)が日本の片隅で数を増やして育っている。


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コメント

おはようございます。今まさに私の娘が通う小学校でアイガモをどうするか議論されています。ちなみに私は反対なんですが。こういったアイガモを通じた話が他にも載っていましたが・・・メリットばかり書いてあって、デメリットの記載がほとんどといってないことに逆に違和感を覚えてます。私は目の前で家畜、動物が殺されるのを見たことはありませんが食のありがたさは理解しているつもりです。好き嫌いは全くありません。鶏の足も食べていましたし(爪のある部分)軟骨の部分も食べきります。エビなんかは頭としっぽも必ずガリガリ食べます。食の大切さに対する理解度はは結局のところ家庭環境で違ってくるんではないかなって思います。またアイガモを目の前で殺して食べたら何でも食べれる大人に育つんでしょうか?理解できないところが多々あります。

投稿: | 2009年10月18日 (日) 07時34分

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