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2005年12月16日 (金)

ジェンダーって何?

毎日新聞(12/14)から
猪口邦子男女共同参画担当相の言が載っている。『その「ジェンダー」間違ってます』全く理解できない言葉に戸惑った。勿論当方の不勉強だろう。老骨に鞭打って少しでも理解しようと多少の参考資料を当たってみた。ますます難しくて判らない。

先ずは「ジェンダー」という言葉、根っからの横文字嫌いの小生には知識を一つ増やす毎にますます泥沼に落ち込むことになった。この年(74歳)になって知らなくても良いことかも知れないがやはり気になる。
「ジェンダー」とは
 ⒈文法における性(Grammaticai Sex)のこと
 ⒉生物学的性に対する社会、文化的性
をいうらしく、後天的、身体的、生物学的性別を示すセックス(Sex)に対し、後天的、社会的な文化的性別のことをジェンダー(Gender)を云うとされている。

『定義は文脈や使った場面によって異なる場合がある。また、「ジェンダーは、セックスに基づいている」という考えに基づく「どこまでがセックスでどこまでがジェンダーなのか」という疑問や、逆に「Sex is Gender(=生物学的性と呼ばれているものもまた社会や文化が作り出したものである)」とする意見も出ており、セックスとジェンダーの境界を簡単に定義づけることはできない』とする意見もある。

難しく云わなくても「ジェンダー」とは社会的、文化的、心理的な性差(別)のことだろう。

男女共同参画基本法が平成11年6月23日に、計画基本方針が語呂も宜しくおいちに、おいちにの平成12年12月12日に閣議で決定された。

内閣府によると、「ジェンダーフリー」の名の下に小中学校などで、運動会の騎馬戦を男女混合に変えたり、トイレの表示を男女同一にするほか、男女同室での着替えや宿泊を行うケースも。これらのことについて猪口氏は「性差を尊重するはずが、男女を同一にしなければいけないと誤解しているようだ、現状は本来のジェンダーの概念とは異なっている」と話す。また、政府の見解では「性差や男らしさ女らしさを否定するようなジェンダーフリーは男女共同参画の理念ではない」としている。

因に教育現場では何が行われているか
♦クラス名簿を男女混合にする
  (男が先だろうと後だろうと何が問題か、これを差別と云うのなら学期ごとに後先を入れ替えたり、進級ごとに入れ替えたりすることも可能だ。それに昨今名前だけでは男性・女性の判断ができない名が多くなっている。昔のような太郎、花子なら分り易いが、例えば玉緒は男女どちらにもある)
♦女子のブルマーや男子の短パンを廃止して男女兼用のハーフパンツにする
  (パンツまでが差別の対象になるとは驚きだ。男らしさ、女らしさがはっきりするのに)
♦男女の呼称を「さん」に統一する
  (よくもこのようなバカな考えが浮かぶものだ。男の子は「くん」で何故いけないのか。一時女子教師が男の子を「くん」呼びした時代もあったが定着しないままに過ぎた。男だって「さん」で呼ぶことは幾らでもある。下級生が上級生を「くん」とは呼ばない、「○○さん」だ。逆に下級生に対しては呼び捨てが多い。或いは同級生や仲間同士では「さん」も「くん」もない、これも呼び捨てだ。女の子同士の間でも呼び捨てすることは多い。私の育った時代は教員は生徒におもねることなど全くなかった。男女を問わず呼び捨てだ。今だってこれでいい、呼び捨てのどこに不都合があるのか。民主主義が声高に叫ばれて逆に道理がひそひそと囁かれる時代になっている)
♦運動会の騎馬戦を男女混合にする
 (馬鹿もここまでやるか!男と女は全く異なる動物だ。力比べでは女は男に太刀打ち出来ないのが当たり前だ。(勿論男の比ではない女丈夫と云われる人もいるが)これから後列記する全てに該当することだが男女は平等ではないのだ。男の役割、女の性差は厳然として存在する)
♦男女児童、生徒を同室で着替えさせる
♦身体検査(脱衣)を男女児童、生徒混合で行う
 (「異性に裸を見られること、異性の裸を見ることは恥ずかしいことではない。恥ずかしいと思うこと、云うことこそ可笑しいと指導される」との現場の声がある。恥ずかしいと思わない教師こそ恥ずかしい、これこそ世に云う鉄面皮だ。大人の目線でしか物事を捕えられない(社会的、文化的、心理的に毒された)変態だろう。裸を見られることで生計を立てている(立てざるを得ない)職業もあるが、生育の早い現代っ子たち、第1次性徴、第2次性徴の年齢の女子から女らしさを奪う権利は大人にはない)
♦子どもに「がんばれ」と声を掛けると保育士から「ジェンダーフリーに反する」と云われる
 (少なくとも「ジェンダー」に理解不足の私でも子どもを励ますことに反則行為があるとは思わないし、性差別に繋がる要因が潜在しているとは考えない)
♦女の子に「さくら」「美咲」「優香」などの愛らしい名前をつけていませんか?と否定的に評価される
 (ばかもの!親が可愛い子に可愛い名前をつけるのに誰に遠慮がいるものか。昔から親は子どもの将来の幸せを願って幾夜も寝ずに考えるのが子どもの名前だ。よその他人に兎や角云われる筋合いのものではないし、他人が物言う権利などない。まして「ジェンダー」とは何の関係もない)
♦「鯉のぼり」「雛祭り」などの文化的行事は駄目とされる
 (もともと日本人には関係の薄いクリスマスにうつつを抜かすことは良いことか。無信仰の日本人が男と女の明確な別のあるものにしてっしまったバレンタインデー、ホワイトデーなどの気狂いじみた行事はいいのだろうか。つい先日はカボチャの化け物もスーパーには並んだ。外国の物まねは許されるのか。鯉のぼり、雛まつりのどこがジェンダーなのか教えて欲しい。日本古来からある男の子の武者人形、雛まつりのぼんぼりに赤い毛氈(もうせん)、男らしく、女らしい子どもの行事を無くす必要などある筈がない)
♦ロッカーや下駄箱の男女別の禁止
 (勝手にすればいい、これがジェンダーだと思うなら)
♦「男女」の名詞を「女男」に変える
 (一体何と読む、「にょなん」「じょなん」「じょだん」「めおとこ」「おんなおとこ」よくもこんなこと考え付くものだ。「男女」が男尊女卑なら「女男」は女尊男卑になる。こんな道理が理解出来ないとは開いた口が塞がらない。これなど典型的なフェミニズムの立場からの主張でしかないだろう。「おんなおとこ」なんて読んだら「おかま」連中が喜ぶかも)
♦「ジェンダーチェック」を生徒に行い、ジェンダーフリーを理解していないと「化石」と認定される
 (理解しないことが普通だろう、上に書いたようなことがジェンダーだと思わせることは不可能ではないか、どのような答えを要求しているのか判らないが、こちらは「脳なし」の名が相応しい)

労働争議華やかなりし頃、平等と公平の違いが理解が出来ず、混乱を続けた時代があった。組合は全ての「労働者は平等」だと言い張り、仕事ができる人、成果を上げた人、努力する人も、出来ない人、成果の上がらない人、ぶらぶらの人も「平等に」を叫んだ。当然最低の仕事の出来ない人、成果の上がらない人と平等の賃金ではできる人も仕事する気を失う、出来ない人は一層だらだらの人になる。できる人はこれだけ頑張ったのに彼奴と同じ給料か、となって生産性は低下する。左翼に指導された労働組合が大手を振ってストライキをやった時代だ。

ジェンダーも差別と区別の違いが理解出来ず、全く同じ轍を踏もうとしているように見える。
平等とは個人の資質、能力、努力、成果に関係なく一定の規則(約束)どおりに遇するシステム
公平とは全ての人に対し、機会均等が与えられ、成果を上げたものが評価されるシステム

「ジェンダーフリー」とは男女平等をいうのではなく、男女は平等ではないということを云っている、と思うがまだまだよく理解出来ない。弱って来た“おつむ”にも理解できるように易しく教えて欲しい。

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