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2006年1月14日 (土)

旬が消える

目に青葉 山ほととぎす 初鰹
春も五月ごろになると出回るのが初鰹、と相場もきまり、女房を質に入れても食べたい、と川柳にも詠まれたりしたが、最近ではそれもそろそろ危うくなって来た。最近の養殖技術は不可能とみられていたものまで成功させるところまで来ている。

魚に限らず野菜や食品など昔は考えられない食品が冬期のデパートに、スーパーに、コンビニに並んでいる。代表的なものに苺があり、アイスクリームがある。今ではクリスマスケーキには赤い色をした苺がクリームが隠れるほどに飾り立てられ、昭和一桁には到底信じられない思いだ。苺といえば少年時代、待ち遠しい初夏の贅沢な食べ物であった。当時は静岡の‘石垣いちご’が全国版だった。当然一年に6月の季節にだけ食べられる美味しい果物の代表格だった。現在はハウス栽培で作られ、一年中を通してお目にかからないシーズンがないほど巷に溢れる。

また、野菜はハウス栽培が多くなり、最近ではビルの地下で稲が穂をだし実が稔り、季節に拘わらない栽培が可能になったニュースが流れた。夏の代表野菜の胡瓜に茄子、果物ではメロン、瓜、トマトなどなど、どれも昔は出回るときは夏の到来を告げる食品であった。化学の進歩は無限の可能性を追求し、食文化を豊かにしてきたかのように見える。

しかし、改良に改良を重ねた結果、何が起こっているだろうか。食品が持つ本来の香りを失って行ったのだ。トマトで云えば夏のむせ返るような太陽の下で育ったものは独特の香りを放ち、食欲をそそってくれた。海に近かったため泳ぎに行く途中の畑から、一つ、次の日にも一つと、失敬した悪がきの頃の思いでもある。今、食品売り場に並んだトマトには何の香りもない。肉は厚くなり、形だけは良く揃っているが山と積まれたトマトでも側を通り過ぎても漂う臭いがない。懐かしい臭いを求めても捜し出せない。鼻の先に当てても臭ってくれない。胡瓜もそうだ、形は真直ぐに揃い、整然と並べられているが、のっぺりとして手のひらを痛いほど刺したトゲトゲが消えた。農家によってはそのような昔風の胡瓜を捨てないで作り続けている人もいて時々店頭に出て来るが、値段は倍ほどもして食べたい・・・、だけど、と二の足を踏ませる。

葉っぱものにも言えることだが、ポパイで有名な(時代錯誤?)ほうれん草、とても美味しいとは言えない。昔のほうれん草は根元が赤くて糖分をたっぷり含んだとても美味しいものだった。栽培し易く丈夫に改良されたと云われる品種は、見た目にも購買意欲を喪失させるようなただの雑草に近く、草を買うのに金を出すのが勿体無いような代物で糖分も薄く、美味しくない。保存技術が進み、夏の物が冬でも食べられるようになり、反対に冬の食べ物が夏でも口に入るようになった。

人参に至っては何だろう、ただの赤い大根だ。あの子どもの頃から好きだった臭いを全く失ってしまった。嫌いな子が多いから、と聞くが親に美味しく食べさせるだけの知恵がないからだ。『お客さまは神様です』と云った歌手がいたが、将にそのために美味しいものが不味いものに作り替えられた典型的なものだろう。

アイスキャンデー、麦わら帽子に首には手拭い(タオルじゃない)を巻いた小父さんが「えー、キャンデー、キャンデー、アイスキャンデー」と自転車を漕いで汗をかきかき木の箱に詰めたアイスキャンデーを売りに来てくれた。貧乏でも時には母にねだって小銭を手にし、何にも優る冷たい氷を頬張った。自転車の後ろに小さな「アイスキャンデー」と染め抜いた旗指物を挿した姿は一幅の絵であった。勿論アイスなど(‘など’に注意)夏以外には口に入るものではなかった。時代はアイスキャンデーに代わるアイスクリームとなって春夏秋冬いつでも食することの可能な嗜好品になった。

しかし、日本人の‘わび’も‘さび’も季節感から来る。いわゆる旬を大事にする民族であった筈だ。いまそのわびもさびもその感覚すらも遺物になって失くしようとしている。


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