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2006年3月15日 (水)

女の気持ち

毎日新聞‘いきいき生活’のページに男女交互に女の気持ち、男の気持ちをそれぞれに意見交換できる場がある。3月8日に載った東京都町田市の主婦(34歳)の「少子化」という意見に同調する似たような子育て主婦から意見が寄せられている。一人は千葉県の匿名さん(34歳)もう一人は北海道の主婦(31歳)である。

先ず先陣を切った町田市の主婦の言い分を聞いてみよう。
 もともと子どもは苦手だった。産まないつもりだった。なのに「自分の子はかわいんだって」、そんな言葉を少し信じた。
 確かに無性に可愛いく思える瞬間が1日に何度かある。でも、私には子育てが嫌でたまらない瞬間の方がはるかに多い。
 キャリアウーマンだったわけでもない。すごい趣味を持っていたわけでもない。ただ、自由時間が長過ぎたのかもしれない。
 毎日の家事、買い物、食事、入浴、睡眠さえ自由にならないことへのいら立ち。泣かれることでのストレス。新たな人間関係。子どもを産まなければ知らなかったことがとてつもなくたくさんあるけれど、やっぱりこの世界に足を突っ込まなければよかったと思う。
 やっと1歳5ヶ月。順調に育ってくれている。でも・・・「もう1人?この子の手を引いて?無理無理、私には耐えられない。生まれて来る子も可哀そうだよ」
 同じ思いの人がどれくらいいるか分からない。けれど、少子化もニートの増加も同じところに原因がある気がしてならない。生きて行くには考えが甘いのは分っている。でも、自由時間が欲しい。頼りにしている育児書には「できるだけ子どもの好きなようにさせてあげましょう」と書いてある。少子化は止まらないと思う。
 
♦先ず最初に感じたことは、旦那が可哀想、という感想。この主婦は始めから子どもが欲しくて産んだのではないこと。結婚してたまたま妊娠し、嫌だけれど産んでみただけのようだ。その結果子育てが堪らなく嫌になることの方が多い。毎日の家事として上げているものに、子育てと併せてどれほどに大変なものがあるのか。子どもがいようがいまいが夫婦二人の生活は生きるためには必要だろう。まして子どもが泣くのは当然のこと、泣くのが仕事だ。

そう、民放で3、4年前からドキュメント仕立てで放送している大家族がある。母親の家出を境に一家を切り盛りする長女(今年17歳)の話だ。たしか父親と彼女の下には6人の妹弟がいる。一家の面倒を見なければならない彼女は高校進学を止め、母親役に徹することを決意する。早朝起きると先ず父の弁当を作る、直ぐ下の妹や弟たちの弁当を作りながら家族の朝食を準備する。手の掛かる幼児を起こし着替えをさせる。妹弟を学校へ送りだすと部屋の掃除、父親を始め家族の洗濯をする生活が始まる。遡って彼女15歳の時、兄とも慕っていた男の子を身籠る。それを知った時の父の驚愕振りは想像を絶する。幼い生活力のない相手の男、親たちの拒否に親娘は話し合い、出産を決意する。父親が責任を持って守ることで娘も安心して16歳で出産する。家族がひとり増えたこの家は、成長して来た次女は家事手伝いを進んでするようになる。幼い子供達も新しい家族を交えて一層強い団結が生まれる。

これを見ていてつくずく思う。どうして大家族になるほど兄妹たちの絆が強くなるのか、と。喧嘩は絶えまなく起こる、男の子も女の子も手を出す足を出す。必ず上が仲裁に入る。より強く結ばれて行く家族愛が母代わりになった長女を中心に形作られる。父と長女の心の触れ合いは苦労していることを感じさせない暖かい温もりを醸し出す。生まれた子の泣き声で次女の入試が乱されるのを気にして長女はそっと抱きかかえて部屋を出る。撮影スタッフが「赤ちゃんの泣き声にイライラすることはないのか、かっとすることはないのか?」との質問に、「ぜんぜん、だって赤ちゃんが泣くのは仕事だもん」と答える。“偉いよ、その通りだ”と見ている私は泣きたくなる気分でそれを見ていた。子どもを抱え、下の妹の手を引いて、その日は特別に寒いから、と近くの建設現場で働く父の元に熱いお茶を沸かして持って行く。父が美味しく飲む姿を見、飲み終わるのを待って持参したポットや湯飲みを片付けて、また幼い子の手を引き、赤ちゃんを抱いて帰って行く。

一家を切り盛りする17歳になった少女に比べてなんとだらしない冒頭の主婦なことか。全てが言い訳でしかない。そして未だに呑気に過ごしていた一人身のぐうたらな生活を懐かしむ。二人目の子は?とんでもないことと逃げ腰だ。兎に角自由時間が欲しいと。現在の主婦には昔(そう昔の話)の苦労は時代が違う、とだけで思っても見ないだろうが、毎度毎度の食事も電気炊飯器というものはなく、水は(多くの家庭は)井戸から汲み上げ薪を焚いた。洗濯は自動洗濯機は空想の物体、盥(たらい)に水を運び、固体の石鹸を使い洗濯板で一枚一枚手でゴシゴシやる、赤ん坊の襁褓も便利な使い捨てなどない、大人の着古した着物を潰したものを仕立て、繰返し使うから汚した汚物も手で洗い落としてから何度も何度も水を取り替え洗っては漱ぐ。掃除機はない、洋間の殆どない時代、障子にははたきを掛け、畳の部屋を帚で掃き清める。洗濯物を干す頃には昼がとっくに過ぎていることや夕方まで続くことだってある。赤ちゃんがいれば家事の合間合間にあやし、授乳させる、泣いても構ってやる時間はないほどだ。これを忙しいと云い、自由がないというのだ。

それを少子化もニートの増加も同じ原因と見る。とんでもないことだ、働く意志もなく、勉強する意志もない。ただ息をして食べて寝てるだけだ。それを見ている甘やかすことしか能のない(脳もない)親がいる。

次に同じ34歳の主婦は、
私とおなじだ!。先の主婦の気持ちをうん、うん頷きながら読んだ、同じく自由時間が欲しいと。1歳5ヶ月の男の子の母親である。云うことが凄い、今は私は自分の人生を歩んでいるのではなくて、子どもの人生の一部として費やされているような気がする、付属になっている気がする。「私」として生きたいと云い、4月から仕事に復帰すると云う。

♦このようないい加減な女性は職場にはいらない。子どもを邪魔にしてどうして母親だ。子どもがいるから自由がない、私じゃない。だったらあなたの云う「私」って一体何?兎にも角にも子どもを邪魔者扱いすることは止めて欲しいし、まだまだ離乳するのは早過ぎる。もっともっと子どもの側にいて母親の愛情を零れるほど赤ちゃんに注ぐことだ。かの女には母親として愛情の一かけらも見えない。彼女が考えていることは他人に子どもを預けて早く金銭を手にすること。その職場復帰にどうしても子どもが邪魔になるからこれならもう二人目は要らないと。巷間頻りに格差拡大社会が取り上げられる。これが金科玉条になって子どもを放って働くことがやむを得ないことのように云われている。しかし、社会の格差が広がろうと狭まろうと親が子に注ぐ愛情に差があって良いわけはない。

3人目の少し若い31歳主婦の話。
母親の自由時間、これは母親の精神的安定にとって、一番重要なのではないか。2歳の女の子の母である彼女は毎日毎日終わりのない子育てと家事に追われる。ささいなことで子どもを怒鳴る。もともと一人の時間をとても大切にしていた性格だったとしている。少子化対策と同時に母親対策として町やデパートで気楽に安い一時預かり施設があればいい、もし次の子が生まれれば上の子をどのように面倒見ればよいか。今までのように育児支援を当事者の祖父母に期待している流れではむりがある。

♦毎日毎日の終わりのない子育てと家事は当然だろう、子育ての終わりは親が死ぬか子が死んだ時だ。子を産んだ以上子育ての終わりは来る訳がない、子が大きくなっても子育ては続く。それが嫌なら始から結婚などしないがいい。頭から嫌々やる子育てだから直ぐに怒鳴る、叱る。被害者意識で誰かにそうか、可哀想に、よしよし、と哀れんで慰めて貰いたい。誰もそれが主婦の仕事で当然だと云ってくれない。知恵のある先輩の両親を避けて家庭を持つことは子育ての辛さは当初から分かり切った話だ。現在の主婦たち子どもを他人に預けることしか考えない。肌身はなさずの子育てをしない。背中に背負われて(夕焼け小焼けの赤とんぼ、背負われて見たのは何時の日か)母の背の温もりを懐かしむことのできる子どもはいなくなった。泣き虫の私は母ではないが祖母の背を錯覚かも知れないが遠い幻の記憶にある。町の中にでるぐらい、デパートで買い物をするぐらいの時間を何故子どもを邪魔にするのか。そんな気持ちで出歩くから迷子の館内放送は必ずと言えるほど日常茶飯事で出来(しゅったい)する。前にも書いた、結婚したからとて何も家を出ることはない、両親との同居を避ける風潮を改めて家族団欒の昔の姿に帰ればいいことだ。年老いてちょろちょろ走り回る子の面倒はなかなか手が掛かるが、これも祖父母の老後の楽しみでもあるのだ。

土地も潤沢にある国でもない、今は狭い土地に上に上にと伸びる住宅が生まれているが、世間を騒がせている耐震構造のごまかしで泣くことも無くなるだろうし、それほどまでに家やマンションを造る必要もなくなる。2世代3世代の集まった家族がどれだけ楽しいか分かるだろう。

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コメント

検索ページから偶然辿りつきました故、過去の記事を掘り起こしてのコメントとなりますことをお許しいただきたく存じます。

昨今、無責任な母親が増えてきておりますのは事実だと思います。
目の前で常識を違える行いをしたわが子を叱れない。
毎年のように起こる車内に残されたお子さんの不幸な死・・・等等。
人の親となるからには、それなりの覚悟や自覚というものは必要となるでしょう。

ですが、覚悟だけではどうにもならない部分もあることをご理解いただけないのは悲しいです。
昭和一桁のお生まれ、「女は家を守るもの」「子育ては女の仕事」「男は外で働くもの、子育てに手出し無用」「男子厨房に入らず」
の考え方を根底にお持ちの方が多いかと思います。しかも男性の方とあればその考えは強い傾向ではないでしょうか。

時代は流れ、今はあの頃とは全く異なった考え方が主流となっております。
男女の区別なく仕事を持つ機会も増えました。
夫の収入だけでは到底生活していけない世帯も、残念ながらございます。


社会の理解のなさが、少子化に与える影響は少なからずございましょう。
子連れの女性を見るだけで、迷惑そうな顔をされる方が現実に居ます。
騒いでいるわけでもなくただ居るだけで、です。
そんな世の中に、命をかけてまで子どもを何人も産み落とそうだなんて思えません。

子育てをしながら働く女性が、当然のように育児家事の負担を全て負っているケースもあります

同居を嫌がる背景にも、単なる我侭では済まされない理由もあるやもしれません。
「抱き癖をつけて甘やかしているのではないか」「エアコンは健康に悪いので使ってはいけない」等、根拠のない(それどころか、現代医学においては間違っております)古めかしい育児論を掲げて、今主流になっている考え方を受け入れもしてくれない。。。
同じ箸で食べ物を与えようとする、ご機嫌取りのために母親に断りもなく菓子を与えようとする。。。

子ども身を案じる母にとって、耐え難い事です。(まして、舅姑さんに訂正出来よう筈もなく)
逃げるしかありません。


推敲していくうちに、だんだん面倒くさくなってまいりました。

偉そうに若い母親を切り捨てておられますが、
貴殿は一年365日24時間無休の育児をされたことがありますか?
訳もわからず泣き続ける赤子を一晩抱き続け、「泣き止ませることが出来ない自分は親失格なのではないか」と悩む新米母親たちの気持ちを察したことがおありですか?
戯れに「子どもを預けたい」「職場復帰したい」と言うことがそんなに罪ですか?
母親が我が子に愛情を感じられない最も大きな要因に、周囲の無理解からくるストレスというものが挙げられるそうです。

かの母親たちの周りにも、労うよりも先に粗を探して駄目だと言い切る人が居られるのかもしれませんね。

追伸:顔も名前も公表されたテレビ番組で、正直な負の気持ちを答えられる人が世の中に何人居るのでしょう。。。
テレビカメラの前で聞かれたら、件の母親達だって貴殿が涙するような答えを吐いたやもしれません。

投稿: 通りすがりの新米母 | 2008年7月16日 (水) 13時36分

通りすがりの新米母さま、コメントありがとうございます。

まず、お断りしておきます。今日まで920本を超す記事を掲載しておりますうち、お読みくださった記事(06年3月)以降も、子育に関して数多く書いております。その中にはあなたがおっしゃる「昔の子育ては今とは全く異なっている」についても何度も触れています。その中には現代子育の間違いにも触れています。

生まれでる子が、今は21世紀、と思って体内から顔を出すわけではありません。昔も今も赤ちゃんは赤ちゃんで何も変わっていません。また、貧乏は今に始まったことでもありません。余程昔の方が家庭の生活は苦しかったのです。

また、本来身体が弱くて命をかけて生まなければならない人も中にはいるのでしょうが、普通の身体であれば、出産は激痛は伴うのでしょうが命がけでするものではありません。

あなたが間違っていることの根底には、“昭和一桁”を書物からか、誰かの刷り込みかは分かりませんが,こうと決めつけていらっしゃることです。昭和一桁にも赤ちゃんであった時代、子どもであった時代、成長して家庭を持ち、子育をした時代があるのです。あなたよりも何倍も子育には経験があるのです。また、働くことを否定はしていません。でも、子育を後回しにしての仕事の優先は決して良いこととは考えていません。母親が育ているにしろ、父親が育てているにしろ言えることです。だから、私は早くから企業内育児所の設置を義務づけるべきことを説いているのです。

泣く子を一晩中抱き続けることだけが子育てではありません。

それにあなたの欠点は、そうです欠点です。途中にいみじくも書いていらっしゃいますが、『書いて行くうちに、だんだん面倒くさくなってまいりました』と。

この面倒くさくなる態度が周りに対する悪意に変わっているのです。世間を見る目も、育児にしても舅や姑の過剰な愛情も、「古めかしい育児ほう」で切り捨てることになるのです。赤ちゃんは一人一人違います、個性を持っています。絶対正しい育児論などある筈はないのです。それが理解できずに話し合いをしようとせず、下らない育児書を頼り切り、聞く耳持たずの態度で面倒くさくなってロクに分かり合おうとしなくなるのでしょう。

その結果、自分の子にさえ愛情が抱けずに、「戯れに子どもを預けたい」などと自暴自棄になるその責任を周りのせいにして、自分の罪悪感を紛らわすことで逃げようとすることになるのです。「戯れに子どもを預け」ることは罪です、母親失格です。戯れとは、遊び半分の心のことですよ、子どもを車に置き去りにする親とどこも違いはありません。

なたではありませんが私も、一息つきたい気分です。

あなたの文章に、ちょっと不思議な感覚を覚えます。新米母を名乗っていらっしゃいますが、言葉の端はしに古めかしい表現が漂っているように思えるのです。特に前半と後半では後半部分に年配らしき違いを顕著に感じます。

迷い込まれた結果のコメントになったあなた、再び目を通すことはないかも知れませんが、「戯れに」覗くことでもあれば参考にして下されば結構です。

投稿: 小言こうべい | 2008年7月17日 (木) 15時23分

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