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2006年3月12日 (日)

産婦人科医不足

今から凡そ60年前の頃、私はそろそろ学校へ行く時間になっていた。中学(旧制)入試に合格した頃だ。父の勤める会社の社宅生活をしていた。母はいつも通りに長い柄の座敷き帚で部屋の掃除を始めた。はー、はーと荒い息を吐きながら数分経っていた。私は玄関に向って歩き始めた時母が急に使っていた帚を置いて苦しそうに祖母を呼んだ。「おばあちゃん、出る、もう出る」祖母は急いで母に近づいて押し入れから蒲団を取り出して母を寝かせた。母が横になって数分経った頃赤ん坊の泣き声が聞こえて来た。一番下の弟が生まれた瞬間だった。勿論出産のためにわざわざ病院に入る人など聞いたことのない時代の話だ。何処の家庭でも出産は自宅で産み、それで済んでいた。通常の出産は病気ではないことを誰もが認識していた。

私は弟の出産時にまだ玄関を出ていなかったお陰で母の出産、祖母の手助けを知ることができた。当時は日本の至る所、村や町に出産を介護する産婆(さんば)さんがいた。近くに妊婦がおれば隈なく家庭を訪ねて廻り、出産までの介護をしてくれた。私の祖母は明治の始めの人で産婆ではなかったが、医療制度の十分ではなかった時代の女性は自力で出産を済ませたり、年配者から受け継いだ介護を身につけていたようだ。私の少年時代、母の出産だけでなく、社宅の人や近所で出産があれば慌てて呼び出しを受け、しばしば出向いて介護していたのを覚えている。女性が子どもを産むことは当たり前の事で、医者に掛かることは余程の危険が予測できる場合に限られていた。(正常、異常の判断も産婆がなし、異常が認められて始めて産科医に委ねられ。それまで産科医は妊婦に立ち会うことは許されなかった)所謂上流階級の生活は知らないからその人たちの家庭での出産の様子は分からない。

産婆さんは現在の助産婦の前身である。近代国家を目指す明治政府はそれまでの日本女性の「出産」のあり方を一変させた。それまでの出産は家族や近隣の出産経験を持つ女性の援助を受けて自宅の土間や納戸、或いは産小屋(うぶごや)で行うものであった。そしてその多くは自力出産で、膝をついたり、天井から下げた綱に掴まり、自力分娩で娩出力が加え易い姿勢を取っていた。お産や援助の経験のある女性がある程度職業化してトリアゲバアサンと呼ばれる便利な立場を築いていた。私の祖母がそれに当るのだろうが、明治初年、12月24日の産婆取締規則で規制されたにも拘わらず、1945(昭和20)年の頃までは現実にはそのような女性が存在して、急には間に合わない出産時の介護に当っていた。

1948〜50年の頃各大学に付属していた産婆教習所や、看護婦養成所と産婆養成所併存していた所も廃止になったり改名して看護婦養成所に統一されて行った。話は飛ぶが、“看護婦さん”という優しい響きが消えて看護師となり、おかま流行りの現在の日本には相応しいのかも知れないが古い人間にはやはり、看護婦さんでいて欲しかった。

閑話休題
今日(3/12)の毎日新聞記事。『逮捕・起訴の衝撃』で福島県立の大野病院で04年12月に帝王切開の手術中、当時29歳の女性の胎盤を剥がせば大量出血の恐れがある「癒着胎盤」と知りながら、手術用鋏で胎盤を剥がし出血死させたとして手術を執刀した産婦人科医加藤克彦(38)が、業務上過失致死と医師法違反の罪で逮捕・起訴された。当初病院側は医療過誤との認識はなく、異常死の報告をしていなかった。

福島県は事故後、院外の医師で事故調査委員会を設置。昨年3月にまとめた最終報告で
 ① 癒着胎盤の無理な剥離
 ② 対応する医師の不足
 ③ 輸血対応の遅れ
のミスと結論付けた。

全国の医療関係者が「通常の医療をして逮捕されるのか」と反撥、逮捕した福島地検は「手術ビデオや心電図記録、遺体がなく、関係者の証言が最も重要として身柄の拘束をした。正直に話してもらう必要があり、口裏合わせの恐れもあった」と証拠隠滅の可能性を指摘している。

逮捕された加藤医師は、県立大野病院でただ一人の産婦人科医だった。こうした体制は「一人医長」と呼ばれ、産婦人科では珍しくない。なり手が少なく、確保が難しいからだ。特に産科は、昼夜を問わない過酷な勤務で出産トラブルに伴う訴訟も多い。厚労省によると、04年度の産婦人科医は約1万人で10年前より約1000人減っている。加藤医師は大学病院から派遣された医師で、同じように産婦人科医が一人という病院は132施設と全体の14%に上るのが実態である。(日本産科婦人科学会の調査)
調査は医師を派遣している大学病院計110施設を対象に実施されたもので、05年7月1日現在のものである。その結果派遣先で一人院長の病院の割合が最も高かったのは北陸で、73病院のうち21病院(全対比29%)。東北がこれに続き、87病院にうち20病院(同23%)に上り、北海道ぼ47病院のうち9病院(同19%)が一人院長だった。一方最も低かったのは関東で、236病院中15病院(同6・4%)近畿も150病院中13病院(同8・7%)だった。

愛育病院の中林正雄院長は「今回の事件で志望者は確実に減る。最善を尽くしたのに犯罪者になるのではやってられない」と言い切る。また筑波大学吉川弘之教授(婦人科腫瘍学)は「新人医師は臨床研修で産婦人科のしんどさを知り、敬遠するようになっている」とも話す。

加藤医師がいた県立大野病院は11日から産婦人科を休診にした。県立医大が代わりの勤務医を派遣できなかったからだ。「このような状況では日本の医療は崩壊する」として、加藤医師の逮捕に抗議する声明に賛同した医師は10日現在で800人を超えた。

厚労省の妊産婦死亡研究班の吉祥寺南町診療所長は「大量出血はどんな出産でも起こりうるとして十分な医療スタッフと輸血用血液を30分以内に入手できる態勢を整えるべきで、今回は不十分だったと批判している。一方で「日本の出産は大野病院も含めて殆どが不十分な態勢だ」と指摘する。「県の報告書は輸血用血液の準備不足や人手不足を指摘するが、血液は400㍉㍑一万円もして事前に数㍑も購入するのは無理。他の病院から応援医師を雇うのも産婦人科医個人の権限を超える」と話し、今回の事故は態勢の問題で、医師個人の起訴は不当であると訴えている。

敗戦後10年ほどは婚期を逃していた女性や未亡人が多く、女性の結婚難は戦争の傷跡としても残っていたが、1955年頃になると適齢期の男女はほぼ同数になり、皇太子の結婚(1959年)にあやかる結婚ブームは翌年には空前の結婚ブームを起こした。その当時すでに女性の結婚に対する条件に自己主張の傾向を持ち始めていた。「家」のしがらみを嫌い長男を避け、長身を条件に相手を選び、姑との同居を嫌った。『家つき、カーつき、ババア抜き』なる老人を蔑んだ囃子言葉になり、マスコミも面白おかしく新聞紙面を飾った。

それから半世紀、「家」を嫌って来た女性は先ずは住む家が持てる経済力のある男を捜さねばならず、協力して稼ぐために子どもを他人に預けなければならない状況を招き、人生の先輩の知恵を学ぶこともできず、ますます際限ない自己主張を叫ぶことになった。女性の働き易い職場を、子どもを預けられる一持預り所を増やせと。親の育児責任を半分他人に預け、その注げなかった半分は甘やかすことで贖罪意識を満足させて足れりとする。他人のミスには容赦なく襲い掛かり、預けている間に怪我でもしようものなら完膚なきまでに叩きのめす。

今回の産院の事故も同様だろう。確かに医療事故が目立つこともある。しかし、人智の及ばないことだって幾らでもある。全国の医療関係者に「通常の医療をして逮捕されるのか」と言わしめるようなことでは心配されるように産婦人科医になる人材が‘触らぬ神に祟りなし’で出産は今以上に命がけになり、少子化はますます加速して遠からず日本という国は消える運命に陥るだろう。すでに全国で小児科医の不足も先に現実の問題となっているのだ。

私は日本の荒んだ現状は敗戦後の家族制度の崩壊が最大の原因だと思っている。古い制度を打ち壊したのはいいが、それに代わるものが未だに見出せないでいるのが現実だ。

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