猿の群れ、射殺します
猿の害に悩まされている大津市北部や京都市東部の市街地で、ニホンザルが家庭菜園を荒らしたり、屋根の瓦を投げるなどしているため、滋賀県は群れのうち3割程度のサルを3月中に射殺などで駆除する方針を固めている。これまででもサルを1頭単位で駆除するケースは多くあったが、群れを標的にするのは異例の対策になる。そのために県には動物愛護団体などから中止を求める投書やメールが約30通ほど寄せられている。
日本での猿害の歴史は古く、江戸時代の報告も残っており、明治に入ると狩猟が自由化され、加えて鉄砲の発明で、一気に大量の捕獲ができるようになり、そのためにサルの数が減ると同時に猿害も下火になった。地域的にも特にマタギの多かった東北地方のサルが激減した時期があった。1974年にサルが狩猟対象獣から外され、捕獲の制限で再び増加を始めていた。1985年以降は年間で5.000頭を超える数のサルが捕獲され、有害駆除として捕獲され始めたことを示している。
猿害の対策も種々講じられたが、野生動物の保護という面からも研究は行われて来た。問題は複雑に絡み合った要因からなり、時間を掛けている間にも猿害は蔓延し、手っ取り早い局部的な対応が急がれ、柵に電流を流したり、花火を発火させて放逐を試みたり、音による脅しで逃れさす方法で対処するのが精一杯の対策でもあった。東北地方の比較的限られた範囲のリンゴ園では電気柵の効果は一定の効果をあげたところもあるようだ。
射殺を決めた滋賀県ではどうなっていたのだろうか。群れには約40頭がおり、約10年前から比叡山の南山麓の市街地に出没していたものだ。民家の庭の柿や栗を食べるほか、人から買い物袋を引ったくったり、洗濯物を汚すなどして住民からの苦情が続出していた。市の職員らがエアガンで山に追い立てても一時的な効果しかなく、市は県の保護管理計画に沿って駆除する「個体数調整」を要望していた。
2/16日、住民や学識経験者らと意見交換するシンポジウムを開き、年度内にも市からの有害駆除申請を許可することになる。県自然環境保全課は「群れを維持できる範囲で約3割を駆除したい」としている。
一方、秩父地方の深刻なサルによる農作物被害減少への対策は、埼玉県の農林総合研究センターが、サルの群れに発信機をつけ行動調査を進めている。横瀬長周辺のサルの群れで先行実験したところ、サルの行動パターンが分かり、今年度は一部の地区で被害をほぼ閉じ込めることができたという。同センターによると、秩父地域では、武甲山を取り巻くようにニホンザルが生息し、大根やねぎなどの農作物への被害が毎年深刻化している。
同センターは03年度、被害を引き起こしている30頭以上の集団に狙いを絞って群れのメス1、オス2頭の首に微量の電波を出す発信機を装着して追跡調査を始めている。すでに今年2月までに6つの群れの計11頭に装着を終えている。03年12月からの追跡調査で、1日の行動パターンがほぼ特定出来て、その習性を利用して地元の農家と協力してサルが朝出て来る場所に先回りして追い払うことを繰返した。昨年からサルはこの農家のシイタケや畠周辺に近寄らなくなったという。サルの学習能力を利用した対策だが、万全ではなく、これからも農家と協力しての追い払いは地域ぐるみで継続し、被害防止に乗り出す方針でいる。
それぞれに行政による対策が取られるだろうが、愛護団体からの抗議はなくならないだろう。日本人は本来森羅万象、山川草木にいたるまで神を見、命を見て、生きとし生けるものを尊んで来た文化を持つ。アイヌにはイヨマンテという『熊の霊送り』といって仔熊を連れた親熊を仕留めた際には、残された仔熊を1〜2年飼育したあと、盛大な儀式を執り行って親の国である神の国に送る(殺す)儀式である。アイヌの文化に馴染みのない現代人には残虐と映るだろう。しかし、狩猟採集で生きたアイヌにとっては熊は神であり、熊の霊を「神に返す」祭りで「神への捧げもの」ではないという。
殺した動物の皮で作られたブランドのカバンを抱え、コートを着、靴を履く、或いは肉を喰らって舌鼓を打つ。殺すために育て、成長した牛や豚を殺してスーパーに並んだその肉を、毎日のように胃袋に詰め込む。動物愛護に励む人たちの心には“いのち”はどのように存在しているのだろう。当たり前のように胃袋に送り込まれる殺された動物は一体なんだろう。動物愛護を叫ぶ多くの国の人たちは、何処よりも早く銃社会を作り上げ、どこよりも先回りして動物を殺し廻り、今になって少なくなったからお前たち、捕ることはいけない、殺すことは良くない、と叫んでも人の心には届かないと思うが如何かな。
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