ネット書店
今は昔、家電を取り扱う店頭からはすっかり姿を消したワードプロセッサー、我が家の家内所有の現役で働いているそれには、今、ミュージシャンから轟々の非難を浴びているPSEのマークも付いていない。トナーの入手も難しくなってきた。
文章作りはパソコンに取って代わられ、据え置きは移動自由な携帯型になり、もっと簡便な携帯電話でも書けるようになってきた。すでに小説家と呼ばれる人の中からも、原稿用紙に向いペンを持つ手から携帯のテンキーで打ち込む時代にまでなったようだ。それより一歩早く小説家の手を煩わせるまでもなく、アマチュアでもセンスを持ち合わせておれば誰でも書くことが可能であり、昨年の暮には第一回野性時代青春文学賞(角川書店・フジテレビ主催)に応募した東京都の高二の男性が10万語を綴って大賞を受賞している。
興味に誘われて調べてみたところ、携帯電話の表示画面にはおよそ最大文字で35文字、徐々にサイズを下げて70、108、154文字、最小サイズになると396文字が表示可能らしい。携帯電話の平均的な表示数は100文字のようなので、10万文字となると・・・。彼は携帯電話のテンキーを使って全文を書いたが、ある程度書き溜めてからメールで送る所謂コマ切れにして新聞の連載小説の形で応募したのではないか。それにしても凄い集中力だ。通常の文字サイズではたかだか100文字で画面から消えて行く文章の流れ、構成、ニュアンスなど、原稿用紙なら楽にできる推敲を携帯の画面でするのは容易なことではなかったろう。それに誤字、脱字に加えて送り仮名の問題もある。ネットでの製本は新書で出版されるという。新書の1ページの文字はおよそ670文字、ほぼ150ページになる量だ。
私のような年齢では携帯電話のように小画面の中の100文字はとても目が疲れる。最大文字(35文字)で読もうとすると2800画面以上になるが、それを書物で比較すると広辞苑が約2700ページだ。書物で読むと疲れれば栞を挟んで休憩も可能だし、簡単に次の日にでも中断箇所から読みはじめられる。人物の人間関係を確認するページの後戻りも簡単だ。(携帯の使用勝手を知らないで書いているのでトンチンカンならお許しを)とても携帯電話で本を読もうとは思わない。まだまだ目に自信があった頃でも携帯の必要性はなかったし、何も不自由しなかった。
書店に行かないで本を選ぶことのできる利便性は認めるが、ネット書店が街の書店を駆逐することになるのだろうか。目的の書物を求めて書店に入るとする、先ず目を楽しませてくれる色とりどりの書物が幾段にも、或いは足元に山と並んでいる。デザインの違いや装釘の違い、安っぽい本、豪華な本、大きい本や小さい本、流行作家のもの、外国の作家、聞いたことのない名前、とにかく次々に目に飛び込んで来る。思わぬ探し物に当ることだってある。昨今の大容量の記憶装置は大量の書物を保存可能だろうが、本の姿が1台或いは増えて行く何台もの記憶装置やメモリーであることの空しさは堪え難い。やはり書物は手に重さの感じられるもので、開くとインクの匂い、紙の匂いがする方がいい。自宅の本棚や図書館に書物が無くなることは考えることもないだろうが、美術本や写真は日本の最高の印刷技術でみたいものだ。携帯電話で読めても最後は出版物として発刊されるようだし利便性は居ながらにして購入できることのメリットだけのようだ。ネット本では従来の書物のように友だち同士の貸し借りもできない。回し読みも不可能だ。
私の場合は書物の購入は若い頃は『日本読書新聞』という名の週1で出る確か14、5ジャンルに分類、構成された紙面の新聞だった。今では拡大鏡が必要なほどの小さな活字で物凄い数の書籍が紹介されていた。現在のような組織だった宣伝、プロモーションなどはなかった。その中から読みたいものを捜した。へそ曲がり、つむじ曲がりの私はベストセラーと騒がれるものは先ず目を通したことがない。話題にもしない、勢い小説を読むことは少ない。しかし、昭和前期までのものや、第1回芥川賞・石川達三の蒼氓(そうぼう)は読んだ。書物が可愛いくてなかなか手放なせなくて、古色蒼然たる書物も多く残っている。この愛情はパソコンや携帯電話では味わえないものだろう。
ところがネット書店の問題は、現在街に存在する書店にとって恐怖になりつつあるようだ。売り上げの減少は万引き(ネットにおいても検討中のページの切り売りが実現すればダウンロードからの印刷等の問題もうまれるが)の増加もあって死活問題に発展する可能性があり、緊急の対策が必要になっている。
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