巨星堕つ
作曲家 伊福部 昭(91歳)が亡くなった。
私が彼の名を知ったのは1950(昭和25)年、敗戦後反戦映画が多く作られていたころだ。それらは多く広島や長崎に落ちた原子爆弾をテーマにするものであったり、学徒動員であったり、軍隊の内幕ものであったりしたが、その中の1本、日本戦没学生の手記をもとに作られた「きけ、わだつみの声」で接したのが切っ掛けだった。戦争半ば、政府は敗色濃く兵士の数が激減するに及んで、1943(昭和18)年10月2日には学生・生徒の徴兵猶予の停止を決めると早くも10月21日、明治神宮外苑競技場で出陣学徒壮行会をおこない、12月1日には第1回学徒兵を入隊させ、戦地に送り込んだ。引き続き従来の徴兵年齢を1歳引き下げ19歳とし、11月に決めていた45歳まで伸ばした兵役で19歳〜45歳までで日本軍は構成されることになる。更に政府は少年兵、幼年兵へと年齢を下げ、敗戦までの断末魔の戦時体制が続いた。
これら若者たちが家族へ、両親へ、兄妹へ、恋人へ届くかどうかも解らない手紙を書き、或いは日記にし、メモに残された遺稿をもとに製作されたものが映画「きけ、わだつみの声」(伊福部:36歳)となった。なぜ、タイトルにある伊福部昭の名を覚えたのかわからない。考えられることは恐らく映写が始まる、おや、凄い音楽だ、名前を確認しなくちゃ、で気をつけて捜したものと思う。【後年、全く同じ映写が始まると同時に、これは、これは何だ!と覚えた作曲家に武満徹がいる。映画は「切腹」(1962年:武満32歳)だ。】
伊福部の音楽は重厚な音づくりであったことだけははっきりと覚えている。当時映画の中の青年たちとほぼ同年齢の18歳になっていた私には、実体験をしているような錯覚さえ味わったのを記憶している。続いて彼は1952(昭和27)年「原爆の子」、1953年「ひろしま」の作曲を手掛けている。「ひろしま」は広島で実際に原子爆弾の被害にあった戦災児たちの書いた綴り方(作文)をもとに出来上がった作品だ。敗戦後8年を経過し、それまでに多く作られた戦争を暴き、反戦色を表に出した姿勢ではなく、大戦を冷静に見直し、戦災にあった子どもの生きる姿を愛情を持って描いた、静かに戦争を考えさせてくれた小粒ながら名作だ。
その翌年1954(昭和29)年「ハワイマレー沖海戦」の真珠湾攻撃の特撮で一躍名を馳せた円谷の「ゴジラ」の作曲を手掛け、10作以上続くシリーズを手掛けている。生涯に手掛けた映画音楽は約400曲と多い。
当初日本の音楽界では認められなくて、海外で高い評価を受けた武満を失い、ここに伊福部を失う。 合掌
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