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2006年2月24日 (金)

山口淑子(李香蘭)

毎日新聞(2/24)夕刊に久し振りに彼女の写真が載った。おん年86歳になる。当然インタビューの時のものだろうがびっくりするほど若く見える、エキゾチックな容姿は今も変わらない、70歳を過ぎたばかりのようだ。ずっと続いている特集記事、『この国はどこへ行こうとしているのか』で撮られたものだ。各分野の著名人に現在の日本を見て、将来への思いを聞き出したものである。

私の年代には日本名よりも「支那の夜」から知った中国名、李香蘭に親しみがある。本格的にイタリアで学んだ声楽は、後に満州映画社(満映)で中国人スターとしてデビューし、鈴を震わすような澄んだ声で歌う「赤い睡蓮」や「迎春花」が懐かしい。私の8歳9歳の頃だ。彼女は満州・奉天の女学校在学中に中国人高級官吏の養女となり、李香蘭と命名された。1945年の敗戦で満州国の消滅と同時に日本に協力した売国奴として銃殺刑に処されそうになるが、日本人であることが証明されて帰国する。帰国後は日本の映画界でも活躍していたが、渡米したおり知り合った日系アメリカ人の彫刻家イサムノグチと1951年に結婚。

彼女は二つの国の間で数奇な運命を辿ったが、イサムノグチもアメリカ(母の国)と日本(父の国)という二つの祖国を持つ人間として同じような運命を辿っていた。第二次大戦中、日本人の強制収容所に入れられるが、アメリカ人のスパイとして見られ、出所を願い出れば今度は日本人のスパイとしてアメリカ社会には戻れず、といった生き方を強要された。山口淑子と結婚して日本を訪れた彼は日本で丹下健三に依頼されて広島で平和大橋を架ける。その出来栄えに丹下は続いて原爆の慰霊碑の製作を依頼。しかしその原案は製作委員会から原爆を落としたアメリカ人のものとして却下される。(因に現在の原爆慰霊碑は丹下健三の1952年8月6日の完成になるもの)その後イサムノグチは日本の岐阜ちょうちんをヒントに現在でも照明器具として見られる「あかり」シリーズとなる照明器具をデザインする。竹を細く割いて周りを漉いた和紙でくるんだ器具である。円いもの、細長いもの、角張ったものなど変化に富んだ柔らかい照明器具として愛されている。

1956年イサムノグチと離婚した山口は1958年外交官大鷹弘との再婚を機に映画界から去り、1963年、テレビで司会者として活躍の場を持ち、ベトナム、カンボジア、中東、パレスチナを取材する。1960年の安保闘争の国会議事堂付近はデモ隊に混じって何度もジグザグ行進もしている。6月15日、デモ隊が国会に突入した日はご主人(当時外務省の安全保障課、現・日米安全保障課)と車で国会周辺を走っていた、東大生の樺美智子が死亡した当日の事だ、車の前を血だらけの学生3人が大手を拡げて車を止めた。「病院に運んで欲しい」と。乗車させて運び込んだ病院から「政府に反対するような若者は診察しない」と追い返されたことがあったらしい。

彼女が政治に参画していた期間は参議院議員3期18年(1974〜1992年)、彼女を国政へ転進させたのは田中角栄だ。ロッキード事件の刑事被告と、日中国交正常化の功罪については彼女の評価は『功』だという。「角さん級の幅、重さ、広さのある政治家がいなくなった。政治家が新しくなることは悪いことではないけれど、つまらないことを云う政治家が増えた」。小泉の靖国参拝には反対の立場で「教科書問題、歴史認識の問題をもう一度勉強して、けじめをつけるべき時です」という。

故大鷹氏と暮らしたマンションで一人住まい、引きこもる様子はないらしい。議員を引退してからも、中国、韓国の元従軍慰安婦への支援活動「女性のためのアジア平和国民基金」に参加し、これからは家庭内暴力に苦しむアジアの女性のための支援に展開して行くという。

トリノで開かれている冬期オリンピック、やっと取れたのが金メダルとあって朝から賑わうマスメディア、盆をひっくり返したような国家的大事件になった騒ぎを他所にこれを書いた。

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