« 2005年12月 | トップページ | 2006年2月 »

2006年1月31日 (火)

流行(ファッション)

少し前になるがジャージーの似合う有名人を選ぶ第1回「ベスト・ジャージスト」の表彰式が18日、東京都内で行われ、男性では俳優の成宮寛貴(23)と、女性ではタレントの若槻千恵(21)が受賞した。

写真を見て驚いた!有名とある俳優は全く知らない。昭和1桁が幾ら情報不足とは言え、1度もお目に懸かったこともない役者が有名とは恐れ入った話。一方のタレントの方は少しばかり足りないことが受けているお笑い系の女性であることは知っている。

冒頭で驚いたと書いたのは、受賞した男女もさることながら、コメントを喋り、審査員でもあった男があのテリー伊藤と知って仰天だ。テレビで見るテリーのあの阿呆スタイル、何を考えているのか、よほど頭が変型しているのか、毛がないのを恥ずかしがっているのか、全く似合ったものを見た試しのない不似合いな帽子を毎回毎回取り替えてみせる。みっともない風采の見本のモデルとして。もっとみっともないのがあのサングラスだ。今まで取り替えてきた数えきれない数のサングラス、一つとして似合ったものを見たことがない。暗くて見通しが悪いため眼鏡越しに見る汚い目線。加えて通らない鼻声で喋るしたり顔の喋り口。演出家というのが余ほど偉いと錯覚しているのか。どこから見てもセンスのかけらもない審査員に選ばれたジャージスト、良い訳がない。

まるで今騒ぎのテント生活をしている人たちなら、全員そこに居並んでも入賞するだろうほどの見苦しさだ。昔乞食と呼ばれ道端に蓙を敷いて座り、道行く人の投げる銭の施しで生活していた人たちと寸分違わない。髪は茫々の伸び放題。これが流行りと云うがこれほどみっともない髪型はお洒落の歴史にもなかった。女性が似合う似合わないに拘わらず、誰かの真似をしないと疎外感を持つのは慣れているが、(成人式の「はん」で捺したような和服に襟巻をみれば、その付和雷同性は理解出来よう)現代の日本の男たちまで右へ習え!で似たり寄ったりになっているのは余りに腑甲斐ない。‘今頃の若者は’は昔から云われていた言葉だが、男がファッションでそう誹られたことは嘗てなかった。それほど軟弱なのが今の男たち。センスなんて言葉が使える代物じゃない。ハリネズミ、かヤマアラシ、揃えない不潔に伸ばした髪は女の子の真似をして西洋風に色を着け、上から下まで道端で拾って来たような襤褸を纏い、まるで襤褸布が歩いているような有り様だ。何処まで見苦しくなれるかを競っているようなものだ。

継ぎはぎだらけのファッションは押し入れの中に眠っていた襤褸を捜し出し(母がよくやっていたが、あっという間に見違えるような寝巻きになって兄弟に配られた)当座の間に合わせに拵えた簡単服のようだ。体のあちこちからだらだらと延びた端切れが垂れ下がって纏い着く。襤褸同士を併せるセンスは併せる生地の柄が命になるが、納得の行くものを見た試しがない。気を衒って目立つだけ。

ツイギー(小枝)という骨と皮のモデルが60年代の日本のファッション界を駆け巡ったが、彼女の残した功績は大きかった。外国から入って来て日本人の体格(当時は世界でもず抜けた短足人種)にぴったりと合ったファッションとしてミニスカートが瞬く間に日本女性の間に蔓延した。これほど日本人にあったファッションはこれより先にも後にも出現しない。彼女の功績は計り知れないほど大きい。それまでお淑やかだった日本女性は大胆になり、丈の短さを競うように腿を剥き出しにした。男性が到底真似のできない冬になってもこのファッション、首にはお決まりのバーバリー、もともと男性ファッションを牽引して来たバーバリーもさぞや驚いたことだろう。何十年経っても真似から脱却できない女性ファッションだ。

ひととき繊維メーカーはミニスカート流行りで伸びない消費に業を煮やし、ロングスカートで抵抗しよう宣伝を試みたが失敗に終わった。今の世に清清しいファッションを求めるのは無駄なことなのだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年1月30日 (月)

タバコと酒

久し振りにタバコと酒を書く。
毎日新聞(1/28)に両者を取り上げた記事が載った。比較しての内容ではないが、方や悪者、方や良薬としての書き方だ。私は現在15年以上の禁煙中(そうじゃないお休み中で、気が向きゃ何時でも復活する)、酒はとんとやらない。世界的なヒステリック状態の禁煙の中で、中国だけは違っている、喫煙人口は約3億2,000万人の愛煙王国だ。面白いのがイタリアだ、16歳未満にはタバコを売ってはいけない法律があるが、未成年者自身の喫煙を禁じる法律が存在していない。現在でも14歳以上の国民の22%にあたる約1,122万人が喫煙者となっている。それでも未成年者の喫煙に対する規制論議が持ち上がらないところが、不思議だという。

一方酒に関しては良いことずくめだ。曰く、ほどほど飲酒でますます長寿に、曰く、糖尿、痛風は熟成ウイスキーでストップ、まだまだ曰くに、ストレス緩和、美白効果にも、とグラフや豊富なイラストを使って酒飲みの男女の喜びそうな記事になっている。厚生労働省は国民的な健康プラン「健康日本21」で純アルコールにして一日約20グラムを日本人の適量としている。例えばビール中壜一本が540㎖、清酒1合弱で160㎖、ワイン・グラス2杯弱で220㎖、ウイスキー・ブランデーダブルで60㎖、それに35度の焼酎なら半合弱で70㎖としている。
酒飲みにお伺いだ、この量で打ち上げて帰路につける人間が何人いる? 立ち飲みで済まそうにもこれじゃ5分と持たないだろう。自宅で奥さんに監視されながら飲む男なら、泣く泣く従う量なのだろうが、同僚と愚痴るために寄る酒場ではこうは行かないだろう。

適量が守られれば世の中安泰だ。守ることのできないのが適量と云う厄介な目安なのだ。日本人の約4割は遺伝的にアルコールに弱い、健康状態や男女差、年齢や体の大小によっても変わってくるだろう。個々人の適性を知った上での指導なら理解できるが、十把一絡げにしてのほどほどや適量なんてのはまやかしとしか思えない。いずれにしても適量など守れないのが酒飲みの酒飲みたる所以だろう。これが守られれば酔っぱらい運転も、酒飲み運転も、酒帯び運転もないし、暴走による殺人もないだろうし、酒の上の喧嘩もなくなるだろう。街を汚すゲロや酒臭いにおいを吐きかけて他人を困らせることもなくなるだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年1月29日 (日)

ソニー・ニコン・コニカミノルタ

諸行無常を感じるこの頃だ。先にソニーが一世を風靡したウォークマンの生産工場を閉鎖し、工場を外国へ移転させると発表したのに続いてニコンのフィルムカメラ事業の縮小(一眼レフ8機種のうち6機種)、立て続けにコニカミノルタホールディングスのカメラ、フィルム事業からの完全撤退が発表された。

何時でもどこでも音楽のある生活を楽しめたウォークマン、カセットテープからCDへ、MDの短かった期間を一足飛びにメモリーを媒体とするiPodその他の機種が世界規模で広がっている。技術の革新は驚異的な曲数を持ち運ぶことを可能にし、若者たちの圧倒的な支持を受けている。私などはアナログから未だに離れられずに時あればアナログプレーヤーに載せたLPレコードの音を、スクラッチノイズと共に享受している。ダイナミックレンジの広いクラシックはやはりヘッドホンで聴いても楽しめない。モーツアルト然り、バッハ然り、ベートーベン然りだ。音の加工技術が如何に進んでも最終的には人間の耳にはスピーカーを通したアナログの音だ。ウォークマンで聴ける趣味の曲は限定されたが2台まで潰した。CDタイプのものは車に搭載したが、運転に心地よいのはバッハだった。2つのヴァイオリンのための協奏曲ニ短調、ヴイオリン協奏曲ホ短調、五嶋みどりとズッカーマンの類い稀な曲づくりは運転時の神経を鎮め、優しく車を走らせることができた。

また、銀塩写真で写真の面白さを学んで来た世代にはASA10が50に、100、200、400、800、1000、1600と日月とともに超ハイスピードの感光材料に開発が続き、高速移動の被写体や暗い場所での対応が可能になり、白黒は東京オリンピックの年に『天然色写真』を謳ってコニカがASA50を世に送りだした。一足遅れてフジフィルムが同じくASA50で追い掛け、揃って世界のコダックを追い掛けた。当時は日本のカラー写真はコダックに遅れを取ること凡そ30年と云われていた。疾うに追い抜いた現在でも、こだわるプロはコダックを崇拝している人もいる。

フィルムの発達は使用するカメラやレンズの発達を促し、システム化され、カメラ自体は自動測光による適正露出装置を持ち、被写体までの距離の自動測定による自動焦点カメラとなり、交感レンズ群を生み出して行った。レンズ開発の段階でキャノンは人間の目よりも明るいと評判を呼んだ大口径レンズを発売した。そのキャノンは現行フィルムカメラ5機種の生産を継続する考えのようだ。世界的に見て「ニーズは堅固」としている。キャノンのカメラ事業に占める割り合いを04年度で見ると、ディジタル69%に対してアナログが16%を占めていた。

技術開発は小型カメラ(ミノルタの8ミリ)やインスタントカメラを世に出したが品質面で評価されず、衰退の道を辿って行った。フィルムメーカーと写真を楽しむ人との間には印画紙にプリント加工するラボが存在するが、昔から存在した街の写真屋さんに小型の現像機、プリント、引伸ばしのプリンターが導入され、写真業界の勢力分布が様変わりを始めた。工場としてのラボの経営は困難を極め、小型ラボの吸収合併が行われるようになった。関東圏だけでも多くのラボがなくなり、街の写真屋さんでは加工不可能なプロの写真加工、所謂商業写真の分野を手掛けるラボが専門ラボとして生き延びた。特にディジタルカメラの出現はそれまでのフィルムを主材料としたラボには経営のノウハウの蓄積がなく、パソコンのパーソナル化が一層拍車をかけることになった。

自宅に置いて個人で写真にすることが可能になったプリンターの出現は、ますますフィルムの必要性を弱め、低価額での写真化を可能にした。大量生産されるディジタルカメラはコンパクトになり、フィルムカメラで培った製造技術を取り入れて誰にでも使えるカメラとして浸透して行った。フィルムカメラは次第に付加価値を求めて高級品になり、入門機はディジタルで十分という風潮を拵えて行った。

以前は写真の価値を美しい色彩に求めた日本人の美的センスと、色はどうでもよい、何が写っているかが解ればよい(赤ちゃん誕生、家族団欒、旅行スナップなど)とした西洋の感覚との比較が写真の価値基準としてあったが、今やラボ経由で日数の懸かった写真よりも速ければ良し、とする現代の日本人には品質への妥協をある程度許すことが可能なのだろう。そう、品質は今でも銀塩写真の方が優れているのだ。大きく引き伸ばしてみるが良い、ディジタルにはデジタルの特徴がはっきり出て来ることがわかるだろう。極超微粒子を塗ったフィルムと印刷技術、違いは直ぐに解る。フジフィルムは写真文化を守り育てることが使命として作り続けることを決定している。

今、大型カメラ店の高級フィルムカメラや交換レンズは店に入荷と同時に殆ど売り切れになる状態と聞く。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2006年1月28日 (土)

ロンドンのクジラ

誰の、どのようなレポートや記事を見ても、読んでもロンドンのテムズ川の汚さは尋常ではないようだ。今から29年前この川を渡った時にロンドンタワーにも入ったが、幸いロンドン橋はバスの中だった。臭いを嗅がなくて済んでいたのだ。当時はもっと汚かったろうと思う。現在のこの川は余りの汚さに浄化の努力をし、改善されて来ていたと聞いていた。しかし、今回(1/21)の川に迷い込んだクジラ騒ぎに絡んでレポートを見聞きしても、その汚さは全く改善されていないようだ。話ではクジラが死んだのは汚いテムズ川の水を飲んだからだ、ということさえ云われるほどのようだ。

ところが25日になってイギリスの一流紙(タイムス、インデペンデント)に環境保護を訴える人たち(グリンピース)が、汚い川が話題になるのを牽制するかのように、日本の調査捕鯨を批判する広告を掲載して日本大使館へ抗議するように市民へ呼び掛けた。広告には川に迷い込んだクジラを助ける写真と、日本の捕鯨船内のクジラの写真を並べて刷り込み、呼び掛けは「一頭のクジラの死が世界の注目を集める一方で、日本の捕鯨業者は1,000頭以上の虐殺を計画している。犯罪をやめさせたいなら今、行動して」と書かれている。更に、電話やメールで日本大使館に抗議するように呼び掛けている。

広告を出したグループはさまざまな環境問題について、いろいろな機会を捕らえて主張をアピールしているという。主宰したピーター・マイアズ氏は「テムズ川の騒動があり、クジラ問題に関心を持ってもらう好機会だった」という。実際、大使館には25日には抗議電話が約20件、メールが約50件寄せられた。

抗議する彼らは現在これほどまでに少なくなったクジラを彼らの云う“虐殺”して来たのは何処の国なのか歴史を学んでいないのだろうか。世界中に今尚エリザベス女王を元首と戴く国々が存在する一大植民政策で、世界中を暴れ廻り、19世紀の初頭にはイギリス船団により大西洋のクジラは壊滅的な減少となるや、赤道を下って南氷洋にまで進出。1949年50年には世界最大の捕鯨母船バリーナを擁し、“虐殺”はシロナガス鯨換算でイギリス船団が1,758頭、日本が約1,300頭の数字を残しているのだ。当時の日本の国際競争力はBクラスでしかなかったのだ。しかも西洋の捕鯨が鯨油だけを必要としていたのに、日本は西洋が廃棄していた鯨肉を食する食文化を持っていた。1950年といえば敗戦後の日本は食糧難を味わっていた。アメリカ占領軍指令部(GHQ)は南極での捕鯨を認め、日本の食卓に鯨は欠かせない食べ物になっていた。

1610年、世界に魁けてイギリスが捕鯨を始めていた。イギリス国内の犯罪者を流刑人として送り込んでいた北アメリカの植民地ニューイングランドで捕鯨産業が興隆を見せ、18世紀の末頃にはイングランドとスコットランドの捕鯨船団が大西洋を席巻していた。19世紀の初頭には大西洋の鯨は減少し、当時の2大植民地国であったフランスと戦って敗れたイギリスは捕鯨の独占が崩れ、代わってアメリカの捕鯨活動が活気づくことになった。1847年にはアメリカの捕鯨船の数は世界中で900隻のうち722隻を占めていた。石油が発掘されるまでアメリカは鯨油に頼っていたのだ。アメリカの独立でイギリスからの罪人の流刑地を失ったイギリスは、遠くオーストラリアに罪人を送り込むと同時に原住民の殺戮を繰り返して住み着き、捕鯨基地を置いた。

1850年代アメリカのニューベッドフォードが捕鯨港の中心となるが、次第にアメリカの捕鯨産業は衰退して行く。間もなく(1863年)ノルウェーで捕鯨砲が発明されて一気に捕獲効率がアップする。その頃からノルウェーでのセミクジラの捕獲数が目に見えて減り、1902年に1,305頭だった数が10年後の1912年には15頭にまで激減する。鯨の保護が始めて考えられるようになり、1935年、セミクジラ、ホッキョククジラの全面保護が実施され、続々と続く捕鯨禁止に繋がって行く。

 1946年 国際捕鯨委員会(IWC)が設立される
 1951年 日本が IWC に加盟
 1966年 ザトウクジラの全面保護
 1967年 シロナガスクジラの全面保護
 1973年 カナダ・バハマが捕獲を中止する
 1976年 ナガスクジラの全面保護
 1982年 商業捕鯨禁止措置(モラトリアム)が採択される
 1988年 日本が商業捕鯨を中止する

グリンピースは現在日本が北大平洋鯨類捕獲調査計画(JARPN)と南極海鯨類捕獲(JARPA)の調査捕鯨プログラムに基づいて調査捕鯨を行っいることを非難するものである。遡れば日本に全く非がないとはいえないにしても、それを上回る“虐殺”をしてきた国の言えることではない。鯨に留まらない、陸の動物においても銃社会の国の人間たちがやって来て象牙を取るための虐殺、毛皮が目的の野獣の殺戮、大量殺戮の結果固体数を少なくしておいて、動物保護を叫ぶのは如何なものか。学者によっては世界で魚類の収穫が年々減少するのは増えて行く鯨類が餌として大量の小魚を必要とするからだ、という。モラトリアムを踏まえ調査捕鯨プログラムを守って調査捕鯨を行っている日本を非難する前に、誰が見ても汚い川、観光客が口を揃えて汚いと見る川、ひょっとしてその水を飲んで死んだかも知れないクジラを慰霊して、汚濁した水質を澄み切った水の流れる川に復元するよう、自分たちの頭の上の蠅を追った方がいいのではないか。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2006年1月27日 (金)

ミソクソロジストって?

毎日新聞(1/22)から
ブログのタイトル間違ってるぞ! ミ・ソ・ク・ソ・ロっと、やっぱり間違いだ。
何でも果物や野菜、フレッシュハーブなどを使ったカクテルをつくるバーテンダーのことだって。バーテンダーと云う語は知っている。

ややこしいカタカナ語を日本語に置き換えよう、とする一方でからかうように新しいカタカナ語が生まれて来る。「ミクソロジスト」がバーテンダーで何故いけないのか。新聞を開いた途端に昭和一桁の味噌汁世代にはどうしても日本語の語感が先行する。味噌とくそ(失礼!)を混ぜるのか?って。英語圏での語感には何も不自然さもないのだろうが、日本語の語感からは幾ら流行りのカタカナ語に置き換えても全く不自然だ。何やら近頃のニッポンという国には自国の言葉が使えない人たちが勢力を持っていて、従来あった美しい日本語を次々に隅に追いやって行くように見える。日本語で考えることができないようだ。

一体何時頃からこのような現象が現れたのだろうか。敗戦後進駐軍兵士(主にアメリカの日本占領軍)が日本の春を鬻(ひさ)ぐ女たちを小脇に引き連れて、その女たちが怪し気なアメリカ言葉を口にし始めたのが我々が街なかで耳にした最初だろう。私たち世代は英語は敵国語として野球用語すら日本語に置き換えて教えられた世代だ。音楽のド・レ・ミ・ファ さえ は・に・ほ・へ に置き換えられた。進駐軍と同時に映画が輸入された、ジャズが耳に入って来た、クリスマスがやって来た。暮になるとお正月の歌の代わりにジングルベルが大きな音でが鳴りたて、酔っ払いが道路を占領した。数寄屋橋はサンタクロースの赤い帽子と酔っ払いで身動きも取れない状況の気狂い騒ぎになった。アメリカナイズの始まりだろう。

アメリカの漫画‘ブロンディ’が庶民の家庭を、レディーファーストを教えた。映画も‘ママ’を広めるのに一役買った。倅はそろそろ40歳だが既に周りは日本語を忘れていた。100%と言えるほど日本の“お母さん”が‘ママ’に“お父さん”が‘パパ’になっていた。わが家庭では一度もママ、パパは口にさせなかった。大勢のお友達と混じってもしっかりと日本人の父母を表わした。人前で‘父’‘母’も言えた。

しばらく前になるが皇室の映像が流れた。皇太子親子の和やかな日常だった。腰抜かさんばかりに驚いたぞ!。子どもの口から‘ママ’が発せられた。雅子ママだ。‘パパも読んで’皇太子もパパだ。古くからの宮中言葉「おもうさま」「おたあさま」を頑なに守れとは云わないが“お父さま”“お母さま”が嫌なのか。日本の皇室だろ?何故英語なの?日本語の乱れとともに今に日本から日本語が消えるのだろうか。それもいいだろう、疾うに日本はアメリカの植民地になったようなもんだから。

言葉を知らない現代っ子、やっと覚えて時々使用するお母さんにお父さん、誰に向っても‘お母さん’‘お父さん’。話す相手(身内、友人、教師、先輩、知らない人など)によっての使い方を知らない。テレビを見ていて『この阿呆!』と思わず呟く。‘父’‘母’が言えない、それを又誰も糺してやらない。小学生2、3年ならまだ許せる。それが高校生にもなって、否それどころではない、社会人になってもまだ云っている。小学校では英語の授業を取り入れようとしているが、救いようがなくなる前にせめて基本的な日本語がまともに使える日本人を育てて行って欲しい。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年1月26日 (木)

修学旅行で不祥事

毎日新聞(1/26)朝刊から
昨年11月に修学旅行先韓国のソウルで、高知県須崎市の明徳義塾高校2年の生徒5人が万引きをしていたことが、発覚した。生徒5人はいずれも同校の野球部員で、この学校は高校野球ファンなら記憶にあるだろうが、昨夏の甲子園の全国高校野球選手権の開催直前に、部員の暴力行為で出場を辞退して昨年8月から6ヶ月間の対外試合禁止処分を受けていた高校だ。当然処分期間は延長されて尚1ヶ月の対外試合禁止処分が課された。(1/25)

日本学生野球協会によると、5人は宿泊したホテルの売店で時計他を精算せずに持ち出していた。商品が減っていることに気付いたホテル側が学校側へ連絡。5名は自ら名乗り出て返却し、謝罪した。

私はこの問題を違った面から見てみたい。
“石川や濱の真砂は尽きるとも世に盗人の種は尽きまじ”と云ったのは釜ゆでの刑に処せられた盗賊、石川五衛門が処刑の前に詠んだと云われる句だが、高校生に限らない。砂浜の砂が尽きても泥棒がいなくなることはないだろう、と。幾千年の後までも恐らく地球の命が果てても(まだ30、40億年あるが)育て方によってはこの高校生のような悪ガキがいなくなることはないだろう。世間がどんなに正義をかざして見ても、他人がどんなに説法しても高校生にまでなっていれば聞かないやつは聞いていない。もう性善説では制禦できいないところに来ているのだ。

恐らく野球をやって甲子園でプレーできる子たちは小さい鼻っ垂れの頃から人並み優れた運動神経を持ち、球を追い掛け、走り、投げては打つことにも稀なセンスを発揮して成長してきたと思われる。大勢の子どもたちから抜きん出て選ばれ、周りからはわいわいと囃し立てられ、大事にされ、仲間からは一目置かれる存在として目立っていただろう。少年野球チームでプレーする近くには、わが子自慢の母親(多くは母親が圧倒的に参加する)や、時には父親が参加し、一挙手一投足に拍手喝采の賛辞を与えていただろう。

この過程の中で親のしなければならない最低限の子どもへの躾がどれだけなされたか。球がどれだけ遠くへ投げられるか、如何に速く走れるか、ヒットを何本打ったか、三振が幾つ取れたか、だけが興味の対象になり、運動神経が優れているだけでは何も優れた人とは言えない、人間の基礎を、人の価値を、人の心を、情けを、物の道理を、善悪、社会の仕組みを教えて来たか。大きくなるに連れてちやほやされる自分を優れた人間と思い込み、他人を見下すようになる。体は大きい、攻撃される懸念は他の人よりも小さい。現在の13歳、14歳は体だけは母親よりも大きくなっている。もう母親が云う耳に痛いことなど聞く耳を持たない。この時期ではもう手遅れになっている。教師でもだめだ、気心知れた仲間同士でないと何も通らなくなる。その仲間が全く同じように親からの躾を受けていない。いや、そうじゃない、親が何も教えられないのが今の日本の親たちの実態なのだ。朱に染まれば赤くなる、似たもの同士の仲間が膨れ上がって行く。

高校生にもなれば色気もつく、殆どの選手が眉を剃り(甲子園に並んだ時の顔を見ればよい、一時代前のやくざと見間違うような殆ど眉を剃り落としたヤツもいる)世の下らない流行を追い掛け、長髪を垂らしたやつこそ見当たらないが、それが格好良いと思い込んでいる。まだまだ半人前が一人前のような錯覚をする。目に見えるこれさえも親は知らん顔でいるのだ。 中味は耳にピアスをしたスラッガーと呼ばれたプロ野球選手が出たが、憧れのチームをお払い箱になっても尚他から声を掛けられると女々しい姿で縋りつき、言い訳がましい言葉を吐くのと同じように、眉を落とし、如何にも俺は、の高校生が、試合に負けると女の子同然めそめそと泣いてグラウンドの土を書き集める。泣くような試合なら始めからしなければ良い。勝負の世界には必ず勝者、敗者があるのだ。それさえも理解出来ない頭で世の中が渡れるものか。私は負けて泣く高校野球など大嫌いだ。汗と涙を売り物にして書きまくるメディアも頭が変だ。

要は現在の親が親でいる限り、子どもは無責任なままで良いも悪いも判断できないまま成長(とは呼べないな)していく。高野連でもない、学校でもない、教師でもない、監督でもない、先ずは親がしっかりと子どもを育てることだ。そうすれば外国へ行ってまで盗みをするような恥っさらしな子にはならない筈だ。親は子のやったことの責任をしっかりと認識するべきだ。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2006年1月25日 (水)

急増するベビーホテル

毎日新聞(1/23)夕刊から
児童(乳幼児も含む)を夜間も預かる認可外保育施設「ベビーホテル」の施設数が最近10年間で3倍に急増している。一方で国が定めた指導監督基準に適合している施設は、01年度以降4年連続で2割台しかないことが厚生労働省の調べでわかった。自治体による指導後の改善率も4割に満たないため、厚労省は指導の徹底を指示する方針を決めた。少子化対策が国の大きな問題となる中、保育環境の整備の遅れが改めて浮き彫りになった。

保育施設には児童福祉法第35条に基づき、区市町村が設置した施設、又は、民間事業者が認可を受けて設置した施設である「認可保育所」と、「認可外保育所」(行政の認証、認定があるもの、認証保育所・保育室・家庭福祉員と、行政の認証、認定がない事業所内保育施設・院内保育施設・ベビーホテル*・その他の施設とがある。

*ベビーホテルとは、認可外保育施設のうち
 ① 午後7時以降の保育を行っているもの
 ② 児童の宿泊を伴う保育を行っているもの
 ③ 時間単位での児童の預かりを行っているもの
のいずれかに該当するもので、他の分類に含まれないものをいう

厚生労働省によると、
 95年度 施設数  511ケ所  児童数 約14,000人
 04年度  〃  1587ケ所   〃  約30,000人 に達した

一方、自治体が04年度に立ち入り調査をした1,528ケ所のうち基準に適合したものは303ケ所であった。指導監督基準は職員の資格や施設の設備、災害への安全対策、利用者への情報提供などを定めている。
調査で不適合(複数の場合も)とされた項目で最も多かったのは
 健康管理と安全確保「感染症の対応」---  764ケ所
 非常災害に対する措置「非常口の設置」-- 559ケ所
これら不適合の施設に対して都道府県では必要に応じて文書指導から施設閉鎖命令までの措置で改善を図るように指導する。
 04年度の文書指導は1,004ケ所に上り、改善勧告も一ケ所あった。ただ、前年度に指摘を受け04年度に改善が確認された施設は約36%で指導効果は十分ではない。
基準は01年度に強化されて以来、適合施設は
  01年度 22%
  02年度 20%
  03年度 24%
  04年度 20% に留まっている。

法的規制のないベビーホテルでは、場所、料金、保母の数から食事の内容まで、すべて経営者の腹1つで決まる。経営者が元キャバレー業者であっても、不動産業者であっても、ラーメン屋さんでも、水商売をしていた人でも園長になれる。
しかし、保母として働くとなると過酷な条件が待っている。児童を預かるからには夜の仮眠も殆ど取れない、2時間も眠られれば良い方だ。仕事は子どもの食事や入浴、排便、就寝の世話以外にも掃除、洗濯、買い物、蝶理から後片付けもある。計算事務までやらされる。

実際のベビーホテルはどのような人たちが利用しているのだろうか。午後7時以降の保育に頼らなければならない親の仕事は、或いは子どもを宿泊させなければならない親の職業は?
実態は母子家庭から親が息抜きするために預けられる児童もいるのだ。
生後2ヵ月半で預けたまま10ヵ月、時々見に来るだけの母親、或いは1年、2年ベビーホテルに放置されたままの子、日曜日には迎えに来ていた母親が3ヵ月経過した頃からばったり来なくなる。
最近の出生率の低下は公立乳児院も擁護施設も定員われが目立つ。公的施設が空いているのになぜベビーホテルが求められるのか。認可外と云うだけで碌な実態調査もしないで受け皿だけをあれこれ云っても良くはならない。

毎日新聞は‘災害や感染症対策、基準たった2割’と書き、『子供の安心置き去り』と大書しているが、わたしには子供を置き去りにしているのは親の方に思えて仕方ない。


 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

退職後の不安

毎日新聞(1/24)から
迫り来る団塊世代の退職問題が喧しく取り上げられ始めた。会社組織を離れ、福利厚生サービスを受けられなくなったら、と。中高年のそんな不安に応えようと日本でもアメリカのAARP(全米退職者協会*)を真似てパソナ(総合人材派遣サービス企業)とNTTデータがこの問題に取組もうとしている。
 *本部をワシントンに置いた50歳以上の会員3,400〜3,600万人を有する世界最大級の非営利組織

1958年に設立され、高齢者に独自の医療保険を提供して急成長してきた。奉仕される側ではなく、奉仕する側にをモットーにする一方で、医薬品販売、旅行商品割り引きや法律相談、運転講習会などのサービスを提供し、事業収入は800億円規模に上るといわれている。

パソナ(社長はアメリカ在住時にAARPを知った)は昨年9月、50歳以上を対象とする会員に福利・厚生・雇用など生活支援サービスを行うNARPを東京電力など(他にもあるらしいが)の出費を得て設立。12月からそのナープクラブの会員を募集し始めた。入会金1万円、月会費500円。サービス内容は賑やかだ。 年金や保険などのコンサルティング、法律や税務に健康相談、人間ドックや介護施設の割り引き、国内外ツアーやホテル各種スクールの割り引き、コンサートやイベントの優先割り引き、美術館・テーマパークに飲食店2万店の割り引きの他にも人材紹介、社友会・OB会の事務局運営、なども行う、多彩なサービスメニューには目が廻る。5年後には20万人を目指している。

一方NTTデータも定年退職者向けのサービスを予定しているが、こちらはもっと名前がややこしい。何故かこちらはフランス語の「管理人」「案内係」プラス英語の「サービス」をたして『コンセルジュ・サービス』を予定し、「個人ブログ(日記風の簡易型ホームページ)」と「よろず相談」の世話をする。会費はできれば無料にしたい考えのようだ。
「会社という居場所がなくなり、いきなり地域に放り出されてもそこにも居場所がない。そんな人たちがいわばサイバー同窓会のように、退職仲間らと気軽に話し合えるコミュニティーを提供したい」(同社広報係)

NTTデータの方はまだいい、「当面、会員は企業単位で・・」とは老後の生活をそれこそ企業単位で労り合うような趣味の集まりになる危険性を孕むだけだろう。しかし、アメリカのAARP発展の影には歴史の浅いアメリカでさえ200年を越す歩みの末に掴んだ民主主義を基盤にして成り立っている。所謂、自由と責任、自己責任を色濃く身につけている。日本の場合、高々50年のそれも戦争に負けた結果お恵みのようにして与えられた民主主義だ。自由の概念さえ掴み切っていない。まして自己責任の取り方さえ覚束ない日本でこのアメリカ型を真似ただけのサービスが成功するのだろうか。

個人的には他に退職の受け止め方がある。生まれたからには死に向って進んでいることは誰にも解っているはずだ。一年経過すれば一歳年を重ねる。60年生きれば60歳だ。現在日本は世界一の長寿国だが、長寿とは死なないことじゃない。必ず死ぬ、例外はない。どう死ぬかを考えれば退職するまでにやることは計画済みでなければおかしい。私の場合50歳になったころ丁度パソコンが世に出た頃だった。ゲームから発達したパソコンは職場でいじるのは気が引けたが、働きを知るためにはそのゲームをしなければならなかった。当時は55歳定年の企業が多くあった。パソコンを知っておきたかった。「仕事中にパソコンで遊んでいる」と陰口が聞こえたが無視した。当初のMS-DOSを学んだ、簡単なプログラムにも挑戦した。

その前には敗戦後学んだ世界史で、古代ギリシャを知り、パルテノン神殿の写真に魅せられた気持ちをずっと持ち続けていた。日本の古代史と比較した。少年の心に激しいカルチャーショックを巻き起こさせた。死ぬまでにきっと一度はこの地の上に足を置きたい。はっきりとした目標ができた。即座にギリシャ語を学ぶべくカルチャーセンターに何年も、退職してからも通った。学業を通して学んだ英語は敵国語として最初から拒否反応があった。全く身につかなかった。しかし、自ら選んだ目標には楽しさが加わった。

ギリシャの旅の恥はチャレンジした言葉でさんざんかいて来た。日本人の得意な旅の恥はかき捨てを芯から嫌う私には言葉で試してみた。ブログに載せた国々の10日〜15日の訪問でもその国の言葉を少しでも学んでから出かけた。ゴルフなんかして遊んでいる暇はない。考えれば企業勤めをしていた頃よりも数段忙しい、楽しい。退職後をどう過ごそうか、は退職真際になって考えるものではない。何ごとも事前の準備が必要だ、今年、来年をその時に迎える人には遅いかも知れないが、5年10年先に定年を迎える人には今からその時は必ず来ることを考えた人生設計を立てて置くことを薦める。趣味がないから、は思慮がないから、ということ。


| | コメント (0) | トラックバック (2)

2006年1月23日 (月)

「出産無料化」

少子化対策として猪口邦子・少子化担当相が出産費用全額を国が負担する「出産無料化」制度導入を考えていると、発言した。今まで置かれなかった担当職を任されて、「少子化対策は世直し運動です」と意気込むのはいいが、本当に出産費用を只にしたら“ああ、有り難い、有り難い”と女性の出産率が上がると思し召していらっしゃるのだろうか。

話は飛ぶが矢祭町(福島県東白川郡矢祭町)は大流行りの町村合併にはっきりと拒否を決議し、「市町村合併をしない矢祭町宣言」をした。国の目的を、小規模自治体をなくし、交付金や補助金を削減し、国の財政再建に役立てようとする意図を見たからだ。矢祭町は自らの進路の決定は自己責任のもと意志決定する能力を十分に持っているからだとしている。従って地方自治の本旨を踏まえ町議会は国が押し付ける市町村合併には賛意できず、いかなる市町村とも合併しないことを宣言する、とした。

具体的な理由を6項目上げている
 ① 矢祭町は合併を前提とした町づくりはしてきていない
 ② 規模の拡大は望まず、大領土主義は町民の幸福にはつながらない
 ③ 地理的に辺境にある矢祭町は、合併により地域間格差のマイナスをもろに受け、更に過疎化が進む
 ④ 40年前の「昭和の大合併」時、血の雨が降る諍いがあった傷は今も癒えていない
 ⑤ 町独自の歴史・文化・伝統を守る
この後の6項目目に注目したいが、
 ⑥ 矢祭町は、常に爪に火をともす思いで行財政の効率化に努力してきたが、更に自主財源確保は勿論のこと、地方交付税についても、憲法で保障された地方自治の発展のための財政保障制度であり、その堅持に努める。以上宣言する。これは平成13年10月31日のことだ。

矢祭町の根本良一町長は使い切れない金は貰っても不要、と自らの給料は大幅に減らすと同時に、町の財源を見直し全面的な節約に取組んだ。清掃業者を止め自分達職員で建物からトイレまで掃き清め、住民の便利性を考えて日曜祭日から正月を含む年間無休の町役場にした。それでも足りないところは職員の出勤時、退社時に家庭巡回でフォローする。郵便業務まで代行する。この町も少子化に取組み、2005年4月1日より施行の条例で祝金・健全育成奨励金として3子誕生には100万円、4子には150万円、5子には200万円が家庭に贈られる。20年を勤め上げた町長が引退を発表するや、町長室は住民に占拠され、辞めないで欲しいと涙を流しての訴えで、町長の出る道も開けない。町長が留任を決意するまで役場は住民に占拠された状態であった。

覚えている人もあるだろう、2002年の住基ネット(住民基本台帳ネットワーク・システム)で日本中が揺れた時、全国に魁けて不参加を表明した町だ。住基ネットの実施は個人情報保護法案とセットで実施するもので、法案成立の見込みがない中では住民の個人情報が守れないとしての不参加だった。町長の確固とした信念は多くの住民に慕われ、町民の一人一人の胸に刻み込まれている。

国も出産無料化だけで少子化に歯止めが懸かるなどとは思ってもいないだろうが、世直し運動にまで高めたいのなら、他人に預ける保育所や育児施設ではなく、母親が身近で乳飲み子が育てられる環境づくりを検討するべきだろう。ベビー用品メーカーのコンビが昨年8月(1〜14日)に妊婦が会員になっているインターネットサイトで行ったアンケート(853人)によると、妻の出産後に男性が育児休暇を取る予定なのはわずかに3%、取るつもりがないと答えたのが44%、取った前例がないと答えたのが17%。逆に妊娠中の女性がいる会社でも過去に休暇を取った人がいる、が40%に過ぎず、取った前例がないは19%にのぼっている。このように現実には企業は未だに男社会、3%が2年や3年で10%20%と上昇することなど考えられない。掛け声に終わらないためにも少子化を止める必要があるのなら(私には所謂日本の適性人口が解らない)もっと可能性のある施策を考える必要があるだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年1月22日 (日)

“いただきます”

FM波でクラシックを聴く以外、ラジオの放送を聞かなくなって久しいが、昨年の秋の関東一円(一都6県)に流された「永六輔その世界」で紹介された「いただきます」を巡って話題が沸騰したことがあったらしい。

事の発端は「給食費を払っているから、子どもにいただきますと言わせないで、と学校に申し入れた母親がいた」という東京都内に住む男性から寄せられた手紙である。永六輔が冒頭「びっくりする手紙です」と手紙の内容を紹介した。「給食の時間に、うちの子には『いただきます』と言わせないでほしい。給食費をちゃんと払っているんだから、云わなくていいではないか」と。

番組には数十通反響があり、多くは申し入れに否定的だったが、支持する手紙も数通あった。どちらの意見も家庭内のマナーとしてではなく、外食時の例を出して説明を加えている。曰く、レストランで料理が運ばれてきて『いただきます』店を出る時『ごちそうさま』。一方支持派は「食堂で『いただきます』『ごちそうさま』を云ったら隣のおばさんに『何で』と云われ『作っている人に感謝している』と答えたら『お金を払っているのだから、店がお客に感謝すべきだ』と云われた」と。

永六輔自身はこのお金を払っているから、という理由については「学校給食で『いただきます』を云うことへの抵抗は、以前からあった。それは、両手を合わせる姿が特定の宗教行為、つまり仏教に結びつかないか、という懸念だ。宗教的なことを押し付けるのは良くない。でも、『いただきます』という言葉は、宗教に関係していない。自然の世界と人間のおつき合いの問題だ。“お金を払っているから、いただきますと言わせないで”というのは最近のことで、命じゃなくお金に手を合わせてぃるのだ。手紙の母親は物事を売る、買うの観点で決めているのだろう。ただ、このような母親がいることも認めないといけない、と思う」
 続けて永六輔自身の云う『いただきます』は、「あなたの命をわたしの命にさせていただきます」だと云う。でも普段は家では云うこともあり、云わないこともある。ましてや他人に強制はしない。絶対に云わなきゃいけないとも思わない。それは、きちんと残さないで食べれば、『いただきます』を云っても食べ残す人よりは、いいと思うから。
 最後に、『いただきます』は普通の会話、こんにちは、さようなら、ありがとうございます、すみません、ごめんなさい、会話の中の一つと考えられるので、特別に「みんなで云おう」というのはおかしい気がする。

因に永六輔、彼は1933(昭和8)年の一桁生まれ。わたしよりは二歳(お脳の軽い連中が、年齢を1コ、2コと固体の数え方で表わすが、いい加減に目覚めて欲しい)若い。ご両親は明治の生まれになるだろう。明治の人間は特に礼節を重んじ、子どもの躾は厳しくなる。アメリカから民主主義を与えられるまでは、食事の前には必ず手を合わせて『いただきます』を云い、食事中はお喋りは禁じられ、ただ黙々と口に入れた食物を嚼むのが平均的な日本の家庭の食事風景だった。この時の手を合わせる行為には宗教色はない。わたしの経験から云えば、それは「お百姓さんへの感謝」で前にも書いた教訓である。「お米という字はな、八十八と書く、お百姓さんが何度も何度も手を入れ、育てたお米だ、残すことはならん、よく味わって一粒も残すな」という意味の『いただきます』だった。育ち盛りの少年期、戦中戦後の食糧難時代に、大家族の我が家では‘残せ’と云われても残す米粒などある訳はない。涙がでるような実話だが、猫も犬も近寄らないほど最後には皿まで舐めて母親を嘆かせたほどの飢餓状態に近かった。冬は座ぶとんは父親だけ、子供は男女関係なく冷たい板の間に正座させられ、それでも『いただきます』『ごちそうさま』は厳しく躾けられた。どこへ行っても恥ずかしくない作法は食事に拘わらず、言葉づかい、長老への尊敬のこころ、集団の中の生き方、特に今に生きているのが長いものに巻かれるな、自分の信念通せ、だった。この生き方は企業の中で出世とは縁がないが、人としては恥ずかしくない生き方をして人生を終えようとしている。

永六輔も云っているが、金銭で『いただきます』を売り買いしている解釈では単なる商売になり、そこには「ありがとう」も『いただきます』も入っては来ない。手紙の母親や、食堂でいらぬ世話を焼くおんならが、そのそれぞれの親から人への感謝の気持ちを教えられず、何も躾けられていなことを世間に曝しただけだろう。私の知っている限りではレストランや食堂こそお客さまには「ありがとうございました」の言葉を口にしている。いらぬ世話を焼くおばさんから云われなくても食事を提供する側では自然に口にしていると思えるが・・・。食べ物への感謝、それが躾けられていれば駆け引きではなく『いただきます』は極々自然に出る言葉だ。

現在のように両親と家族が食卓を囲んで一緒に食事をすることも少なくなり、コンビニ弁当や、インスタント食品、店屋物で育てられる子どもたちには箸の持ち方さえ教える人もいなくなって、ますます人の気持ちを銭金で測るような人間が育つことだろう。わたしのように独断と偏見に塗(まみ)れていない永六輔はいう、云っても云わなくても、大声でも小声でも、呟くだけでも思うだけでも、いいことにしましょう、と。

毎日新聞は1月21日の新聞でこれを記事にし、「私の場合」とした読者の意見を呼び掛けている。

| | コメント (3) | トラックバック (1)

2006年1月21日 (土)

小澤征爾

ウィーン国立歌劇場の音楽監督、小澤征爾(70歳)が17日に日本に戻り、東京都内の病院に入院している。1週間程度だという。気管支炎や帯状疱診などの治療で、復帰するまでには4,5週間の療養が必要という。

昭和10年生まれの彼もすでに70歳、始めて彼の演奏に接したのは今から40年前の暮、1965年12月25日の日本武道館でのベートーヴェンの第九交響曲の演奏であった。

seiji 
30歳の小澤  

ozawa 
当日のプログラムの表紙



桐朋学園を卒業したばかりの小澤が1959年のブザンソン国際指揮者コンクールで1位を獲得、ヘルベルト・v・カラヤンやシャルル・ミンシュから絶賛を浴び、61年にはニューヨーク・フィルハーモニーの副指揮者に就任。62年にNHKとの契約でベートーヴェンの第九を振るために帰国する。今でもその片鱗は残っているが、当時の彼の指揮ぶりは「ツイスト・ダンスでも踊るような」と例えられるほど若者らしく派手であり、傲岸でもあったようだ。彼の指揮態度に頑迷固陋のNHK交響楽団員との間でトラブルが起こったが、当時は管理下にあった楽団のもめ事を解決するべき立場のNHKにその解決能力がなく、業を煮やした楽団員がボイコットを発表してしまった。小澤は契約上指揮することを迫ったが、NHKは逆切れして公演の中止を発表した。所謂NHKによる『小澤の“第九”ボイコット事件』と呼ばれるものである。

小澤のその後の活躍は世界的にも認められる評価を受け、1965年の帰国時には先に挙げたニューヨーク・フィルハーモニーの副指揮者、シカゴ交響楽団音楽監督、カナダのトロントシンフォニー常任指揮者(1962年、NHKとのトラブル後この楽団の招きで日本から出て行った)、更に帰国の前にはロンドン・シンフォニーの向こう3年間の客演指揮者の契約を終えたばかりであった。輝かしい地位を築いて凱旋した小澤を迎えたのは日本フィルハーモニー交響楽団であった。プログラムはすべてベートーヴェンの第九で12月22,23,24日を東京文化会館大ホールで、25日を武道館に迎えての公演だった。

わたしは山陰の町から出てきてまだ5年が経過したばかりであった。その町で時々持たれるレコード観賞会(78回転のSP)でほぼ5,6分おきに裏表を返し、終われば二枚目を同様にして(鉄針も1枚ごとに取り替えて)30分、40分の曲を聞いたことがある程度だった。LPはまだ一般的な媒体とはなっていなかった。1時間に亙る第九をきける機会を失う訳にはいかなかった。1階席800円のチケットを握りしめ会場に入った。

静寂の中にオーケストラの音が響き始めた。音の洪水に浸っている時、突然驚くような声が耳に入ってきた。“んー、んー、んー”小澤が発するハミングの声だ。指揮棒を振りながら恐らく胸にでも仕込んであったのか鼻声を拾い始めていた。興に乗る小澤の鼻声は大きくなり小さくなり、それが聞こえ出すと耳に入ってベートーヴェンが何処かへ消えて行った。第4楽章の合唱では小澤も一緒になって謳った。もうベートーベンを聴くことができない感情のうちに1時間は過ぎ去っていた。

NHKが問題にした傲岸さは見えなかったが、違った意味でわたしの指揮者に対する評価は最近まで最低のレベルで捉えていた。その後彼の桐朋学園時代の恩師斉藤秀雄氏が亡くなり、1984年9月、世界の音楽界に活躍するソリストやオーケストラ・メンバーが日本で集まり、『斉藤秀雄先生を偲ぶコンサート』で演奏するバッハの曲の練習風景をテレビが放送した。武道館から19年が経過していた。偲ぶコンサートとは追悼コンサートだ。リハーサル時間が経過するに従って目頭が熱くなってきた。1965年の武道館以来二度と聴く気にならなかった小澤に引き込まれていた。今井信子がいた内田光子がいた。世界の超1流が揃っていた。現在『サイトウ記念オーケストラ』として世界で活躍する楽団の母体になったメンバーだ。

小澤とNHKの確執は深く、1990年代になるまで小澤はNHK交響楽団を指揮しなかったが、今では和解もされて合同公演さえ行う緊密ぶりで結ばれている。日本だけではなく世界が彼の紡ぐ音、音楽を待っている。元気に戻って来ることを祈念する。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

流行(ことば)

幸いにも現在若い部下を育てる責務からは遠退いている。何が幸いかといえば一日に何十回となく聞かされる可笑しな言葉を耳にしないで済むことと、その誤りを正すために時間を割くことをしないで済むからだ。すでに何度もブログには書いてきた。殆どの若者が‘たちつてと’がはっきり発音できないこと、ひと言、ひと言の語尾を長く引き延ばして跳ね上げる喋り方など、である。今の私には人の会話はテレビを通してになることが多いが、聞いていて何とかならないのかと首筋が痒くなる。

勿論今まで使われてきた日本語の言語表現が最終到達され完成されたものとは言い切れない。これからも変化していくかも知れない。民俗学者の柳田国男が唱えた方言周圏論は方言の分布を調べたものだが、文化的中心地(京都)を中心に同心円状に順次変化し、方言は広がり伝わっていく間に京には新しい言葉が生まれ、それがまた広がって行く。従って古い形の言葉ほど遠隔地に残存すると考えた。飛躍し過ぎになるが、現在の東北地方の言語が本来の都言葉、日本語であったかも知れない、と考えた人もいた。そう考えると現在乱れていると云われている言葉は日本語が変化を始めたと考えられなくもないが。

最も世間に広く使われている言葉は“られる”(助動詞で活用は下一段)を“れる”(助詞で活用は下一段)で表す使い方であろう。典型的な使われ方が“食べれる”である。長寿番組に入ったが、TBSの『はなまるマーケット』がスタートした早々、“食べれる”を頻発した。即座にクレームをつけた。間もなく“食べられる”となり、今に続いて全員正しく“られる”で続いている。(しかし、ゲストで来る人間にはプロデューサーも云い難いのか“れる”が目立つ)この番組以外は同局、他局とも肝心の料理番組でも“食べれる”となっていて耳にする限り10人のうち“食べられる”と言える人間は1人いれば良い方だ。同じように頻繁に使用される“見られる”が“見れる”に、“出られる”が“出れる”に、“来られる”が“来れる”のように使われても誰も不思議に思わない。

二流芸能人が続々と連なったハワイ帰りのインタビュー。“どちらへ?”『アメリカの方へ』“どちらへ?”『ハワイの方へ』“どちらへ?”『ハワイの方へ』こいつ等一体何処へ行ってきたのか。アメリカやハワイの方へ行くのなら日本国内を出ないでも行ける。日本からなら何処に住んでいようと東へ動けばアメリカの方だし、ハワイの方だ。大阪から東京だってアメリカやハワイの方だ。或いは正反対に西に行っても地球を廻ってアメリカの方だハワイの方だ。これもテレビに写ったサラリーマンの新橋駅前で携帯電話による会話。“あのさー、俺さー、今新橋の方に来てるんだけどさー”新橋駅前で「方」はないだろう。
 『方』というのは向って行く方角や、向きをいうのであって
ハワイやアメリカに行ったのならせめて“ハワイまで”或いは“アメリカまで”くらいの言葉を使って欲しい。また新橋にいた若もの、新橋にいて“方”は使う言葉じゃないよ。

ブログでも既に触れた“など”に近い“とか”がある。特に数多く目立つ使い方がされていて、複数を表現するのでもないのに“とか、とかぁー”がつく。恐らく一番多く使われているだろう。アナウンサーであれ、キャスターであれ、数えればきりがない。“AとかB”“あれとかこれ”ではない、“Aとか”“あれとか”である。

“じゃないですか”は“じゃないですか?”だ。この言葉は流行語大賞にもなったらしいが、毎朝凡そ二時間に亙って乱発するキャスター(小倉)がいる。ないですか?って君に訪ねられても知らないよ。訪ねておいて返事も聞かずに次を続ける、とにかく言葉に関して余りにも無知だ。流行語ではないがやはり無知から来る言葉をレポートするアナウンサーがいる。屋上に上がって景色をレポートするのに“ここから景色が見ることができます”だって、景色“を”見ることができるんだろ?御丁寧に何度も繰り返す、間違いに気がつかない。“見れます”と云わないだけまだ許せるが。

“的”もやたらに使われている。中でも“わたし的には”が代表だろう。
“的”は名詞に添えてその性質を帯び、その状態をなす意味を表す語で、“私的”“一般的”など、と使うが、私的は“してき”と読む。恐らく読みも意味も知らないバカがわたし的と読んだのが始まりだろうと思われる。

携帯電話が使われ出して一層歯止めのきかない無秩序な表現が今時の常識と云われている。幼稚な記号を使っての絵文字、マスコミが面白可笑しく取り上げて益々下らない流行が加速して広がる。

人間長く続けていると腹の立つことが多くなる。見なくても良いものが見え、聞かなくて良いものが耳に入る。これを保守と云うのだろうか。自分ではいつまでも革新のつもりなのに。ゴヤのデッサンに白髪に長い杖を手に歩む老人を描いたものがある。傍らに書き込まれた文字には『俺は学ぶぞ』とある。比較して見る限りわたしの方が若年だろう、わたしも同じように呟く『まだまだ学ぶぞ』
   

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年1月18日 (水)

流行(整形・形成)

その昔、“身体髪膚これを父母に受く 敢えて損ない破らざるは 孝の初めなり”は文字どおり親孝行の始まりといって、子は怪我をしたり、我が身に傷をつけないように心掛けた。心掛けても怪我をする時はする。小学校に入ると先ず、教師は幼い子どもの心に親への感謝の気持ちを教え、言いつけを守り、悪さをしないように教えた。1945年の敗戦は学校から歴史を追放し、併せて修身をも追放してしまった。神話を否定し、それまでの道徳を否定した。

天皇は天上の神から生きた人間世界に降りて来た。日本人は価値基準を見失ってアメリカから民主主義なる便利な生き方を与えられ、「自由」は「責任」を置き忘れて我が侭が横行する世の中になって行った。ストライキが復活して労働者は勢いづき、人間性、人間性を無視するな、と発展性のない錦の御旗を振りかざし、切り札として大いに利用した。結果は歴史が証明するように国鉄は瓦解し、世界史的には共産社会は滅んで行った。

話を引き戻そう。恐らく今の世“親孝行”は死語になっているだろう。ここ何十年この言葉を耳にしたことがない。何度か書いて来たが、明治に書かれた教育勅語の中に「親ニ孝ニ兄弟ニ友ニ・・・」は敗戦を切っ掛けにひと絡げにして価値を失い、軍国主義の代表悪として教育の場から抹殺されて行った。“一旦緩急あれば”命を捨てることの大前提が心理を逆撫でするからだ。しかし、教育勅語を離れて考えれば親孝行は人として当然の義務であるはずだった。

一度外された親孝行の箍(たが)は戻しようもなく、止めどなく崩れて行った。我が身を傷つけ、損ない、親からもらった体を以前に似ても似つかない容貌に替える作業が流行っている。本来ははっきりとした違いがある
 整形 -- 主に骨や筋肉を取り扱う
 形成 -- 火傷や骨折などによる体の表面の傷害や奇形・変型を修復・治療する外科
に区別されているが、従来使われていた美容整形といった言葉が紛らわしく、現在は統一した正式名称
 美容外科(若しくは美容形成外科)と呼ばれるように法制化されている。

美容外科は外見的に正常な人間が、さらに美しくなりたい、或いは若く見られたいなどの要望に応える治療であるため健康保険は適応されない。ということは全ての治療は自己負担になることだ。例えばある医院の例だが、
 二重まぶた 40万円
 脂肪吸引  65万円
 皺取り   140万円 の負担が生じる。

テレビ局に集まった数人の女性に自分がどれほど惨めな女性かを競わせ、野次馬の女性たちに選ばせて籤を引き当て、番組仲介で変身の手伝いをする。選ばれる女性の涙々の熱演は恥も外聞もない。そこまで己が捨てられるなら何も治療することなどない、と思うのだが。未婚の女性のこれも又己の自己満足だが、この先結婚を考えているのなら顔面はいじらない方が良いと思う。何故ならあなたが産む子はあなたが変身する前の姿形になるのが当たり前だし、あなた以上に鼻の低い子かも知れないから。

いまほど性モラルが乱れていなかった敗戦後の時代、散々遊んだことのある女性でも男をたぶらかす救いの治療があった。男の頭にはまだ処女崇拝が巣食っていた。そこに処女膜再生手術だ、初めてを装えばよかった。できちゃった婚で晴れ晴れと結ばれる今の世とは隔世の感がするが本当の話だ。《現在でも実施されているようだ。スポーツ選手の激しい動きでなくした人、大事な男性との初めての時のため》

更には50年、60年生きて来た人が今さらの皺を延ばして若返ってどうする。皺は年輪だ、それだけ人間を生きて来た証だ。白髪と同じ若い者が敬うべき年輪だ。長老の敬をなくした今の若者には通じないかも知れないが、皺の一本一本が苦労を重ねた証なんだ。私は嘗て髪を染めたこともないし、染めようと思ったこともない。やっと人生を重ねて来た証の白髪をどうして染める必要がある。まして毛唐かぶれの赤毛になんぞ。女性にも見事な白髪の上品な(というより気品を感じる)お年寄りを見かけることがある。生きて来た人生に自信があるのだろう、と思う。

見た目が○○パーセントなる本が売れているようだが、自然が一番いい、あるがままに生きるのがよい。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年1月14日 (土)

旬が消える

目に青葉 山ほととぎす 初鰹
春も五月ごろになると出回るのが初鰹、と相場もきまり、女房を質に入れても食べたい、と川柳にも詠まれたりしたが、最近ではそれもそろそろ危うくなって来た。最近の養殖技術は不可能とみられていたものまで成功させるところまで来ている。

魚に限らず野菜や食品など昔は考えられない食品が冬期のデパートに、スーパーに、コンビニに並んでいる。代表的なものに苺があり、アイスクリームがある。今ではクリスマスケーキには赤い色をした苺がクリームが隠れるほどに飾り立てられ、昭和一桁には到底信じられない思いだ。苺といえば少年時代、待ち遠しい初夏の贅沢な食べ物であった。当時は静岡の‘石垣いちご’が全国版だった。当然一年に6月の季節にだけ食べられる美味しい果物の代表格だった。現在はハウス栽培で作られ、一年中を通してお目にかからないシーズンがないほど巷に溢れる。

また、野菜はハウス栽培が多くなり、最近ではビルの地下で稲が穂をだし実が稔り、季節に拘わらない栽培が可能になったニュースが流れた。夏の代表野菜の胡瓜に茄子、果物ではメロン、瓜、トマトなどなど、どれも昔は出回るときは夏の到来を告げる食品であった。化学の進歩は無限の可能性を追求し、食文化を豊かにしてきたかのように見える。

しかし、改良に改良を重ねた結果、何が起こっているだろうか。食品が持つ本来の香りを失って行ったのだ。トマトで云えば夏のむせ返るような太陽の下で育ったものは独特の香りを放ち、食欲をそそってくれた。海に近かったため泳ぎに行く途中の畑から、一つ、次の日にも一つと、失敬した悪がきの頃の思いでもある。今、食品売り場に並んだトマトには何の香りもない。肉は厚くなり、形だけは良く揃っているが山と積まれたトマトでも側を通り過ぎても漂う臭いがない。懐かしい臭いを求めても捜し出せない。鼻の先に当てても臭ってくれない。胡瓜もそうだ、形は真直ぐに揃い、整然と並べられているが、のっぺりとして手のひらを痛いほど刺したトゲトゲが消えた。農家によってはそのような昔風の胡瓜を捨てないで作り続けている人もいて時々店頭に出て来るが、値段は倍ほどもして食べたい・・・、だけど、と二の足を踏ませる。

葉っぱものにも言えることだが、ポパイで有名な(時代錯誤?)ほうれん草、とても美味しいとは言えない。昔のほうれん草は根元が赤くて糖分をたっぷり含んだとても美味しいものだった。栽培し易く丈夫に改良されたと云われる品種は、見た目にも購買意欲を喪失させるようなただの雑草に近く、草を買うのに金を出すのが勿体無いような代物で糖分も薄く、美味しくない。保存技術が進み、夏の物が冬でも食べられるようになり、反対に冬の食べ物が夏でも口に入るようになった。

人参に至っては何だろう、ただの赤い大根だ。あの子どもの頃から好きだった臭いを全く失ってしまった。嫌いな子が多いから、と聞くが親に美味しく食べさせるだけの知恵がないからだ。『お客さまは神様です』と云った歌手がいたが、将にそのために美味しいものが不味いものに作り替えられた典型的なものだろう。

アイスキャンデー、麦わら帽子に首には手拭い(タオルじゃない)を巻いた小父さんが「えー、キャンデー、キャンデー、アイスキャンデー」と自転車を漕いで汗をかきかき木の箱に詰めたアイスキャンデーを売りに来てくれた。貧乏でも時には母にねだって小銭を手にし、何にも優る冷たい氷を頬張った。自転車の後ろに小さな「アイスキャンデー」と染め抜いた旗指物を挿した姿は一幅の絵であった。勿論アイスなど(‘など’に注意)夏以外には口に入るものではなかった。時代はアイスキャンデーに代わるアイスクリームとなって春夏秋冬いつでも食することの可能な嗜好品になった。

しかし、日本人の‘わび’も‘さび’も季節感から来る。いわゆる旬を大事にする民族であった筈だ。いまそのわびもさびもその感覚すらも遺物になって失くしようとしている。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年1月11日 (水)

流行 (爪)

流行と呼ぶよりも既に定着して当たり前のようになっているものに爪の手入れに関するものが幾つかある。マニキュア、ペディキュア、付け爪などだが、男から見て感じる第一の印象は不潔感だろう。
顔の手入れが一段落し、髪が一段落し、身につける衣服が取り敢えず一段落して次に来たのが爪。

我が家のテレビはケーブルで受信しているが、チャンネルは12の全てが写る。その中の2つのチャンネルがテレフォン・ショッピングに充てられていて、次から次へ健康器具、家具、洋服、寝具、衣服、化粧品、宝石などが紹介される。人気商品には売り手の話が続いている内に瞬く間に買い手がついてソールドアップがテロップで流れる。日本には不景気風など(この‘など’は否定的・反語的表現に続くんだよ)というものはないように思えるほどだ。

ところで流暢に喋る売り手の爪は先ず間違いなくマニキュアで手入れしてある。ベージュ、黒、珊瑚色などで華やかに塗られ、手入れと云うべきか爪の垢隠しというべきか解らないが、宝飾品のクローズ・アップを商品の裏側から指先で細かい部分を見せた時がある。驚くべし、爪の裏の汚いこと、食事時だったので危うく嘔吐したくなるような気分になったのだ。表から触れたり見せたりしていた時は鼠色系統の色合いだったのでそれほど目立たなかったが、マニキュアを施した爪には長短があり、不揃いになったままだった。左手の爪は比較的長く伸ばした状態でほぼ揃っていたが、右手の爪は折れたのか親指、人さし指、中指は短くて後は左手とほぼ同じに見えた。裏から見た汚さは言語を絶するもので、それを見た後表から確認すると、恐るべし、その黒ずんだ垢は透けて認められたのだった。マニキュアの色が無彩色系統の色合いだったがあまり濃い色合いではなかったからだ。

彼女の場合、自分の爪の化粧だったが、更に不潔感を伴うのは付け爪をした場合だ。その昔、父から聞いた「アイアン・クロス」というこわーい映画があったそうだ。タイトルどおりの『鉄の爪』だ。如何に化粧しようとその怖い思い出の残像が頭を過(よぎ)る。誰を引っ掻くための爪だろう?あれじゃ細かい、とまでいかない小さい物を掴むのも不便だろう。まして料理が出来ないのは無理もないし、無理にあの手で食品に触れられたら、と考えるだけでへどが出る。それに最近流行の汚らしい乱れ髪(この言葉を使うのは与謝野晶子に申し訳ないが)をしょっちゅう掻き揚げる。しきりに睫毛に懸かる髪を掻き分ける。埃を爪の中に集めているようなものだ。

化粧品売り場で妻の爪の手入れ用のブラシを探したことがある。真っ当な化粧品を売っているマニキュアのコーナーだった。驚いたことに置いてない。表だけは飾るための化粧品やパーツは置いても、手入れのパーツは置かないのか、後はご勝手にということか、と店員に文句を云ったことがある。若い頃下宿した家に娘さんがいた。爪にお金をかける習慣は全くない時代だが、潔癖性か毎朝洗面で血が出るのじゃないかと恐れる程指先にブラシを掛けていた。

一人の不潔な女性の爪を見て全部の女性がそうだとは言えないが、付け爪や手の込んだ絵を描いたり(専門に描いてくれる女性がいるようだが)模様をほどこしたりした爪で自己満足するのは勝手だが、表だけではなく、裏の汚れには表以上に気をつけて手入れを怠らないで欲しいものだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年1月10日 (火)

団塊世代の定年

敗戦後の混乱期、戦争で多くの若者が命を落とし、日本の人口は若い男の減少が目立っていた。国内には女老人だけになっていたが、その中へ外地から生きて帰って来た兵隊やその他男たちに待っていたのは国民の数を増やすことだった。その結果第一次ベビーブームが訪れてその頃生まれたのが所謂団塊の世代だ。その団塊と呼ばれる世代にも早々と60年の年月が通り過ぎ、来年07年は大量の定年による現業からの離職現象が起こる。

今話題になっているのはどこの企業にも多数の企業戦士として戦後の日本を支えてきた男たちが一斉に職場を去るために起こる企業の引き継ぎの問題だ。新聞でも取り上げて話題づくりをしているが、この世代が培って来た技能を社内でうまく伝承していけるか、という問題だ。 私に言わせれば何を今さらという感が強い。

企業の技術やノウハウは難しければ難しいほど前もっての引き継ぎが必要だ。心ある企業(造船業)は既に数年前から熟練工と呼ばれる人間の神様クラスの技術の伝承に取組んでいるところがある。パソコンがいくら発達しても最後の所で人間の“カン”の働きに頼る部分が残る場合がある。文字では伝えられない究極の技術だ。しかし、問題は伝承には技術だけではない面が数多くあることだ。人おのずから備わっている人格、品位は別としても、人間には様々に違いがある、あって当然の差だ。企業の中で最も困るのは実力のない上役についた部下たちだ。一つ上に出れば叩かれる、潰される。部下の育つことに戦々兢々の日を送る上司だ。いきおい教え教育することを躊躇う。自分よりも出世されると困るんだ。いろんな技術、ノウハウが伝わらない。

こうして仕事を抱え込み、残業することでどうやら職責を守っている。並のぺいぺいである内は良い、ドングリの背比べで済まされるが、少しでも上に立つようになると様子が一変する。“後から来るもの突き落とせ”は私が幼稚園で学んだ戦時下の教育だった。男には弱さが不必要であった。上は下を従えさせれば良かった。数人のエリートだけが多数をコントロールし、成果を挙げればよかった。企業の仕組みはがらりと変わった。

ノウハウを伝え、技術を教えて部下を育てることのできない人間は現在の企業では用のない人間だ。私は現役時代多少無理と思える仕事でも分類して部下に下ろしていた。自分の体が楽になるからだ。例えそれを委ねた部下に落ち度があり、失敗してもその責任を取るのは当然私だ。上のものの給料が少しは多いのはそう云った部下の失敗に頭を下げて謝るための給料の上乗せ分だ。酒を飲ませるためのものではない。厳しい仕事を与え、チャレンジする精神を持たせなければ企業は停滞する。そうして上のものは時間に余裕を持って部下の教育、統率ができるようになるのだ。

団塊世代の退職は目前に迫っている。今さら慌ててもどうにもならない、事前に来ることの解っている節目なんだ、準備しておくのが当然の解り切ったこと、慌ててもどうにもならないだろう。
団塊世代の男たち、長い間ご苦労さん、後は貧富に拘わらず、これだけは誰にも公平に与えられる時間を有効に生かして余生を生きて欲しい。日本の戦後はあなたたちの力の結集で基礎作りされたようなものだから。田舎に戻るもよし(集団就職で都会に出て来た多くの男たちだ)、海外に移住するもよし。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年1月 9日 (月)

コンビニ子育て

毎日新聞(1/5)から
1月4日、コンビニのローソンが働く女性のために託児所を併設した24時間営業の「子育てコンビニ」を今春にも都内に開業することを明らかにした。企業内託児所は認可外保育施設にあたるため、規模に応じ保育士か看護師を配置し「できれば託児所は無料にしたい考えである」としている。

思い返せば歌手のアグネス・チャンが前年の結婚で生まれた乳飲み子を連れて翌1988年2月9日に『なるほど!ザ・ワールド』に初出勤したことに端を発した「アグネス論争」と呼ばれ、問題提起に終わった騒動があった。

アグネスの子連れのテレビ出演に大御所の淡谷のり子が口を入れた。3月20日「芸能人は夢を売る仕事、子連れでは所帯じみてよろしくない」と。続いてサンデー毎日4・28号で中野翠がアグネスを批判、次いで週刊朝日が6・17号でアグネスのリサイタルに対する揶揄記事を掲載。翌週の6・24に慌てて訂正記事を。ここに7月9日、三文文士の林真里子が口を挟んだ。9月11、中央公論でアグネスが反論した。翌年2月19日、参議院でアグネスが女性の育児についての意見を開陳。4・10林真里子が再び文春に書いた「いい加減にしてよアグネス」と、ただヒステリックにアグネス嫌いを語っただけ。5月に入って16日、上野千鶴子(現東大大学院教授)が朝日新聞にアグネス擁護の論陣を張った。続いて5・19日、竹内好美が朝日ジャーナルに「会社に託児所」を要求しない働く女性の論理で両派を批判した。この一連の論争は流行語になり、「アグネス」流行語大賞大衆賞をもらっている。

私は何度にも亙って現在の託児所の不要論を述べて来た。これ以上母親の温もりを知らない子を増やすべきではない、と。ただの手荷物一次預かりになって親が働くために子どもが犠牲になっている現状では、親子の断絶を招く温床になるだけだと。乳飲み子は母のスキンシップで育てるのが絶対に必要だ。哺乳壜でしか乳が与えられない父親ではどう頑張っても乳房の代わりは勤まらない。父親の育児休暇など何の役にもたたない。まして他人に預ける育て方では母親の代わりも父親の代わりもできない。乳飲み子は母の乳房で育てるのが一番だ。そのためには痩せることに血眼にならず、しっかりと母乳の出る体を作るべきだ。世の中もサプリメントだ、あれもこれもだ、と金稼ぎだけを考えないで、骨と皮だけになって町を歩く女性じゃない健康的な女性を“美しい”と評価してほしい。

竹内好美が15年も前に女性がアグネス論争に口を挟まなかったことの理由に「会社に託児所が併設されれば育児は女性だけのものになり、男の協力が得られない」ということと推理した。論争はそこまでで何時の間にか沈静化した。すでに女性の職場進出は目覚ましく、女性の働き易い職場作りは国の方針ともなって大きく動いていた。女性の要求には男たちがついていけないほどの勢いで各方面が整備されて行った。携帯電話のない時代、残された子供達は家に閉じ込められ、鍵を掛けた部屋で両親の帰りを待つことになったが、幼い子どもの失火や事故が相次いで益々働く女性のために施策が整備されるようになった。

一方フリーセックスの国のような男女間のモラルは結婚前の妊娠が当たり前のことになり、簡単に離婚し、結婚に結びつかないままに母子家庭を増やし、子どもを置いてでも働かなければ生活できない環境を作り出した。今回のローソンの託児所は店内で働く母親のための施設でいわゆるアグネスが先に実行した乳飲み子の間は母親のスキンシップが必要とした考えが前提にある。国情に違いはあるが、アメリカ辺りでは3歳になっても乳房を離れない子には飲ませると聞いた。天才にも真似のできない母親だけの特権だ。

父親が育児休暇を取るのは子どもが乳房を離れてからでいい。動物の子から人間の子になる成長期だ。しっかりと愛情を注ぎ、協力すればいい。ローソンの新浪剛史社長は「女性が社会で働ける環境づくりが必要。長い目で見れば、そういう企業が社会に受け入れられていく」と話している。大賛成だ、これを切っ掛けに企業内の託児所併設の推進が始まれば快哉を叫ぶ。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2006年1月 8日 (日)

首相のこころ

日本国の首相の年頭の挨拶で発した言葉、「外国政府が心の問題に介入して、外交問題にしようとする姿勢は理解できない」と嘯(うそぶ)いた靖国参拝問題がもとで叉も近隣国の批判を浴びている。拝殿の奥まで進まず一般人と同じ位置でポケットから小銭を放り込んでみたところで、護衛を引き連れた日本国の首相であることは国内外の誰もが周知するところだ。そして彼の心が不戦の誓いであろうがそれは彼の勝手な思いだ。靖国神社には、極東国際軍事裁判でA級戦犯の判決を受け、夫を息子を恋人を、そして父ら国民を、死に追い立てた東条英機を始め14人の戦犯が合祀されている事実があるのだ。

かれらA級戦犯は1948年12月23日に絞首刑にされた。翌日の新聞紙上一面に大きく写真入りの7名が並んで記事になった時、日本国民自身総じて快哉を叫びたくなるほどの溜飲を下げたのが事実なのだ。1941年開戦した直後、四ヶ月も過ぎない時期には早くもアメリカ空軍による日本本土爆撃を受けるような戦争を仕掛けた張本人たちなのだ。その罪を天皇の名に隠れて如何に糊塗しようとも四年を経ずして国土を焦土と化した罪は絞首刑となっても償いきれるものではないのだ。そのような戦犯たちが合祀されている靖国には日本国の首相としては公私に拘わらず絶対に行ってはならないのだ。

歴史を学べば小児にでも理解可能な原理原則が見えるはずだ。「きけわだつみの声」を読んで感激した小泉はそこに書かれた男たちちの遺書の、それこそ『こころ』を読むことも出来ない浅薄な読解力しか持ち合わせない程度の能力の人間なのだ。そこに書かれた男たちの「生きたい」こころも見抜けない明き盲としか言い様がない。男たちにそのような遺書を書かせた戦犯たちと、死ぬことを強要され、覚悟して死んだ兵士たちが一緒に祀られることを望むことなどあり得ない。

戯れ歌に“お殿さまでも家来でも 風呂に入る時ゃ皆同じ 裃脱いで刀を捨てて ・・・”の結果は対等の生まれたままの丸裸である。現在では時折々都合良く利用されるだけの仏教だが、死ねば等しく成仏し仏になると教えた。悟りを開いた偉い人には言えることだが並の人間には理解できないまま、死んだ人の悪口を云わないのが日本人だった。どんな罪でも口を閉じた。これは違う、わたしは日本人だが賛成できない。未来永劫悪いものは悪いとして追求しなければ改善もなければ発展もない。東條たち戦犯は弁護のしようもなく悪いのだから。靖国神社には天皇を後ろ楯に、弱者に“死ね、死にに行け”と大号令を下し、多くの無辜の人を殺されると解る戦場に駆り立てた最高責任の立場にあった戦犯が合祀されているのだ。このことを理解できないのか、理解したくないのか小泉は、ますます無能な人間に見えて来る。

彼は間もなく首相の位置から遠退く、小泉の轍を踏むような人間には次期総裁にはなって欲しくない。かといって別に国費を投じて国立墓地を作る必要もない。作ったとしても戦犯と解る悪人を参りに行く人間は絶えていないだろう。何処かで次の合祀の辻褄を合わせようとすれば、又、そこで新たな火種を作るだけだ。遠く明治の昔、二〇三高地の戦で多くの部下を死に至らしめた乃木大将が、明治天皇の崩御を聞いて殉死したのは多大な戦死者を出した責任を取ってのことだ。乃木の場合も天皇の赤子(せきし:国民を天皇の子であるという思想)を殺したという解釈で、兵士たち或いは親たちへの責任を取ったものではないが、東條たち昭和の軍人は天皇の名を借りても“虎の威を借る狐”でしかなかった。兵士たちへは死ぬことを強要しておきながら自らは、乃木のように腹をかっ捌く勇気もなく(例外はある)、誰でも確実に命が絶てるピストルで死に損なう恥まで曝した。自説の繰り返しになるがこれら戦犯たちの祭祀はそれぞれの遺族に任せ、靖国神社からは草々に出てもらえば何の不都合も起こらない。

東南アジアを始めとする近隣諸国との話し合いもそれから始めることが可能になって来る。この問題は早期に解決しなければいつまでも日本国の外交上の癌であり続けるだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年1月 7日 (土)

国家公務員の分限

政府は5日、問題がある国家公務員を処分する根拠となっている「分限制度」について、運用指針を作成する方針を固めた、という。見出しによると「上司への暴言も」、として現在の国家公務員法が形骸化している実態を懸念した対応であるらしい。

国家公務員には特別職(内閣総理大臣を筆頭に、国務大臣、人事官及び検査官などや、日本ユネスコ国内委員会の委員、裁判官やその他の裁判所職員、国会議員とその秘書、防衛庁職員など)と一般職(一般府省に勤務する現業・非現業の職員、特定独立行政法人の職員など、特別職以外の全ての国家公務員をほうがんする)とでなっており、国家公務員法によって分限制度が規定されるのは一般職の国家公務員なのだ。

国家公務員法の目的と効力を述べた第一条の3には
何人も、故意に、この法律叉はこの法律に基づく命令に違反し、叉は違反を企て若しくは共謀してはならない。又、何人も、故意にこの法律叉はこの法律に基づく命令の施行に関し、虚偽行為をなし、若しくはなそうと企て、叉はその施行を妨げてはならない。とあり、
倫理規定第一条には
この法律は国家公務員が国民全体の奉仕者であって、その職務は国民から依託された公務であることにかんがみ、国家公務員の職務に係わる倫理の保持に資するため必要な措置を講ずることにより、職務の執行の公正さに対する国民の疑惑や不信を招くような行為の防止を図り、もって公務に対する国民の信頼を確保することを目的とする。とし高邁な理想を掲げてある。

その昔、医者の行為は仁術と呼ばれて人を助けていたものが現在では算術での金儲けに変わり、教師の職は聖職として尊敬されたものが現在ではサラリーマンと化し、国立大学出は世間から‘学士さま’と仰ぎ見られた最高学府出も今では二流三流大学出と同じただの大卒と横並びになった。特別職を多く排出する大学では何を教えるのだろうか。国民の税金を如何に責任を負うことなく巨額に無駄に使うことが可能か、その技術の子細でも教えるのだろうか。撮み食いの技術も多分教えるのだろう。私腹を肥やすことさえも。

昨年度分限制度が適用され免職となったのは、郵政公社職員を含む一般職約65万人のうち35人。しかし、適用には難しさがあり、無断欠勤もその期間に2週間から3ヶ月のばらつきがあって、各省庁からは「明確な適用基準がないため、なかなか処分を決断出来ない」との声が上がっている。
これを受けて政府の適用指針には
 ① 度重なる無断欠勤
 ② 正当な理由のない遅刻や早退
 ③ 上司に対する暴言
 ④ 指示や命令の無視
などの適用対象を列記し、併せて最近数年間の処分事例を示して適確な制度の運用を促すようにする方針である。問題職員には厳しく対処し、勤務成績が良くない、心身の故障、必要な的確性を欠く、定員の改廃や予算の減少を理由に免職や降任の処分を下すことができるとし、その処分の判断を各省庁の任命権者に委ねられている。

何とも寂しい内容に暗澹とする。こんなことも手に着けられていなかったとは。どんな会社にだって就業規則というものがある。細かく職務規律は取り決めてある。中学校や高校にだって規則があって運用されている。破れば罰則が待っている。一般の企業と違いがあるとすればスト権を持つ一般企業と、持たない国家公務員のちがいはあるが、指針どおりに厳しく対処することを打ち出せば、事実上の「リストラ・マニュアル」になり兼ねず、労働組合の反撥も予想されている。  


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年1月 6日 (金)

「国保」滞納世帯30万超

毎日新聞(1/4)から
国民健康保険料の長期滞納を理由に、医療費の全額自己負担を求められる「資格証明書」を市町村から交付され、保険証を使えない無保険者が04年度、全国で30万所帯以上に達したことを報じた。

これは国民皆保健制度のもとにおいて、災害や特別の事情がある場合を除き、国民健康保険法の規定により、国民健康保険証を返還し、資格証明書の交付が義務づけられたものである。
保険料は大きくは4つに分けて割り当てられる。
 ⑴ 所得割額 各世帯の所得に応じて計算
 ⑵ 平等割額 1所帯にいくらと計算
 ⑶ 均等割額 各世帯の加入者数に応じて計算
 ⑷ 資産割額 各世帯の資産に応じて計算
   ♦資産割額は各自治体によって取り扱われる

これに対し、特別な事情がないのに1年以上保険料(税)を滞納している時には悪質だとして国民健康保険証を返還させ(国民健康保険法9条3項)、資格証明書の交付となり、1年未満の滞納者には短期保険証が交付される(国民健康保険法施行規則7条の22項)。「資格証明書」とは国民健康保健に加入しているということだけを証明するもので保険証の替わりになるものではなく、『医療機関の窓口で全額(10割)負担した金額を、保険料を納めてもらったら、後で7割は返済します』という証明書だということになる。

ここでいう悪質とは
 ① 納付相談や指導に一向に応じようとしないもの
 ② 所得や資産を勘案すると十分な負担能力があると認められるもの
 ③ 納付相談や指導において取り決めた保険料の納付方法を、誠意をもって履行しようとしないもの
 ④ 滞納処分を行おうとすると、意図的に差押財産の名義変更を行い、滞納処分を免れようとするもの
などを云う。

新聞は個々の滞納理由を一纏めにし、“行政に縁切られ 患者になれない”と書き、大見出しには“全医療費を自己負担”と書いた。読み進めたがどこにも保険料を納付すれば7割返還がされることは書いていない。逆に私は悪質な未納者を先に取り上げて書いているが、この者たちが全額負担になるのは自業自得、自分で蒔いた種だ。未納することは自由、その結果は自らがうけるのは当然のこと、それが自己責任の取り方なのだから。

しかし、未納者にも言い分はあろう。NHKの視聴料不払いに見られるように、企業の腐れ切った体質に対する精一杯の抵抗とも考えられ、公官庁の巨大な税金の無駄使いや浪費、加えて責任追求をしない政府の無責任さを考えれば一層拒否したくなる。自分の体が健康なうちは納付することは無駄にも思える。何故、健康な俺が、病気1つしたことのない、医者に懸かったこともない俺が、病気ばかりしている奴のために生活費を削らなければならないんだ。正直私も嘗てはそう思ったこともあった。齢(よわい)74、今まで眼病以外に医者に懸かったことはない。会社の健康診断もその後の成人病検査も殆どしたことがない。虚弱児で生まれ、誕生日まで生きるまい、と思われてから今日まで麻疹以外の病気をしていない。一度は戦争で命を失うことを考えた運命を生きた。いつこの世におさらばになっても寿命と覚悟して生きて来た。しかし、この年になって後から来る若者たちの納める税金の世話になるやも知れない思いが強い。

新聞の調査によると、00年度に比べ、04年度は3倍の滞納世帯数になり、景気はやや上向き加減ともいうが、2極分化の傾向も取り沙汰されている。片や慎ましい生活を強いられる母子家庭や無所得者があり、片や700万円、500万円もの高額会員権を手に入れ、ハイテク検診が受けられる富める人たちもいる。

厚生労働省国民健康保健課は「資格証明書の交付は滞納を抑制するという一定の効果は得られている。資格証明書を交付するに当たっての自治体間格差は、それぞれの自治体が個々の事情に応じて対応しているだけで問題はない」としている。

因に「資格証明書」の04年度交付世帯数を多い方から抜粋すると、
 福岡33,724、神奈川32,477、千葉24,405、大阪21,089、北海道17,648、広島13,419、栃木13,226、東京12,947、群馬12,568、少ないところでは沖縄123、長野492、山梨660となっている。

参考までに国民健康保険の加入者でなくなる日は
 ⒈ 他の市町村へ転出した翌日またはその翌日
 ⒉ 職場の健康保険へ加入した日の翌日
 ⒊ 死亡した日の翌日
 ⒋ 生活保護を受け始めた日
 ⒌ 外国人が脱退したとき
 としている。
 


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年1月 5日 (木)

さもありなん

ロンドン駐在記者
サンデーエクスプレス(1/1)によると 英国立肖像画美術館に展示されていた元ダイアナ妃の41点の肖像画がすべて撤去され、観光客や関係者から不満の声が上がっている、と報じられた。ダイアナの肖像画は今後、特別展などで時折展示されるだけだという。
またまただ、特別展のほかにどのような展示があって“などで”と表現するのだろう。どこかのデパートででも展示の予定があるのだろうか。

そんなことはどうでもいい。何故いつまでもダイアナを惜しむ声が多いのだろう。今では好かれようが好かれまいがカミラという正妻が、妃とは呼ばれなくともその座についているのだ。ダイアナは現在の英国王室には存在しない人間なんだから撤去するのが当然だろう。昨年の12/25のクリスマスにはカミラは王室の1員として正式に参加もしているのだ。

ダイアナはパパラッチに追い掛けられて交通事故に逢ったのだが、これも考えようによっては自ら招いた事故ともいえる。カミラ一人を一途に愛したチャールスに比べ、そのカミラへの嫉妬からチャールスへのしっぺ返しとも取れるような結婚中に男漁りにも似た次から次への不倫を繰り返し、マスコミの注目を浴びたのは自分から呼び寄せたともいえる。1996年正式に離婚をし、29億円の慰謝料を獲得するや地雷撲滅キャンペーンという白々しい行動を行い、次なる男を求めていたのだ。エジプトの大富豪と知り合い、彼の息子ドディには婚約をしていた女性もいたがダイアナは略奪婚を考えていたとしか思えない。

悲劇的な死がダイアナに一層の同情を寄せる声になるのだが、日本人の好きな頼朝に殺された義経に同情する判官びいきという思想があって、ダイアナにはそれに似た同情を寄せる人も多くいるだろう。私は先にも書いたがダイアナの上目使いに人を見る猜疑の表情が大嫌いだった。

美術館側は「肖像画を全部展示するわけにはいかない。展示を止めてもダイアナ元妃が歴史から抹殺されたわけではない」と説明したとある。宜なるかな、宜なるかな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2005年12月 | トップページ | 2006年2月 »