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2005年12月25日 (日)

遺骨収集事業

毎日新聞には特に12月に入って連日のように戦争に関する年輩の方の投書が載る。私は世代としてはどちらかと云えば戦前派の思想に近い教育環境で自己の成長を続けていた。男と生まれたからにはいずれ軍人になり、砲火の下で死と向き合うことは避けられない運命を担っていた。幸か不幸にか日本は戦争に負け、無条件降伏を受け入れた。子ども心にもこれで死なずに済む、という安堵にも似た気持ちが浮かんだのは事実だ。

たった4年も持たずに崩れ去った日本の国、帰りのガソリンも積むことを許されず、遺書をしたためて敵艦に体当たりして死ぬために飛び立って行った特攻隊の人たち。かれら若者が生前口に出せなかった心の中を覗くことができたのは、後の遺稿集『きけわだつみのこえ』が世にでてからのことだった。大義のため、口が裂けても言えなかった“生きたい”が家族に残す言葉の一行一行の行間に隠れているのが痛いほどわかるものだった。後に、男の世界を知らなかった妻が目を通した。彼女は声を上げて泣いた。‘あなた、よくもこんな手紙が読めるわね’真っ赤になって泣き腫らした目を私に向けた。同じ世代の女子挺身隊で工場で働いた経験もある妻は、その時代の事は知っていた。

22日の投書にパプアニューギニアの戦闘に参加し、戦友の死を見て来た88歳になる男性の投書が載った。銃弾に斃れるのではなく飢えで死ぬ兵も多くいたことを書いておられる。内地からの補給が断たれ、食料や薬が底を尽き、栄養不足とマラリア、赤痢でバタバタと死んで行ったという。極度の栄養失調と便秘で僅かに残っていた大豆を煎って石で叩き、飲み込んだら下痢が止まらずに、或いは空腹に耐え切れず、夜中に飯盒で雑草を煮て食べたが、下痢が止まらずに。投書者本人もマラリアと下痢が止まらず、僅かに37キロまで痩せこけ、軍医が枕元で口にしていた「もうだめだから、好きにさせておけ」という声を薄らぐ意識の中で聞いたという。投書の結びの言葉は「戦争は悪魔です」とある。

この人のように命永らえた人はまだいい。遺骨になったまま未だ還ることができない116万人の人たちだ。海外戦没者240万人のうち沖縄戦を含む116万人の遺骨は未だに現地に残されたままだ。殆ど不可能に近い作業になっているが60万柱は収集可能とされている。敗戦国として海外の遺骨の収集が許されたのは1952年、それ以来63,170柱が収骨されたが、北はロシアから南のニューギニアまで広範囲に残された遺骨は今のペースで収集を続けたとしても300年以上は掛かると予想されている。しかし、政府は後3年で遺骨の収集を打ち切る方針を打ち出した。

計算上で出る数字はわかるが、遺骨はすでに土に還った部分もあるが、髪の毛一本でも、それとわかる遺物でも、と自身の命のある間にわが子を、夫を、恋人を抱き締めてやりたい思いの家族は待っているであろう。世は平和ボケでクリスマスに浮かれ騒ぐが、本当は今日という日は静かに鎮魂で過ごす日ではないのだろうか。どんなことがあっても何年掛かっても収集は打ち切るべきではないと思う。命を捨てて今の日本に貢献してくれた人たちなんだから最後の遺骨の一つを帰国させる日まで。

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