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2005年12月31日 (土)

1944(昭和19)年

今日まで続けて来た私が生まれる前年から敗戦までの戦争に明け暮れた日本と、世界の動きを大まかに捉えて日記風に記して来たが、2005年の最後の日に合わせてひとまずは今回で中断し、1946年からは命があればいつか時が来た時に改めて書いて行こうと思う。

1944(昭和19)年、旧年齢で14歳、旧制中学1年生。当時、中学校は義務教育ではなく入試制度になっていた。貧しい生活水準の我が家では中学を受験するのは気が引けた。小学校しか出ていない父が母の従兄弟2人、自分の1番下の未婚の妹を1人、父の母、子ども7人と母の合計13人の家族を背負っていた上に遥かに出来の良い兄が転入試験に失敗した中学である。母にそっと相談した。「合格すればお父さんを説得してあげる」の返事をもらって受験した結果である。

長引く戦争の中、身近な人の死があり、徴兵年齢の引き下げ、少年兵の年齢引き下げ、といよいよ自分に迫って来る死の影に気づく年齢になっていた。やはり死ぬことは恐ろしく、徴兵を逃れたと云う人間の、嘘とも真とも分らない話に聞き耳をたてるようになっていた。曰く、前日に醤油をがぶ飲みすれば理由の解らない高熱を発することで不合格間違いない。曰く、右手の人さし指を切り落とすと小銃の撃鉄が引けないから不合格、などどいう話。この頃しきりに夢で見る景色があった。山頂を蹴って大空へ飛び立ち自由に空を泳ぎ回る自分がいた。何度となく見る夢の中で泳いだ。反対に兵隊ごっこで銃剣で刺され、殺される夢も何度も見た。背を丸め、拳を握りしめ、苦しいほど寒くなり、歯の根も合わずがたがたと震えて眼を醒ます。生というもの、死というものについて、少年の心に思索するする力が生まれていた。

最初の輝かしい戦果が遠のきキスカ島、アッツ島で始まった玉砕が場所を南の島に移って、マキン、タラワ両島、サイパン、グワム島、テニアン島が玉砕して敗北。玉砕に次ぐ玉砕は如何に幼いとはいえ戦争の行方を2、3年のうちには自分の身に降り掛かる死との関係で捕らえるようになっていた。学徒動員で海軍工廠木工部へ配属、始めて工場へ出る朝、学生たちがこの月に発表さればかりの学徒動員の歌『花も蕾の若桜、五尺の命引っさげて 国の大事に殉ずるは われら学徒の面目ぞ ああ、紅の血は燃ゆる』と悲愴なメロディーに乗って校庭を行進する姿を見た祖母は、家に帰った私の姿を見て嘆いた。「こんな子どもを戦争に連れ出すなんて、日本は遠からず負けるに決まっている、うちは涙が止まらんかった。」側にいた父が烈火の勢いで祖母を叱った。「神風が吹くんや。」

遠く元冦の役(1次、文永1年、2次は7年後の弘安4年の夏、それぞれ3万数千人、14万人の蒙古軍の乗船した船が季節風が吹き荒れ、攻め寄せた蒙古の軍勢は船諸共に海底に沈んだ)の13世紀の故事が忘れられず、日本国民の多くはその「神風」が吹いたことを日本に味方したと教えられ、いよいよもって日本は神の国であることを叩き込まれていた。しかし、戦争を始めた軍人は、「神風」の名と引換えに20代の若者の命を火薬の代用品にして、空に海に一発の弾薬として帰りの燃料も持たせず死に行くことを強要していた。

(その他の出来事)
 1月 学生の勤労動員が法制化される
 1月 女子挺身隊として14歳から25歳までの未婚女性を軍需工場に動員配属
 1月 ノルウェーの画家、ムンク死去。代表作「叫び」
 1月 空襲時の延焼を防ぐため建物の強制取り壊しが東京、名古屋で行われ、以後住人の強制疎開が全国に広がる
 2月 アメリカ軍がマーシャル諸島クェゼリン環礁に上陸、約15,000人の守備隊は全滅
 4月 海軍は特攻兵器、人間魚雷「回天」とベニヤ板のボート「震洋」を採用。どちらも火薬を抱えて敵艦に体当たりし、生きて還られぬ兵器
 4月 ドイツは3月にハンガリーに侵入したあと、ハンガリーのユダヤ人をアウシュビッツ強制収容所に送り始める
 5月 国鉄の列車に女性の車掌が勤務
 6月 4日米英連合軍がローマを占領。6日、連合軍は空陸海の大部隊をもってノルマンディーに上陸(地上最大の作戦と呼ばれる)
 6月 アメリカ軍がマリアナ諸島サイパン島に上陸、日本軍守備隊約4万人が玉砕
 6月 ドイツがジェット推進のV1、弾道ミサイルV2でロンドンを攻撃
 7月 ヒットラーの暗殺未遂事件が起こる
 7月 グアム島で1万8,000人、テニアン島で8,000人の日本軍守備隊が玉砕
 8月 連合国軍がパリに入城
 9月 パラオ諸島のベリリュー島、ニューギニアのモロタイ島の日本軍守備隊玉砕
10月 アメリカ軍が沖縄本島、宮古島、奄美大島などを空襲
10月 6月のマリアナ沖海戦で空母3、艦載機400などを失い制海権を失っていた日本連合艦隊は、フィリピンのレイテ島沖の海戦で戦艦「武蔵」、空母3隻を始め残存していた艦船数隻を失って日本の連合艦隊は事実上壊滅した
11月 煙草が男子1日6本の配給制になる
11月 24日、B29爆撃機約80機が東京へ初空襲

    大日本帝国の終焉はすぐそこまで来ていた。


pensee 瞑想(ロダン)



【補足】
1946(昭和21)年、埼玉県蕨市の町青年団が青年祭を企画、「敗戦の虚脱から若ものたちを励ましたい」と「青年式」を行った。この噂が徐々に各地に広がり、1948年になって小正月に当たる1月15日を「成人の日」として国民の祝日に制定された。しかし、私はその成人式の場に立ち会った記憶はとんとない。
1949(昭和24)年、旧年齢で19歳。
1950年1月1日より満年齢による年齢の数え方が始まった。その時点で10月生まれの私は18歳と2ヶ月、51年の正月が来ても若返ったまま誕生日までは18歳で過ごすことになった。

敗戦の年、1945(昭和20)年については8月16日のブログに詳しい。

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2005年12月30日 (金)

レジ袋の有料化

【前置き】
冬休みに入ってスーパーを筆頭に小、中学生の女児の姿が目立つ。大抵は小人数の集まりになってわいわい、がやがやをやっている。周りに人がいても一向に気にしない。だけなら未だいい、酷いやつになると走り廻って追い掛けっこ状態だ。甲高い声でキャーキャーが耳に来る。試食品のところで立ち止まる。次から次に手が伸びる。一時買い物序でに寄り道していた食堂やレストランにはここ1年近く入らなくなった。入れば必ず見たくない光景を見ることになるからだ。バカ親に育てられたバカ娘、バカ息子とその家族、余りに多く目に飛び込んで来る。何度も注意し、声を荒げて来たが妻に注意された「今に殺されるから止めて!」と。確かに「物言えば唇寒し・・・」の世の中、『豆腐に鎹、糠に釘』でこちらが疲れるだけかも知れない。

【閑話休題】
同じように買い物をする親たちも一向に改まらない。スーパーでは99%女性だ。相変わらずの立ち話、それも狭い通路を2台のカートで通せんぼうしたまま。始めはこれだけのことをしていればバカでなければ短い時間で避けるだろう、と横の並びを通り抜ける。少々の買い物をして戻って通ろうとするとこのバカどもはまだ立ち話。それも1ケ所で留まらない。我慢ならず怒鳴り付ける。「邪魔だ!」これも段々口にすることも減って来た。険悪な世の中、女性だって現実に人を殺しているのだから。

消費者の選択眼が厳しくなっており、特に賞味期限を気にする人が極端に増えている。陳列棚を奥からでないと手にしない人、反対に手前から順次奥へ進む人、並んでいるものを片っ端から手に取って調べる人、指で押してその固さや柔らかさを確かめる人、手にしたものを元の位置に戻す人は殆どいない。整然と並んでいたものは雑然と積まれて後の人のことなどどうなろうと構わない。こういった買い物風景は最近得に目立つ。どんな手で触ったか不安になる。だから野菜や果物などは包装されたものしか買えない、買わないようには妻に云ってある。熱を加えて加工するものはいいが、育てた専門家でないと区別のむつかしいものまで、次から次にと手にする果物類を買う時は注意を要する。

殺伐とした気分で買い物を終えてレジを通る。これがまた驚きの場に出くわすことになる。遠いので週に1度ほどしか生協には行かないが、心ある人への協力を呼び掛けた5円の投入口を持つ函が用意されてレジ袋が置いてある。大抵10人くらいが精算を終えて各々に袋詰めをしている。何の蟠(わだかま)りもなくさっさと金を入れることもなくポリ袋を引き抜いて買い終わった品を詰めて行く。10人いれば一斉に引き抜かれる袋は20〜30枚にはなっている。自宅からそのための袋として用意してきている主婦(だけじゃないが)は数えるほどしかいない。只ほど安いものはない、と足りなくなるとレジに戻り係りに余分に無心する女性もいる。

もっと凄いのが何人もいる。何処のスーパーでも準備しているが、袋詰めするテーブルにトイレットペーパー状に巻いた小袋がある。汁の溢れ易いものを入れるためのものだ。こまめに1品1品入れる人と並んで一気に手に巻き付けて何十袋分も引きちぎる人、詰め終わってから帰りの土産にと同じく手にぐるぐる巻にしてから袋に押し込む人。最少限必要な品にはレジ係りの店員が気配りして先に入れてくれているのが普通だ。にも拘わらずのオバサンたちの習性なのか。今まではスーパーのサービスの必需品として当たり前の感覚で消費してきたものだが、ここに来て容器リサイクル法の見直しが注目されている。

ペットボトルの容器や包装など、リサイクル費用を負担しているスーパーや食品メーカーなどの事業者が、自治体の分別回収・選別保管の費用を一部支援する制度を創設することを盛り込んだものである。現在自治体は約3.000億円を負担しているが、負担軽減を求める声が大きくなっている。ここに事業者の支援制度を導入して自治体に年間数十億から100億円程度の支援をすることで調整している。支援金の財源は事業者が国のリサイクル制度で負担している費用の中から捻出される。

事業者のリサイクル費用は04年度の約450億円から10年度には約900億円になる見通し。自治体がごみを減らしたり、分別収集を徹底させることでリサイクル費用が浮くことを目論んで、個別の自治体への支援はこの浮いた分から努力に応じて配分して行く予定。しかし、自治体のリサイクル費用が浮くことを前提とする考えには各家庭の協力が絶対必要な条件としてあり、そう甘い見通しを立てるには余りに低いモラルが邪魔をする気がする。用の終わった容器は汚れを洗い落とし、異物が混じらないようにし、汚れが取れない容器包装類はリサイクルから分別、別に焼却ごみとして区分するなどの細かい処理や分別が要求される。

消費者には只で提供するのは当然と認識されていたレジ袋の削減努力を義務付け、政省令に「有料化も選択肢の一つ」などを盛り込む予定。国はスーパーには使用量の削減を目標設定させてその実行を義務付ける。削減努力が十分ではない事業者は名前を公表したり、勧告の罰則を科して本格的に有料化に向けた道筋をつけた。

納める側ともらう側、事業者は「我々の負担の削減にはつながらない」と反発し、自治体側は「事業者負担が不十分」と云う。来春の通常国会で改正法案を提出するまでには難航が予想されている。

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2005年12月29日 (木)

タクシーの全面禁煙

毎日新聞(12/21)から
20日、東京地裁で国がタクシーを禁煙にしないため受動喫煙で健康被害を受けたとして、タクシーの運転手と利用者計26人が国に1.360万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が判決が出た。柴田寛之裁判長は「法的に、国に規制する権限はない」として請求を却下したが、「乗務員は、分煙が不可能な狭い密閉された車内で、乗客の吸ったたばこの副流煙を恒常的に吸わされる、他の公共交通機関の禁煙化に比べ著しく遅れている。事業者の自主性に任せていては早急な改善は困難。国の適切な対応が期待される」とも云い「健康に及ぼす影響は見過ごし難い。タクシーの全面禁煙化が望ましい」との意見を述べた、とある。

おかしいよ、タクシーがどうして公共交通機関なんだ、嫌なら乗らなければ済む。通勤に必要な電車や地下鉄(これも電車か)やバスなどの公共性は至って高いがタクシーは決してその意味での公共の乗り物じゃない。ゼロとは云わないが、電波におけるNHKと民放との違いを考えれば理解は速いだろう。わざわざタクシーに乗らなくても会社にも買い物も遊びにだって出かけることは可能だ。それに㎞当たりの単価はどの交通手段に比べても圧倒的に高額だ。決して一般的な公共性の高いものではない。

さて、健康の問題だが、タクシー運転手の勤務時間は或会社を例に取れば、8:00〜翌2:00(休憩3時間)勤務シフトは15日サイクルの6勤3休、普通の会社勤務に換算して週40時間。1週間は7日目の公休、14日目15日目は連続しての公休となっている。タクシー運転手の職業病といえば決まって胃下垂がある。長時間乗り物の振動を体に受ける仕事に避けられない現象として理解できる。しかし、たばこの副流煙は巷間云われるような害を含むものではなく(医学的根拠はない)ただ咽の弱い人、気管支炎症状のあるひとたちには刺激の強い煙りとして文字どおり煙ったがられることになる。

はっきり云ってしまえば、全国のタクシーのうち約5400台しかない禁煙車を約27万台のすべてを禁煙車にしてしまえば解決することだ。一般的にタクシーで1時間2時間の距離を移動する交通手段に頻繁に利用する人はそう多くはないだろうし、短距離、短時間とは言え毎日毎日来る日も来る日も利用する人も多くはいないだろう。そうなると余計に公共性は低くなる。だが裁判長も云うように国には規制する権限はないのが現実だ。

結局この問題はタクシーを利用する側の問題にはなり難く、事業者側の問題として事業主の問題意識の問題となる。そうなれば運転手の雇用条件の1つに事業主側として選択可能な禁煙車輌を多く所有することが、競合相手との特色を出せる企業になり得る可能性があるかも知れない。現実は全車輌の2%そこそこの禁煙車の保有台数でしかないことだから前途遼遠だが。

煙草の煙りを嫌う人も多いが、酒の臭い、息を嫌う人も多くいる。たばこと同じ、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い式のたばこ嫌いも鼻につく。酒も同じ、車内をゲロの海にされたタクシー運転手の話を聞かされたのは1度や2度ではない。泥酔者乗車禁止のタクシーがあっても面白い。

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2005年12月28日 (水)

玩具に異議

ごく最近テレビに出て来る気持ちの悪いタレントがいる。短パンで両手を広げ、何か訳のわからない声を上げて腰を振る。吐き気を催す仕草だ。何故こんな気狂いがテレビに写るようになったのだろう。大体何が面白くてみている人間が嬉しげに笑うのだろう。笑える要素など微塵もないと思うのに。最近のお笑いタレントと呼ぶ有象無象の特徴に、やたら体をくねくねと捻り、訳もなく絡み合い、叩きあう仕草が目立っているように見える。

以前(昭和41〜47、8年頃)一世を風靡した「コント55号」というお笑いがあった。舞台狭しと走り回り、飛び回り、お互いを蹴りあい、叩き合った。現在二人はコンビこそ組まないが(解散もしていない)、それぞれ別の道で活躍している。1人は職業人野球チーム“ゴールデンゴールズ”を率いる欽ちゃん(萩本欽一)、もう1人は俳優業にも転進して活躍する二郎さん(坂上二郎)だ。このコンビが人気を博したのは二人の軽妙な掛け合いの語り口にあった。ツッコミとボケ、お互いの洒脱なセンスに引き込まれたのだ。続いてはやすきよ、オール阪神巨人たちがが続いた。

吉本が東京に進出し、若手を育てて来たが、この頃から掛け合い漫才に喋りの面白さが失われて来た。単に走り回り、叩きあい、表情を作り、目で見るだけの粗製濫造のものに成り果てて来た。どこにも可笑しさも面白さもなく、ただ単に体がくねくねと動くだけになった。愉快な会話もなく、掛け合いもない。まともな人間ならやらない、見せない、動きを見せて定められた時間を終える。面白くもない極端なお笑い芸に、先に書いた不愉快な1人の男が現れた。これが又現在の若者たちに受けているように見える。こちらの頭が可笑しいのか、見て笑える頭がまともなのか、わからない。

この男、レイザーラモンHGなる名前からして無国籍のような名を持つ。この男をキャラクターに使った「爆笑問題のバク天!黒ひゲイ危機一発」(樽に剣を突き刺し、中の海賊が飛び出したら負け、という「黒ひげ危機一髪」のHG版)と名付けられた玩具。これを作ったメーカー「トミー」に対し、同性愛者の性的少数者の教職員でつくる「セクシュアルマイノリティ教職員ネットワーク」(STN21、本部京都市)が、同性愛者差別を助長するとして、発売中止を申し入れた。

STN21はカタカナ言葉にしているが、日本語にすればそのまま性的少数派教職員の団体だ。社会的認知はまだない。男にしろ女にしろ同性を好きになることには当人たちの勝手、好きにすればいいことだ。しかし、私が例えば男に言い寄られればこの上なく気持ちが悪くなるのは避けられないし、まして若しも私の子どもがこの手の人の教育を受けなければならないとすれば、即座にクラス替えを要求する。被害は未然に避けるのは当然のことだ。自然界はお互いに異性に惹かれるように作られ(最近の研究では約90%)、成り立っている。彼らの言い分は「この玩具は同性愛者やそれを連想させる人物を樽に入れて剣を突き刺して楽しむ玩具は差別で、子どもたちに同性愛者は差別してもよい」との意識を植え付ける恐れがある、との言い分だ。これに対し、トミー広報チームは同性愛者を突き刺して楽しむとの認識はなかった、差別の助長には当たらない、と見ている。

私ははっきり云ってこの人たち同性愛者には大いなる偏見を持つ。これこそ人の考えは自由だ。それよりキャラクターになっているレイザーなんとか、こんな下らないタレントこそ早く玩具ごと消えればいい。

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2005年12月27日 (火)

競馬、ゴルフがスポーツ?

Yahooの2005Y's Sports Inc.の投票結果を見て驚いた。競馬、ゴルフに関しては全くの門外漢だが。
1位にいるのが競馬馬、3位に女性のゴルファーだって。この投票の主旨には「スポーツを愛する皆さまとスポーツナビ編集部が協調して・・・、・・・日本のスポーツ界に最も貢献した人物をたたえたい」ということで創設された、となっている。

どうして走る馬が人間のスポーツ分野に入って来るのか理解出来ない。同じく芝生の上に鎮座する球(時には砂の中にいたり、池に沈むやつもいるようだが)を引っ叩くだけのことでゴルフがスポーツになるのか。走る馬の背から落とされないようにバランスを取り、尚且つ他の馬との駆け引きをするのは人間さまだが、こんなのをスポーツとは云わない。馬券を買い、いくがしかの小遣い銭を手にし、一時の楽しみを味わう。或いは大金をはたいて馬券が紙屑になり自棄酒の言い訳になる。稀に万馬券と呼ばれる奇跡が起こって巨額の金を手にする人も出る。要は手当たり次第の博打の世界だ。国ぐるみで行う賭博の世界をどうしてスポーツと呼ぶのか。時に財産をはたき込み一家離散の結果の野たれ死に。

さすがイギリスで発達してきた競馬とゴルフ。碌なものを産まない。遠く離れた東洋の国、日本の国技を博打にかける民族だ。根は博打にあると考えると分かりやすい。身近にいた人間だが「ゴルフはメンタルなスポーツだ」と云ったゴルフ狂がいた。バカか、一歩譲ってゴルフがスポーツだとしても、メンタルでないスポーツがあればお目にかかりたい。しゃがみ込んでグラブを立てて芝を読む、指を舐めて風向きを読む、距離を読むなどはスポーツじゃない。同じく球を引っ叩くのに馬に乗って手綱を取りながらするポロがある。これはゴルフよりはうんとスポーツに近い。

ゴルフのスポーツ性を見ようとすれば、クラブを振り回す動作だろう。しかし、これも片側回転だけで、左利き右利きで回転方向が決まっている。特別重いものを手にしている訳じゃない。力一杯振るのは第一打だけのこと、後は適当な力加減で引っ叩くだけ。メンタル性では止まったままの球でもビリヤードに軍配が上がる。入射角に反射角、打点に力加減、たった一つの球じゃない、クッションによる慣性、反撥力に回転が持つ方向性、どれを取っても遥かにメンタル性は高い。でもこれだってスポーツじゃない。ゴルフは芝生の上を歩くじゃないか、太陽を浴びて健康的だ、と云うだろう。それはそうだ、太陽光線を浴びるのはとても健康に良い。太陽に当たりたければ外に出れば良い。子ども連れの家族、若いカップル、杖をついた老夫婦のひなたぼっこ、軽い散歩。誰でも公平に照らしてくれる。公平ではないとも言える面もあるがこれは他の問題。そう、歩くことについて語らなきゃ。運動のために歩くのは、高年齢の人でなければ冬でも手のひらにびっしょりと汗ばむ速度、力強さが必要。芝生の上をのんびり進むのは健康のためにはなるだろうが、運動とは云わない。ゴルフの場合は後から来る人の邪魔にならない程度の進み方でいいのだ。特にプロともなれば周りに群がる見物人に見守られて拍手をもらって得意になって歩けばいのだから。スポーツ性など全くない。

ジェンダーだの性差だの云ってるが、ちょっと名が知れただけの女の子が男性の中に加わる。ただの自惚れから奇を衒って名をあげる。女だから許されるのか、男性が女性の中に参加することも門戸は開いているのかどうか知らないが、男は後込みするだろう。

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2005年12月26日 (月)

1943(昭和18)年

旧年齢で13歳、小学校6年生。生を享けて70有余年、ただ一度奇跡とも呼べる出合いを体験することになった。

4月17日〜5月17日の間の一日であった。学校も終えて父の勤める会社の社宅の二階で手摺に凭れて、間に畑を挟んで100メートルほど先の通りを行き交う人をぼんやりと眺めていた時だった。まだ夏前で紺の海軍の軍服を纏った軍人が右に歩くのを何気なく眺めていた。咄嗟に大きな声で叫んでいた『文吉兄ちゃーん』。100メートルの距離では届かなかったのか、どんどん歩き進んでいた。
巡洋艦「阿武隈」に乗艦して戦地に出て日本にはいない筈の人だったし、近眼の私には遠くて顔の判別はおろかすれ違っても見知らぬ人でしかなかった。5歳の時里帰りの母に連れられて逢っただけの人だった。慌てて駈け降りて母に伝えた。私が口にした名は母の従弟の軍人だった。血相を変えた母は人違いかどうかも確認することもなく飛ぶように駆け出して通りに向って走り出していた。やがてその人が母と一緒に目の前に現れた。

この日から後の5月29日、『大東亜戦争』最初の玉砕の島アッツ島へ、それに先立つ2月10日、数次に亙る兵士の輸送船団の護衛を行った帰路アメリカ艦隊と交戦し、被弾して修復のために1ヶ月間だけ舞鶴に帰港したことから、その人と生前最後の出合いとなった。実の両親への挨拶も叶わなかった人との、作戦の合間に起こった奇跡でしかなかった。

kaigun 1944年10月26日 ミンダナオ海戦で戦死


『文吉兄ちゃん』はその後再び6月10日、アッツ島の生還者27名の収容に7月7日、キスカ島の陸軍部隊1,202名の撤退作戦に向ったあと南に転進し、翌年10月26日ハワイに近いネグロス島沖のミンダナオ海でアメリカ軍と遭遇、「阿武隈」は爆撃を受けて自ら装填していた魚雷4本が誘爆して炎上沈没した。当然遺骨はないし、遺書もない。救助されたもの283名、この間の経緯については戦後史が書かれるようになって徐々に明らかになって来たことで、当時は実家の家族にも戦死の通達1枚が送られただけで済まされていた。

前年6月のミッドウェーの反撃からアメリカ軍の攻撃は激しさを増し、同年8月の1次から始まったガダルカナル島沖のソロモン海戦は11月までに3次を重ね、ガダルカナル島に上陸したアメリカ軍の占領により空、海からの食料の輸送路を断たれたガダルカナル島の日本軍は飢餓に見舞われることとなり、戦病死者、餓死者24,000人を出して本年2月、将兵13,000人余を駆逐艦などの艦船に収容して撤退した。大本営はソロモン海戦を通して海軍の損失が戦艦2、空母1などを含む艦49、航空機900機近い損害を受けながら、敵へ与えた損害を華々しく発表して虚勢で飾り、日本軍の損害を軽微に偽り、国民への真実を隠した。

この年もう一人の母の従弟が陸軍に召集された。やはり兄ちゃんと呼んで九州から出て我が家に同居していた人で、入隊先が近畿であったため、私たち家族の家からの出征となった。


syussei 旗を持つのが子どもの私



その後日本を離れて行った先は泥沼に嵌ったように長引く中支の戦場だった。憲兵隊に配属され、敗戦後生きて日本には戻って来たが行方不明になりそのまま消息が絶えた。

    野戦病院に収容中の傷病者はその場において、
    軽傷者は自ら処理せしめ、
    重傷者は軍医をして処理せしむ。

この文は、大本営が南方に戦局の打開を求め、アッツ島を見捨てたおり、守備隊長山崎大佐が『生きて虜囚の辱めをうけることなき』よう玉砕の当日、最後の突撃に参加出来ない戦傷病者の命を断ち、天皇陛下万歳を三唱して2,638名の部下とともに突撃するに際して大本営に向けて打電した最後の電文である。それでも玉砕を伝えられた後、27名の重傷者を含む生存者が救出された。

新聞は大本営の発表をそのままに、ガダルカナルの時も、アッツ島でも敗北の「退却」を「転進」と書いた。学校では教師が玉砕とは1人残らず戦死することと教え、玉砕した兵士を英雄と讃え、軍神と教えて反米感情を煽っていた。そして、大事なことだが当時の小学校の男の子たちはそのような教育にさほどの抵抗もなく洗脳されて染まって行った。高学年になると赤樫の木刀を、女子は薙刀を習い、敵と戦うための訓練をしていた。この赤樫の木刀は今でも夜盗の侵入に備えた警備用として実家に残っており、里帰りの折々に苦々しく眺める。

(その他の出来事)
 1月 ジャズなど1,000曲の演奏が禁止になる
 1月 5年制だった中学校が4年制になる(高女、実業、大学予科、高等学校なども同様に短縮される)
 2月 スターリングラード攻撃のドイツ軍は9万人が冬将軍に囲まれたまま身動きが取れず、ソ連軍の反撃に合い降伏
 4月 連合艦隊指令長官山本五十六大将の搭乗機がソロモン沖でアメリカ空軍に撃墜され戦死、6月5日国葬に
 5月 陸軍が少年兵の志願年齢を1歳引き下げて、14歳とする
 5月 アリューシャン列島アッツ島の守備隊約2,600名玉砕
 6月 就労時間の制約を解除、婦女子、年少者の採炭のための坑内作業を認め、男子労働者に混じって上半身裸で作業する女子労働者もうまれる
 7月 イタリアでムッソリーニが失脚、逮捕される
 7月 女子の学徒動員を決定
 8月 米英空軍がベルリンを猛爆撃
 8月 9月にかけての1ヶ月間に空襲による万が一の事態に備えて動物園の猛獣たちが次々に毒殺、絞殺、餓死させられて行った
 8月 朝鮮に徴兵制を実施
 9月 3日、イタリアが連合軍に無条件降伏する
10月 学生、生徒の徴兵猶予が停止されて、5月に決まった陸軍の志願年齢引き下げもあって、いつ兵隊に取られるか不安な空気が漂い始めた
10月 21日、雨中の明治神宮外苑競技場で東京近郊の77校から集まった学生数万人が小銃を肩にして行進。出陣学徒壮行大会が行われ、12月1日第1回学徒兵が入隊する
11月 兵役法が改正され、年齢が45歳までの延長になる
11月 ルーズベルト、チャーチル、蒋介石がカイロで会談、日本が無条件降伏をするまで戦うことを取り決める
11月 ルーズベルト、チャーチル、スターリンがテヘランで会談、この時ソ連はドイツが降伏すればその3ヶ月以内に対日戦への参加を表明していた
12月 特例として徴兵年齢を1歳引き下げて19歳からとした。

少年兵の年齢を14歳に下げ、学生の徴兵猶予を廃止し、45歳までを兵に取り、20歳であった徴兵を今また引き下げて日本の国内の男性は老人と幼児、或いは病弱のものだけで構成され、若者は根こそぎ動員されて死ぬことを強要されることになった。
この頃ショーコンユなる言葉を耳にするようになったが、漢字で書けば「松根油」、文字どおり松の木の根から採ったもので航空機の代用燃料として使われた。

kouhisei 戦争末期に志願して散った2歳年長の遠縁の少年(叔母に贈った最後の写真)


memo 裏書き 叔母の健康を願って記されている、15歳とある。

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2005年12月25日 (日)

遺骨収集事業

毎日新聞には特に12月に入って連日のように戦争に関する年輩の方の投書が載る。私は世代としてはどちらかと云えば戦前派の思想に近い教育環境で自己の成長を続けていた。男と生まれたからにはいずれ軍人になり、砲火の下で死と向き合うことは避けられない運命を担っていた。幸か不幸にか日本は戦争に負け、無条件降伏を受け入れた。子ども心にもこれで死なずに済む、という安堵にも似た気持ちが浮かんだのは事実だ。

たった4年も持たずに崩れ去った日本の国、帰りのガソリンも積むことを許されず、遺書をしたためて敵艦に体当たりして死ぬために飛び立って行った特攻隊の人たち。かれら若者が生前口に出せなかった心の中を覗くことができたのは、後の遺稿集『きけわだつみのこえ』が世にでてからのことだった。大義のため、口が裂けても言えなかった“生きたい”が家族に残す言葉の一行一行の行間に隠れているのが痛いほどわかるものだった。後に、男の世界を知らなかった妻が目を通した。彼女は声を上げて泣いた。‘あなた、よくもこんな手紙が読めるわね’真っ赤になって泣き腫らした目を私に向けた。同じ世代の女子挺身隊で工場で働いた経験もある妻は、その時代の事は知っていた。

22日の投書にパプアニューギニアの戦闘に参加し、戦友の死を見て来た88歳になる男性の投書が載った。銃弾に斃れるのではなく飢えで死ぬ兵も多くいたことを書いておられる。内地からの補給が断たれ、食料や薬が底を尽き、栄養不足とマラリア、赤痢でバタバタと死んで行ったという。極度の栄養失調と便秘で僅かに残っていた大豆を煎って石で叩き、飲み込んだら下痢が止まらずに、或いは空腹に耐え切れず、夜中に飯盒で雑草を煮て食べたが、下痢が止まらずに。投書者本人もマラリアと下痢が止まらず、僅かに37キロまで痩せこけ、軍医が枕元で口にしていた「もうだめだから、好きにさせておけ」という声を薄らぐ意識の中で聞いたという。投書の結びの言葉は「戦争は悪魔です」とある。

この人のように命永らえた人はまだいい。遺骨になったまま未だ還ることができない116万人の人たちだ。海外戦没者240万人のうち沖縄戦を含む116万人の遺骨は未だに現地に残されたままだ。殆ど不可能に近い作業になっているが60万柱は収集可能とされている。敗戦国として海外の遺骨の収集が許されたのは1952年、それ以来63,170柱が収骨されたが、北はロシアから南のニューギニアまで広範囲に残された遺骨は今のペースで収集を続けたとしても300年以上は掛かると予想されている。しかし、政府は後3年で遺骨の収集を打ち切る方針を打ち出した。

計算上で出る数字はわかるが、遺骨はすでに土に還った部分もあるが、髪の毛一本でも、それとわかる遺物でも、と自身の命のある間にわが子を、夫を、恋人を抱き締めてやりたい思いの家族は待っているであろう。世は平和ボケでクリスマスに浮かれ騒ぐが、本当は今日という日は静かに鎮魂で過ごす日ではないのだろうか。どんなことがあっても何年掛かっても収集は打ち切るべきではないと思う。命を捨てて今の日本に貢献してくれた人たちなんだから最後の遺骨の一つを帰国させる日まで。

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2005年12月24日 (土)

出生率の低下と少子化

少子化も出生率の低下も云われて何年も経過するが一向に歯止めが掛からない。
厚生労働省が22日に発表した05年人口動態統計の年間推計で、統計を開始した1899(明治32)年以来初めて出生数が死亡数を下回り、約一万人の自然減となる見通しとなった。これは人口問題研究所が減少すると予測していた07年よりも2年早く現実の問題となった。

日本では一人の女性が生涯に産む子どもの数である合計特殊出生率(出生率)が74年から減り続け、03、04年は過去最低の1.29になった。現人口を維持するための水準2.08を下回り、30年も前から続いていた減少傾向が遂に死亡数を下回る状況をうんだものである。

問題は現在の日本の人口が理想とするものか、或いは必要とするものか、減少することが将来日本を危機的状況にするものか、反対に増加が必要なものか、基準となる人口が何人である必要があるのか解らない。もともと資源の乏しい日本だが、輸入を前提とすれば上限をきめることもないだろうが、自給率100で考えればもっともっと人口は減った方が良い。ただ社会保障の点から考えると若年層の減少は現時点で高齢者の逆ピラミッドの年齢構図では支え切れない問題が残る。

方々で、多くの人が少子化対策を唱えているが、そして福祉国家として社会保障の整備されたスウェーデン辺りを例にした種々データを羅列するが、日本の劣る面ばかりを引き合いにし、その依って来るベースを等閑(なおざり)にする傾向が強い。例えば 社会保障給付費対GDP比の国際比較(OECD:経済協力開発機構)Public Social Expenditure を例に取れば
 
 社会保障給付全体        家族現金給付*
  日本     14.66      0.47(%)--GDP比
  スウェーデン 30.98      3.31
  アメリカ   14.59      0.51
  フランス   28.82      2.69
  ドイツ    27.79      2.73
  イギリス   24.70      2.22
      *(両親保健、児童手当等家族に係わる財政支出)

と、これだけを見て如何にも日本の施策が低いように見えるが、預貯金0でも老後の心配が一切ないスウェーデンと比較すること自体が乱暴なことなのだ。その裏付けとなる課税システム(所得税、消費税など国民の負担税合計は優に70%にもなる)を財源にしての諸施策なのだ。スウェーデンに限らない、おしなべて家族現金給付の高い国は税率は高くなっている。

過去に消費税3%が5%に、今後7%、15%に、アルコール酒税、たばこ税の増加の話が出る度に、拒否反応を起こす日本では何時まで経っても望めない手厚い国家保障なのだ。まして、官僚の無駄遣い、国の無駄使い、それも国民の血税を天文学的な巨額を浪費しても責任の所在も追求せず、明らかにもできない。小泉が国債発行30兆円以下をなんとか守るようだが、焼け石に水だ。

政府は少子化、出生率の低下の原因を晩婚化が進んだから未婚率が上がったと捉え、仕事と子育ての両立、その負担感を緩和・除去することで安心して子育てができるようにしようとしている。
基本的な施策として固定的な役割分業や職場優先の企業風土の是正として
 ♦職場における性別役割分担の是正や男女の雇用機会均等の確保
 ♦家庭における男女共同参画に係わる広報・啓発活動
 ♦農山漁村における男女共同参画の推進
 ♦男女共同参画に関する学習の推進など、男女共同参画社会の形成の促進
 ♦個人のライフスタイルの選択に中立的な社会制度の検討
また職場優先の企業風土の是正としては
 ♦国民的キャンペーンの実施
などなど。
要は女性が如何に過去虐げられてきたか、今なお差別に苦しんでいる女性をどう救うかのような時代錯誤を伺わせる。ウーマンリブ華やかなりし70年代の頃、彼女らがどんなに叫んでも、敗戦後生まれた女性厚遇の生理休暇など不要(必要な女性も多くいるのを承知で述べるが、この特権を悪用した女性は掃いて捨てる数出た。ずる休み、旅行に、遊びに、逢い引きに、28日周期を無視した月に2回などはざらであった)や、力仕事させろ、夜間勤務につかせろ、残業させろ、日祭日出勤させろと云った要求は誰も、何処からも一切出なかった。この時代男は血みどろになって働いていた。女性は厚遇された職場環境の中にいた。女性は職場の花であれば良かった。多くお茶汲みをさせられていた時代だ。そのためにウーマンリブも生まれ、お茶汲みだけが女の仕事か!となって成長した。

今、言葉はジェンダーだ、性差だと言葉だけは変わったが女性の社会進出に反比例して家族が失われていく危機感を持つ。子どもが生まれても乳ばなれもしない内に母親は託児所(私は小荷物一時預所と呼ぶ)の他人に我が子を任す。当然子どもは母親の乳房の温もりを知らず、肌を伝わって来る鼓動を聞いて心安らぐこともなく、スキンシップの多くの時間を断絶させられて育つ。言葉を発せられるようになると同時に携帯電話を持たせ、顔を見ることもなくする会話で事足れりとする。経済観念のない子どもの電話をチェックすることもない。これでもか、これでもかと要求は高くなる。

皆が望んでいるような要求を、諸手当を獲得したいのなら、課税(真っ先に所得税、消費税等々)率のアップに反対せず、将来の生活の不安を取り除くことを考えるべきだ。全ては国に金があって可能なことだから。しかし、これには今までのような税金の無駄遣いをさせない国民の管理・監視システムを確立しておく必要はあるが。

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2005年12月23日 (金)

無能大統領と、・・

アメリカではブッシュの人気がどんどん下がっている。
最近10人のアメリカ大統領の中で不人気なのはブッシュで「一番嫌い」との答えが43%にも達した。サンフランシスコの調査会社ズームラングが行った世論調査の結果を16日に公表した。
最も人気が高かったのはケネディで好感度26%、次いでクリントン25%、レーガン23%の順だった。
ブッシュが嫌われたのは、ほかの前、元大統領にも同じ質問をしているが、それらのどの質問に対しても一位になっている次の内容だ。11月に、全米662人(選出基準不明)を対象に行われた結果「戦争好き」「景気悪化」「無能」の各項目でトップに選ばれた。

ニューヨークのテロをオサマビンラディンの仕業と即断した彼は殺戮兵器をたずさえて軍隊を派遣した。ところが側近らしき人物は捉えても、当の本人は杳として行方を掴むこともできず、何度にも亙る挑発ともとれる画像を流され、4年以上経過した今日も手も足も出せない状況に追い込まれたままだ。そこで彼は鉾先を当時残虐非道と報道されていた他国へ世界の目を向けさせる作戦に出た。イラクのフセインへ突如として攻撃を仕掛けたのだ。始めから企んでいたことかどうかわからないが、参戦国を強引に募り、とんでもない爆撃を仕掛け、フセインを捕らえることに成功した。完全に世界の目をオサマビンラディンからフセインに向けさせ、ニューヨークのテロは単に9.11の数字だけになって時間は過ぎ、忘れ去られ、空き地になった土地がぽっかりと目立つだけだ。今にニューヨークを訪れる観光の目玉にもなりかねない。

おまけにイラクからは大量破壊兵器は見つからなかった。他国への侵略に近いアメリカのイラク進出に大義名分を見い出せない国々が1国、2国とイラクから去ったがブッシュから離れられない小泉は、またも自衛隊の一年の派遣延長を決めて媚びを売った。イラクへの援助を売り物に、狙っているのは自衛隊の軍隊化だ。既成事実を積み上げて憲法を無視した先輩首相達が拵えた自衛隊が現実にそぐわない、というのが根拠になる。続いては目を北に向けさせ、中国や北朝鮮の軍事費を云い、テポドンをちらつかせ、仮想敵を声高に叫び、国民を恐怖に陥れる。それが米ソ冷戦で成功しなかったことから何も学んでいない。ブッシュは何時になったら当面の敵だったオサマビンラディンを捕まえることができるのだろう。引くに引けなくなって捕まえたフセインが大物だったことで、どうやら面子を保っているようなものの、作戦としては完全な失敗だ。戦争好きは言わずもがな無能と呼ばれても納得するしかないだろう。

類は友を呼ぶ、ブッシュも小泉もどちらも哲学を持たない情けない人間だ。

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2005年12月22日 (木)

どうでもいい話

年末のNHK紅白歌番組の歌手と歌の発表があった。
元々企画が変だったのか、「スキウタ」100曲から選ばれたのはたったの23曲。久し振りに誰もが聞きたい、世代を越えた歌が選ばれるかと少しは期待したが、結果はやはりと云うべきか殆どが少年少女向けの歌にとどまった。恐らく会場は聞くこともまともにできない黄色い声の歓声で埋まるのだろう。一年に一回のお祭り騒ぎだ、何も目くじら立てることもない。チャンネルは他の局に廻すだけですむ、何処も同じ穴の狢だが。

予定のプログラムを見て驚いた。この人たち皆んな本当に日本の歌手?嘘だろ?耳に聞いたことのある名前もあるが、7,8割は初めて聞く、見る名前、それも日本人じゃない名前。本当に日本の歌手?日本の曲?一人なのかグループなのかも知らない横文字の名前。何故そうなのかも解らない横文字の歌。本当に日本の人?歌?
中には余りの気持ち悪さに名前を目で確認した蚊の泣くような裏声でしか歌えない男性歌手、何でもこの歌手の母親も歌手だそうな。こいつの歌だけは2度と耳にしたくない。寒気がして来る。彼を代表にして日本の現代の男性歌手と呼ばれている連中、やはり何でもないのにやたら裏声を出す。じっとして聴けない、ぶるぶると背中から寒気が襲う。聞きたくないのに、コマーシャルで聞かせられ、チャンネルの合間に飛び込んで来る。

歌手のレベルはどうでもいいレベル、以前、レコード大賞をもらった日本歌謡史でもダントツに下手な若手男性歌手が出た(例のコロッケの得意の物真似の対象になっている)。裏金を山と積んだ事務所のお陰だ、彼はそれを知ってか知らずにか、俺は大物だ!と嘯いて業界から長い間干された。今もちょっと出(で)している惨めなタレントだ。それほど日本の歌手のレベルは低くなっている。歌手になる訓練も碌にしていないから出ない声を裏声でやっと誤魔化す。特に若手の男性に多いが、大人になり切らない声のビジュアルだけでテレビに出て来る。ところがこれが現代の少女には受けているところとなっている。歌はどうでもいい、ただ可愛いければそれで良し、とされる。ますます低いレベルの歌手(到底歌手とは呼べないレベルで)が、トイレで、風呂場で口ずさむ程度の鼻歌を聞かすことになる。女の子だけはキャーキャーと騒ぐ。

紅白がここまで低いレベルで埋まっているとは云わないが、せめて日本語で歌える歌手を選んで欲しい。横文字かぶれの西洋もどきの歌しか歌えない歌手ごときは出なくていい。日本人なら自分の名前ぐらい日本語を名のれ。

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MOTTAINAI(2)

このところ頻りに毎日新聞の読者投書で「もったいない」に関する内容のものが続いている。大きくはお役人の無駄遣いから小はチラシ紙のメモに利用まで。裏が白紙のチラシがメモに利用されていることの多いことに気がつく。家計の足しにと水道料金を、電気代を、毎日の惣菜のやり繰りにと、勿体無い精神で節約をしている家庭は多い。

ところがもう一方で本当に無駄な消費をしているのが日本という国だ。“もう幾つ寝るとお正月、・・・”子どもたちの夢を誘う軽快なリズムは、今は何処へ行っても賑やかな、ジングルベルに取って変わられた。デパート、スーパー、商店街、家庭の中にまで入り込んだ。子どもたちにはクリスマスケーキ、プレゼント、若者には豪華が自慢のホテルとアルコールとお定まりの一日が来る。しかし、これだけではない、正月は正月で子どもにはお年玉、大人はやはりここれも酒。お年玉の習慣のない西洋の子どもたちに比べれば日本の子どもたちは2倍に恵まれている。贅沢過ぎるほどだ。

ところが今朝(12/22)の紙面に『日本のサンタはケチ?』と記事がでた。プレゼント調査だという。
世界的な経済の回復を反映して、プレゼントの平均予算は各国とも昨年を上回っているが、日本は2年連続して最低額であった。この違いの大きな原因はキリスト教国とそうでない日本の基本的なベースにあったようだ。日本以外の国ではプレゼントの対象が配偶者やパートナー、子ども、その他の家族、両親、友人、孫、仕事関係と幅広いが、日本では現役世代の親が子ども、退職者は孫に殆ど限られているのだそうだ。宗教と結びついた習慣と、物真似に過ぎない国の決定的な違いと見る。

この違いはプレゼントの金額にはっきりと現れていて、アクサ(本社・仏パリ)が世界11ヶ国(米・英・加・スペイン・伊・豪・仏・独・ベルギー・香港・日本)25歳〜75歳を現役と退職者の2グループに分けた6,915人の回答の結果にはっきりしている。
(05年7月のレート換算)
 1位 アメリカで15万2300円、 2位 イギリスで12万円
となっていて日本は 7位 1万8,156円だった。これでも驚くことに日本の金額は昨年の43%(7,467円)もアップしたことになる。子どもを甘やかすことに掛けては何処の国にも負けない良い例だ。子どもに与える金額としてはどう考えても多過ぎる。この記事を書いているのは女性記者、いかにもそれらしい見出しを付けたものだ『日本のサンタはケチ?』と。

話は勿体無いだった。
クリスマスが近づくと日本中が浮かれ出す。正統派のクリスマス・ソングからジャズに、童謡風、を交えて騒音が絶えまなく耳に飛び込む。中には吐き気を催すような編曲にしたものまである。小から大まで所狭しと並べられる商品の数々、とここまでは未だ良い。勿体無いのはこれから書くこと。
テレビ、雑誌、新聞がきれいきれいと褒めまくる電燭(イルミネーションと云わないとバカにされるか)。幾つの電球が使われているか、何メートルの高さか、あるいは長さか、と無駄を勿体無いを競う。
東京駅近くの東京ミレナリオは今年が最後になるが、横浜の340メートル、250万個の電球を使ったもの、六本木ヒルズの37万個、広島の一つの山全体を覆うもの(これなど、阿呆が一万円出せば夜中まで点灯してくれることになっている)や、札幌、仙台、原宿など(そう、【など】だよ)このほかにも日本中にはどれだけの数の無駄が散らばっているのだろうか。このため日本古来の正月行事には殆ど金をかけず、かける日数も足りなくなり、ますます日本は遠くなる。

街頭では貧しい国の貧しい人々への援助の呼び掛けが喧しいが、振り向く人は殆どいず、人々が振り向くのはネオンにシャンデリアの寂しい日本の風景にだけ。

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2005年12月21日 (水)

酔っぱらい「サンタ」

昨日のブログがアルコールで終わったので序でに書き留める。
外国の話。それはニュージーランド最大の都市、オークランドの中心部で起こった。17日午後、サンタクロースの衣装に身を包んだ酔っ払い約40人が街の商店街を練り歩き、手当りしだいに物を壊して歩いたという。深酒して己を忘れるには一週間速いと思うのだが、どこの国でも酒飲みにはそんなこと関係ないと見える。

商店には「メリー・クリスマス」と良云いながら集団で押し入って勝手にビールを飲み、大暴れをしたあげく警備員に暴行していた。うち3人が秩序妨害の容疑で逮捕された。また酔っぱらい集団は街なかのゴミ箱をひっくり返したり、酒壜を割ったりを続けカジノのロビーに飾ってあった巨大なクリスマス・ツリーまで破壊。

彼らは「クリスマスの商業化阻止」を目指している「サンターキー」運動に参加していた、と話した。日本と違って彼らの信仰は英国国教会が24%、カトリック15%、プロテスタント3%のキリスト教(全宗派合計約60%)を信奉する人たちだ。同時に先住民に他所もの(Pakeha パケハ:意味は白人)と呼ばれる植民地時代からの移民子孫のヨーロッパ系が80%を占めている国だ。当然多くの人はクリスマスを静かな気分で過ごしたいはずだ。ところが経済の成長とともに観光事業にも力が入るとどうしても商業化するのは観光立国では常のことだ。

いにしえの仏教国日本も60年前の敗戦とともに無信仰の国民となり、結婚式だけには神様を利用し、仏さまは人が人でなくなった骸(むくろ)の時にだけ利用する。新たな年の正月は他所の国からやってきたキリストさまに先回りされて道を譲り、門松を立て、羽子板や独楽で遊ぶ女の子や男の子も滅多に姿を見なくなった。その癖お雑煮、正月料理だけはきちんと頂きなさる。一年のけじめを一月元旦に置いた人生の刻みをなくしてからは日本人はそのけじめを失ったようだ。特に何でも愉しみに代え、酒を飲む日にしてしてしまう日本人はクリスマス・イヴこそ恰好の羽目を外す夜となって、街中が酒臭くなり、性モラルを持たなくなった若者たちの出来ちゃった婚の儀式の日にもなる。

ニュージーランドで酔っぱらって暴れた集団は、恐らくは日本に似てのそのような風潮を心配してのことだろう。キリスト教徒でもなく、信仰心篤い仏教徒とも言えない小生には理解出来かねるが、日本の成人式で酒を喰らって暴れるバカ新成人と比べれば何がしかの同情を注ぎたい。日常の中に毎日曜日の教会での祈りがあり、結婚式は教会で誓い、子どもが生まれると祈り、勿論人の死も同じキリストに祈りを捧げる。信仰心篤ければ篤いほどそのような商業主義に踊らされることに対する怒りは激しくなるだろう。今度の酔っぱらい集団の行為は決して褒められるものではないが、同じ酒でも百薬の長の言い訳で飲む酒と違って義憤の為せる行為だろう。これも言い逃れ好き、無責任の日本流に云えば酒の上のこと、笑って見逃せ、となる。

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2005年12月20日 (火)

ボリビア大統領選挙

毎日新聞(19/20)朝刊から

18日、反米左派「社会主義運動」の頭首モラレス氏が当選し、勝利宣言を行った。
アメリカ国務省の報道官は投票前に「モラレス候補が勝利すればアメリカはボリビアとの関係を再考する」と懸念を示していた。アメリカCNNはモラレス候補の躍進を「アメリカにとっての『悪夢』が選挙をリード」と伝えていた。得票数が50%を越える圧倒的な支持を獲得し、相手候補のキロガ氏は「モラレス氏の勝利を祝う」との敗北宣言を出している。氏はキューバのカストロ国家評議会議長やベネスエラのチャベス大統領の支援で反米色を明確に表明し、コロンビア、ペルー、ボリビアでの米軍によるコカノキ栽培の撲滅作戦の撤退を公約として打ち出していた。

モラレス氏は2006年1月22日に就任するが、アイマラ系先住民のモラレス氏はコカノキ栽培農民の代表として政治運動を始め、02年の大統領選挙の際には2位になっている。現在の天然ガス開発に関しては再国有化を求めて先住民運動の先頭にたっていた。氏は1825年にスペインから独立後初めての先住民の大統領となる。植民地時代は銀が、9世紀にはゴムが、20世紀に入っては錫であった主要産業から現在、天然ガスが経済再生の原動力となっているが、国内の主要都市の半分近くが標高2000m〜4000mに位置していて、アンデスの痩せた高地では主要産業がコカノキの栽培で生計を維持する農民が多くなる。生産されたその多くが北米に流れるドラッグに悩むアメリカは、1998年資金援助を行うことでコカ根絶プログラム「尊厳のための行動計画(Plan Dignidad)]の実施とともに、政府の抑圧は激しくなった。アメリカの訓練を受けたボリビアの軍は、主たる収入源を死守しようとするコカノキ栽培農家と衝突することになり、武装した兵士たたちが計画に抗議する人たちに向けて発砲し緊迫の度を増していた。

約880万人のボリビアの人口構成は、先住民55%、混血32%、白人15%だが、政権や議会は今も欧州系白人が主体になっている。このため先住民は「長年搾取されてきた」との思いが強く、選挙でのモラレス氏の得票の伸びを加速させる要因になったと見られている。

以上私見を交えながら新聞記事を追い掛けたが、やはり連日取り上げる恐らくは若い現代青年がしたため、推敲し、構成したであろう記事になった。随所に意味の通じない『など』が接続詞のように煩わしく挟まれて文章が続いて行く。「とか」同様日常会話で耳に馴染んでしまって言葉本来の意味を理解できないままに活字にしている。或いは読む側もさして気にしていないのかも知れないが、国語の基本の問題だと思っている。

ここで選挙の味方になったともとれるコカノキの栽培について書いておく。
コカ葉とはコカ潅木(エリドロックシロン」属のすべての植物をいう)の葉をいう。もともとは高山病予防のために使用されて、先住民の文化と民間薬において重要な役割を果たしてきたものである。コカから抽出したアルカロイドを精製して麻薬である習慣性化合物のコカインが作られる。これは世界の大抵の国の法律で禁止されている薬物である。
しかし、コカ葉をライムや灰とともに嚼むと活性成分が少量遊離されて強壮剤となり、寒さ、疲労、栄養不足を緩和し、長時間元気に働くことができるという。またコカの葉は吐き気、嘔吐、高山病の回復を促進するために使われ、コカインも合法的には局所麻酔薬として通常の医療に使用されている。

余談になるが、専ら“百薬の長(だが万病の元)”ともてはやされるアルコールは、ヘロイン、コカイン、覚醒剤、マリファナ、LSDなどと比較した場合、その薬物性はコカインや覚醒剤、マリファアナ以上のところにあるのだ。【WHO:世界保健機関の発表】
(アルコールの依存性)
 精神依存 ドラッグ無しではいられない気持ちになる
 身体依存 身体がドラッグ無しではいられなくなる
 耐性形成 ドラッグの量がどんどん増加する

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2005年12月19日 (月)

見出しの言葉

毎日新聞(12/18)から

先ず使用されている言葉に驚いた。それは福岡の中学で起こった。昭和一桁以上の人間には忌わしい響きを持つ言葉『召集令状』。これを生徒に発した、と書いてある。大きな活字で 生徒に召集令状 続いて「いかない」回答に「非国民」

こう書かれていれば、福岡の中学校で、生徒に召集を掛けて、何処へか‘いかない’と答えた生徒が先生から「非国民」呼ばわりされたものと解釈する。今どき召集令状も可笑しいし、非国民呼ばわりも可笑しい。記事を読み進めて行ってやっと内容が朧げに分って来た。自分の頭が可笑しいのかとも思ったりしたが、やはり表現が分かりにくい。昨日の「間の抜けた新聞記事」もそうだが、文脈が変だ。

社会科の担任教諭(48)が授業で「臨時召集令状」を二年生全員218人に配って戦争参加の意志を聞き、「いかない」と回答した女子生徒に「非国民」と書いて返却していたことが分かった。 なおも読み進めて行く。探偵小説(推理小説--‘たんていしょうせつ’では短艇小雪となって〈ことえり〉の相変わらずのバカさ加減がむき出しになった)じゃあるまいし、簡潔な見出しが考えられないのだろうか。

例えば、生徒に召集令状 を→ 召集令状を読ませ とするだけで中学校の出来事であることが分っているのだから読み手も理解が早い。

教諭は10月27、31日の授業で「第二次世界大戦とアジア」を行った。その授業で副教材の「臨時召集令状」をコピーし、裏面に戦争に「いく」「いかない」のどちらかを丸で囲ませ、その理由を記入させた。選択で意思表示をしたのは218人中208人で、白紙が10人。現今流行のジェンダーらしい、女子生徒にも同じ質問を出している。(外国での女性兵士、日本でも女性自衛官はいるが)白紙が10人だけとは驚きだが、女子生徒が何人の学校なんだろうか。勝手に男女半々と推定して100人からなる女性兵士が誕生することになるが、教諭は喜んだのだろうか。男子生徒の考えはどうだったのだろうか、何一つ判らない。「いく」「いかない」の比率はどうなっちたのだろう、記者は取材で質問しなかったのだろうか。

今、今回のような設問をする意味は何だろう、敗戦後60年、一年中下らないドラマから真剣に戦争を捉え直す論文が溢れたが、反省はいいが、2005年の価値基準で判断することの危険性を十分認識しているのだろうか。今だから言える言葉、疑問、反論、拒否は60年の昔には到底当てはまるものではない。「非国民」と書いた教諭の頭の中はどうなっているのだろうか。女子生徒がいかないと書いたことは当然のことで、当時は戦争は男のするもの、国を護り、死ぬことは男の本懐(好むと好まざると)とし、女の出る幕ではなかった。女は男の居なくなった留守を守り、空しいことと知りつつ男の帰りを待った。「いかない」と回答した女生徒のどこが非国民なのか。

女子生徒の書いた理由はこうだ。
「戦いたくないし死にたくないから。あと人を殺したくないから」これに対し、教諭は赤ボールペンで「X」印を付け「非国民」と書き入れて返した。当然女子生徒はショックを受けたし、それを知った女子生徒の保護者らは「社会科の教諭を代えて欲しい」と話している。

町教育委員は、非国民と書いたことについて、「確認できず分らない」との回答。なぜ確認できないのか、証拠はいくらでもあるだろう、取材した記者は何を読者に伝えたいのか一向に理解できない。確認できない、と云った上で授業の狙いを
①召集令状の持つ意味を理解させる
②生徒の歴史認識を掌握する
などとしており、「決して思想信条を調べるものではない」と説明している。と結んでいる。


ここまで新聞記者のレベルは低いのか、もっと突っ込んだ取材がどうしてできないのだろう。教諭が何を求め、何を教えたいのか、教諭自身は召集令状をどう理解しているのか、戦争にいくか、いかないかが子どもたちの心に何を考えさせ、最終的にどちらかに丸をつけさせたのか、教諭が本質的には戦争をどう見ているのか、歴史認識が全く欠けている教諭、この教諭に教えられる子どもたちは、いずれ小泉首相のような薄っぺらな歴史観、戦争認識しか持てない人間になるんだろう。

難関をくぐり抜けて来たはずの新聞記者諸君、国語力をしっかり養って、もっと勉強してほしい。


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2005年12月18日 (日)

間の抜けた話

16日、午後1時50分ごろ、東京都葛飾区小菅1の水路(幅8.5メートル、水深約50センチ)に「沢山の動物の頭が沈んでいて気味が悪い」と近くの交番に通行人から通報があった。駆けつけた警視庁亀有署員が首から切断された犬の頭部29個を確認し、同署に回収した。事件の前触れかと近所で大騒ぎになったらしいが、夜になって犬の肉を扱う食料輸入業者の男性(83)が、「自分が捨てた」と同署に連絡。廃棄物違法投棄とみて事情を聞いている。

◆この食材輸入業者は、解体した犬の肉を中国などから輸入し、韓国系などの料理店に卸していた。

頭を家庭ごみと一緒に捨てた際、近所から苦情を受けたと云い、毎日新聞の取材に「処分に困って水路に捨てた」と話した。二ヶ月前の夜中、纏めて段ボール函に入れて運んだものらしい。(記者2名の署名入り)

現在の新聞記者には国語の表現力がこの程度の人間が混じっているのだろうか?余りのお粗末に唖然とする。二人が名前を明記しての小さな記事の中に、幼稚なミスが二つも重なっている。私が◆印を付した文章は、現在の若者たちが無神経に使っている代表的な表現だ。犬の肉を輸入した国は一つなのに「など」と使う、続いて料理店が韓国系だけの表記なのに「など」と使う。輸入した国が中国の他にあって始めて「など」で列記可能になるんだ。料理店も同じ、韓国系だけでどうして「など」が使用できるのだろう。

新聞社には入社試験もあるだろう。《会話力の低下、表現力の低下、発音の悪さ(「で」が「でぁ」に、「て」が「てぁ」になる『など』活舌も明確さを欠く)“など”の使用法のお手本だよ。》がそのまま文章に出る。それともう一つ「とか」も同じ、複数のものを比較したり、並記したりする時の言葉だが、無闇矢鱈に使用されて耳障りだ。新聞記者とは少なくとも最高学府を出て来た頭脳の持ち主だと思いたい、それがこの程度の表現力ではこの先の新聞社は危なくなる。

間の抜けた話の2つ目。
人生経験豊富なご老人、日本で犬の肉を食べさせる店がそんなには数多くはないことを知っているだろう。近所には該当する店があるのは知られている。中国、香港、韓国では食文化としてそれらの動物を食するのは普通のことだと思うが、どちらかと云えば日本人には珍しい食べ物だ。店の数も多くはない、聞き込みを始めれば苦もなく探し当てることが可能だ。それに大量に一つ所に纏めて捨てればそれを必要としている職業もすぐに判る。犯罪性を考えてもブリーダーの数も限られる、殺人鬼ならぬ殺犬鬼だとしてもあっという間に掴まる。これ以上間の抜けた話はないだろう。

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2005年12月17日 (土)

小中学生の肥満対策

今、小中学生の肥満の増大が云われている。
自民党 NEWS PACKETによる。
昭和57年度と比較して2004年度は、小学6年生で7.1%から10.8%に。
勿論子どもたちの食生活は第1に家庭の問題ですが、家庭だけでは背負い切れないのも事実です、と書いているが、家庭以外に子供達の食事管理をする場所はどこだと云うのだろう。ジェンダーフリーの旗を掲げて女性の職場進出を奨める政策では専業主婦はますます肩身を狭くし、数を減らし朝食どころか乳房からの母乳にありつけず、スキンシップのない乳飲み子さえ増えることになる。社会に出てからは朝食を、昼食を或いは夜食を自分で選択して口にするしないは可能だが、義務教育の環境の中での食事管理は親以外の誰がするのか。学校給食を除けば当然毎日の朝、夜の食事を与えるのは親の責任だ。高校生にもなれば親の手を借りなくても料理ぐらい自分でできる。栄養バランスも考えて材料の取捨選択は可能な筈だ。

私の子どもの頃は目覚めるのは母が台所で材料を刻む包丁で俎をたたくリズミックな音だった。これが所謂「お袋の味」というやつだ。子どもはそれを見よう見まねで学習して覚えて行った。現在の子どもたちはそのような母親の姿を目にすることが少なくなっている。共稼ぎが浸透して台所に立つ母の姿を見ることが少なくなってしまった。見よう見まねも不可能になって、テレビ局の、女性を蔑むような番組の中で包丁も使えない、調味料に何を使うか、その匙加減すら知らない若い女性が増えて物笑いにされている。しかし、そのことが恥ずかしいことと認識する女性もまたいないし、その必要もないと言い切る女性もいる。

一方文部科学省の調査によると、現在「肥満」とされる小中学生は20年前の約1,5倍に増加したとされる。厚生労働省は2010年度までに肥満の小中学生を7%以下にしたいと考えていいる、という。
子供たちの肥満はローレル指数で表すのだが、これは身長と体重から計算するもので160以上で肥満と云われている。これらは豊かな食生活や運動不足からくるものだが、このままだと40歳を越えるころには肥満によるリスクは非常に高くなる。現在の子どもたちにも動脈硬化や糖尿病などの若年性成人病が広がりつつある。

厚生労働省は生活習慣病対策として、大人になってからでは遅過ぎるとの見地から子どもの肥満対策に新たに取組む方針を決定した。小中学生のときから栄養バランスのとれた食事を摂ることが施策の柱となる。来年度から5都道府県の10ケ所をモデル地区に選定する予定になっている。日本には古来から「一汁三菜」と呼ぶ朝食の献立がある。ご飯に汁もの、それに三種類のおかずが基本になったものだ。一人ずつ用意され、食べ過ぎることもなく、沢山の材料の栄養のバランスもよく、(温泉ブームの昨今日本旅館の朝食を思い出せばいい)先ず肥満の心配はない。ところがアメリカナイズされた日本の家庭の朝食とは逆に、海の向こうでは日本食の良さが認識されもてはやされている、と聞く。

昔からそうだが、海外の美術館、博物館に展示されている日本の芸術品。典型的なものに浮世絵、錦絵がある、その昔、海外へ発送する壊れ易い物品の包装紙として特にフランスへ向けて海を越えて行った。当時のフランスは芸術の都として世界に君臨していた。そのフランス人、芸術家たちがその包装紙を開いて驚嘆した。多くの芸術家が日本に憧れ、印象派の画家たちは自分の作品の中に浮世絵を取り入れ、構図を真似、色を真似、写楽のデフォルメを学んだ。日本の国内では屑同然に扱われていた作品が、フランスと云わずアメリカに、イギリスに当時日本では珍しかったギヤマン(ただのガラス製品だ)などとも交換されてどっと流出した。北斎の木版画の版木など大量にアメリカの美術館で発見され日本は垂涎の眼で見ている有り様だ。気がついた時には殆ど手遅れの状態になっていた。他所の国、他所の人に良さを見い出されないと、日本人は自らの良さを認めたがらない。食生活においても菜食中心であった日本人が現在肉食動物のように肉を喰っている。

食生活の乱れに加わって運動不足がある。家の中に燻ってゲームやパソコンと睨めっこ。確かに現在の物騒な世情を考えれば外に出るのも命がけにはなるだろうが、太陽の光を浴びる時間は極端なほど短い。家の中でなければ塾の中。子どもたちの体力に関して立ち幅跳びに関しては20年前の女子の跳躍力に及ばないところまで弱体になっているのだそうだ。

テレビに写る物食う番組で口を動かす運動不足の「でぶタレント」たち、故人になったが渡辺文雄が初代の「食いしんぼう万歳」のスマートな歴代タレントが懐かしい。クローズアップされる醜いでぶたち、彼ら以上に吐き気を催す映像は歌舞伎の女形ぐらいだろう。少年たちの軟弱な容姿と並んでブラウン管(我が家のテレビは未だにアナログだ)が腐るような気分になる「おかま」と並ぶ醜悪な画面だ。肥らないと生きていけない関取の世界だが、引退後は皆見違えるようにスマートになる。ふやけて痩せるのではない、人一倍若い衆との鍛練があるから肥っていてもでぶじゃない。

世の親たち、己の子があのような醜悪な物体にならないように食事管理をして欲しい。子どもたちの食事管理はあなた達の責任だから。


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2005年12月16日 (金)

ジェンダーって何?

毎日新聞(12/14)から
猪口邦子男女共同参画担当相の言が載っている。『その「ジェンダー」間違ってます』全く理解できない言葉に戸惑った。勿論当方の不勉強だろう。老骨に鞭打って少しでも理解しようと多少の参考資料を当たってみた。ますます難しくて判らない。

先ずは「ジェンダー」という言葉、根っからの横文字嫌いの小生には知識を一つ増やす毎にますます泥沼に落ち込むことになった。この年(74歳)になって知らなくても良いことかも知れないがやはり気になる。
「ジェンダー」とは
 ⒈文法における性(Grammaticai Sex)のこと
 ⒉生物学的性に対する社会、文化的性
をいうらしく、後天的、身体的、生物学的性別を示すセックス(Sex)に対し、後天的、社会的な文化的性別のことをジェンダー(Gender)を云うとされている。

『定義は文脈や使った場面によって異なる場合がある。また、「ジェンダーは、セックスに基づいている」という考えに基づく「どこまでがセックスでどこまでがジェンダーなのか」という疑問や、逆に「Sex is Gender(=生物学的性と呼ばれているものもまた社会や文化が作り出したものである)」とする意見も出ており、セックスとジェンダーの境界を簡単に定義づけることはできない』とする意見もある。

難しく云わなくても「ジェンダー」とは社会的、文化的、心理的な性差(別)のことだろう。

男女共同参画基本法が平成11年6月23日に、計画基本方針が語呂も宜しくおいちに、おいちにの平成12年12月12日に閣議で決定された。

内閣府によると、「ジェンダーフリー」の名の下に小中学校などで、運動会の騎馬戦を男女混合に変えたり、トイレの表示を男女同一にするほか、男女同室での着替えや宿泊を行うケースも。これらのことについて猪口氏は「性差を尊重するはずが、男女を同一にしなければいけないと誤解しているようだ、現状は本来のジェンダーの概念とは異なっている」と話す。また、政府の見解では「性差や男らしさ女らしさを否定するようなジェンダーフリーは男女共同参画の理念ではない」としている。

因に教育現場では何が行われているか
♦クラス名簿を男女混合にする
  (男が先だろうと後だろうと何が問題か、これを差別と云うのなら学期ごとに後先を入れ替えたり、進級ごとに入れ替えたりすることも可能だ。それに昨今名前だけでは男性・女性の判断ができない名が多くなっている。昔のような太郎、花子なら分り易いが、例えば玉緒は男女どちらにもある)
♦女子のブルマーや男子の短パンを廃止して男女兼用のハーフパンツにする
  (パンツまでが差別の対象になるとは驚きだ。男らしさ、女らしさがはっきりするのに)
♦男女の呼称を「さん」に統一する
  (よくもこのようなバカな考えが浮かぶものだ。男の子は「くん」で何故いけないのか。一時女子教師が男の子を「くん」呼びした時代もあったが定着しないままに過ぎた。男だって「さん」で呼ぶことは幾らでもある。下級生が上級生を「くん」とは呼ばない、「○○さん」だ。逆に下級生に対しては呼び捨てが多い。或いは同級生や仲間同士では「さん」も「くん」もない、これも呼び捨てだ。女の子同士の間でも呼び捨てすることは多い。私の育った時代は教員は生徒におもねることなど全くなかった。男女を問わず呼び捨てだ。今だってこれでいい、呼び捨てのどこに不都合があるのか。民主主義が声高に叫ばれて逆に道理がひそひそと囁かれる時代になっている)
♦運動会の騎馬戦を男女混合にする
 (馬鹿もここまでやるか!男と女は全く異なる動物だ。力比べでは女は男に太刀打ち出来ないのが当たり前だ。(勿論男の比ではない女丈夫と云われる人もいるが)これから後列記する全てに該当することだが男女は平等ではないのだ。男の役割、女の性差は厳然として存在する)
♦男女児童、生徒を同室で着替えさせる
♦身体検査(脱衣)を男女児童、生徒混合で行う
 (「異性に裸を見られること、異性の裸を見ることは恥ずかしいことではない。恥ずかしいと思うこと、云うことこそ可笑しいと指導される」との現場の声がある。恥ずかしいと思わない教師こそ恥ずかしい、これこそ世に云う鉄面皮だ。大人の目線でしか物事を捕えられない(社会的、文化的、心理的に毒された)変態だろう。裸を見られることで生計を立てている(立てざるを得ない)職業もあるが、生育の早い現代っ子たち、第1次性徴、第2次性徴の年齢の女子から女らしさを奪う権利は大人にはない)
♦子どもに「がんばれ」と声を掛けると保育士から「ジェンダーフリーに反する」と云われる
 (少なくとも「ジェンダー」に理解不足の私でも子どもを励ますことに反則行為があるとは思わないし、性差別に繋がる要因が潜在しているとは考えない)
♦女の子に「さくら」「美咲」「優香」などの愛らしい名前をつけていませんか?と否定的に評価される
 (ばかもの!親が可愛い子に可愛い名前をつけるのに誰に遠慮がいるものか。昔から親は子どもの将来の幸せを願って幾夜も寝ずに考えるのが子どもの名前だ。よその他人に兎や角云われる筋合いのものではないし、他人が物言う権利などない。まして「ジェンダー」とは何の関係もない)
♦「鯉のぼり」「雛祭り」などの文化的行事は駄目とされる
 (もともと日本人には関係の薄いクリスマスにうつつを抜かすことは良いことか。無信仰の日本人が男と女の明確な別のあるものにしてっしまったバレンタインデー、ホワイトデーなどの気狂いじみた行事はいいのだろうか。つい先日はカボチャの化け物もスーパーには並んだ。外国の物まねは許されるのか。鯉のぼり、雛まつりのどこがジェンダーなのか教えて欲しい。日本古来からある男の子の武者人形、雛まつりのぼんぼりに赤い毛氈(もうせん)、男らしく、女らしい子どもの行事を無くす必要などある筈がない)
♦ロッカーや下駄箱の男女別の禁止
 (勝手にすればいい、これがジェンダーだと思うなら)
♦「男女」の名詞を「女男」に変える
 (一体何と読む、「にょなん」「じょなん」「じょだん」「めおとこ」「おんなおとこ」よくもこんなこと考え付くものだ。「男女」が男尊女卑なら「女男」は女尊男卑になる。こんな道理が理解出来ないとは開いた口が塞がらない。これなど典型的なフェミニズムの立場からの主張でしかないだろう。「おんなおとこ」なんて読んだら「おかま」連中が喜ぶかも)
♦「ジェンダーチェック」を生徒に行い、ジェンダーフリーを理解していないと「化石」と認定される
 (理解しないことが普通だろう、上に書いたようなことがジェンダーだと思わせることは不可能ではないか、どのような答えを要求しているのか判らないが、こちらは「脳なし」の名が相応しい)

労働争議華やかなりし頃、平等と公平の違いが理解が出来ず、混乱を続けた時代があった。組合は全ての「労働者は平等」だと言い張り、仕事ができる人、成果を上げた人、努力する人も、出来ない人、成果の上がらない人、ぶらぶらの人も「平等に」を叫んだ。当然最低の仕事の出来ない人、成果の上がらない人と平等の賃金ではできる人も仕事する気を失う、出来ない人は一層だらだらの人になる。できる人はこれだけ頑張ったのに彼奴と同じ給料か、となって生産性は低下する。左翼に指導された労働組合が大手を振ってストライキをやった時代だ。

ジェンダーも差別と区別の違いが理解出来ず、全く同じ轍を踏もうとしているように見える。
平等とは個人の資質、能力、努力、成果に関係なく一定の規則(約束)どおりに遇するシステム
公平とは全ての人に対し、機会均等が与えられ、成果を上げたものが評価されるシステム

「ジェンダーフリー」とは男女平等をいうのではなく、男女は平等ではないということを云っている、と思うがまだまだよく理解出来ない。弱って来た“おつむ”にも理解できるように易しく教えて欲しい。

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2005年12月14日 (水)

1942(昭和17)年

小学校5年生、相変わらず教育勅語の書写は続いていた。卒業するまでに何枚書いただろうか。句読点もなく、濁点もない、カタカナと漢字で書かれた不思議なものであった。「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ・・・・云々」続いて「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦愛和シ朋友相信シ・・・」から始まる言葉は難解だったが、漢字を知るには叉とない手本になった。遵守、拳々服膺(けんけんふくよう)、天上無窮、謬(あやまら)ラス、悖(もと)ラス、御名御璽(ぎょめいぎょじ)などを毎日書き写していると自然に身についていった。

さて、この教育勅語の一文だが「父母に孝に・・・・朋友相信じ」は現在読んでも当然のことが書かれているのだが、勅語全文の中で解釈されると全く捉え方が違って来ることは否めない。何故ならこの言葉の後に続く文章に「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」とあり、これらすべてはいざという時には万世一系の天皇のために命を投げ出すことを遵守するための教育であった、と言えるからだ。

長引く中国の戦線に疲弊気味の国民は、前年暮のハワイ真珠湾攻撃による戦果に狂喜していた。続いて南方に転進した日本軍が次々にあげる戦果を各新聞は大見出しでその戦果を謳い、連日目にする米英撃滅の文字は国民の戦争参加への熱を煽り立てた。しかし、大勝利に酔う日本は、開戦4ヶ月にして早くもアメリカ軍の日本海から発進した爆撃機により、東京・大阪・名古屋・神戸などが初爆撃を受けることになった。

(その他の出来事)
 1月 日本軍がマニラを占領
 1月 ナチス幹部が欧州のユダヤ人1,100万人の絶滅を決定
 1月 日本軍がマレー半島ジョホール・バルを占領
 2月 英軍の降伏で日本軍はシンガポールを陥落させると、国は祝賀国民大会を開き、酒、お菓子、小豆などを各家庭に特配し、国民は勝利に酔った
 2月 ルーズベルトが日本人12万人余りを強制収容所に隔離することを決定
 2月 当時オランダ領東インド(スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスなど)のオランダ海軍を壊滅させ、制海権を握ると破竹の勢いでビルマのラングーンを攻め、スマトラを占領
 4月 18日、B25爆撃機16機が日本本土を初空襲
 5月 29日、『乱れ髪』の与謝野晶子が死去
 6月 太平洋戦争における日本軍の唯一アメリカ領土占領となったアリューシャン列島のキスカ島、アッツ島を占領
 8月 ドイツはスターリングラードを攻撃、市街戦を展開
 9月 アメリカのボーイング社がB29長距離爆撃機を完成。この時に作られたB29が3年後に日本本土に飛来、原子爆弾を投下した
11月 ソ連軍の反撃でドイツ軍がスターリングラードを退却
12月 東宝映画『ハワイ・マレー沖海戦』封切、(特撮は後に『ゴジラ』で名を馳せる円谷英二である)教員引率で児童全員が観覧した

開戦後1年も経たずに、早くも日本の戦況は芳しくなく、6月のハワイ近海で行われたミッドウェーの海戦では日本連合艦隊が大敗北していた。(大本営は国民には「我が方の損害は軽微なり」と発表)この海戦の敗北までは半年間の戦いに連戦連勝する日本軍を讃え、教師たちは海戦の敗北があった後も、子どもたちには神の国の勝利を信じ込ませようと躍起になっていた。彼らは後に日本国の敗戦(1945年)が来ると即座に主義を変え、豹変して口々に民主主義を唱えた。今時の教師たちの較べようもなく鉄面皮であったし、機を見るに敏であった。希望に燃え、男として国の為に尽くすことを教えられ、「男とは死ぬことと見つけたり」を本分として成長を続けていた。ところが瞬時にして先の見えない闇の中に放り込まれたのだ。信じるものを失っては手探りで一歩一歩進むしかなかった。自分が信じられるものを探すために。


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2005年12月13日 (火)

絵本「あらしのよるに」

毎日新聞(12/11)朝刊から
同じ出版者の他の絵本「まんげつのよるに」と同時に誌面のほぼ1面を使ってタイトルの「あらしのよるに」が宣伝されている。
以前ブログに書いたが、テレビ・コマーシャルでCGで描いたライオンとキリンの抱擁の稚拙な画面作りを取り上げたことがあったが、この絵本も全く同じことが言えるようだ。

大人がどんなに童心に帰っても、大人の演技でしかないことが分かっていない。赤ちゃんや幼い子どもをあやす母親にしろ父親にしろ、やはり大人が子どもの真似をしていることに間違いない。どんなに頑張ってみても生まれ変わらない限り大人は子どもに、まして赤ちゃんにはなれない。大人が想像する子どもであり、赤ちゃんでしかない。

この絵本についても言えることだ。ハラハラ、ドキドキ、〈オオカミとヤギの気になる友情〉或いは〈素直に信じられることのすばらしさ〉〈ピュアな友情と葛藤〉などシリーズが275万部を売っている大ベストセラーであることを宣伝している。本当にそうだろうか?

狼と山羊、自然の摂理の中では共に生きることなど絶対に不可能な動物だ。試しに一緒の檻に入れてみるが良い。一瞬のうちに山羊は骨だけになろだろう、或いは骨すら残らないだろう。ハラハラ、ドキドキなどすっ飛ぶ世界じゃないだろうか。童話の世界に夢や想像はつきものだ。だけど嘘は大人だけで良い、政治の世界だけで良い。子どもになったつもりでしかない心を自画自賛して欲しくない。

飼い、育てた牛を、豚を、食い、どう美味しいか、不味いかを云って殺した動物の味に舌鼓を打つ。そこには殺された動物への感謝も愛情もない。人間のためには殺されて当然の心しか持ち合わせていない人間に、子どもに愛情を教えることなどできる訳がない。食事の前に手を合せ、「頂きます」終われば「ご馳走さまでした」をする家族がどれほどあるか。なぜ手をあわせるのか、今は何でもすぐに嘲笑のさらし物にするが、昔の人は必ず子どもに教え育てた。「お米と云う字はね、八十八と書くだろう、それはお百姓さんが八十八回も手を掛けて育てたということだよ、だから1粒も残さないように食べるんだよ」と。今は親子一緒に食卓に就くことすらしない家族が圧倒的に多いだろう。それとも「うちはパン食だ」と麦だって同じだがそう云うかも知れない。

大人の欺瞞でしかないことを動物を主人公にすることでそれらしく見せる。しかし、成長した子どもはその嘘を必ず見抜く。

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2005年12月12日 (月)

南方戦没者遺骨収集

パプアニューギニア島の慰霊、遺骨収集については先に書いた。今回若い毎日新聞の記者が10月に、同島の遺骨集集団(厚生労働省職員が率いる収拾団8人と村人約30人)に同行して当時の野戦病院のあった土地での収拾作業に当たった。地中深く(凡そ1メートルの地下に眠っていた)掘り出された遺骨は触れただけで壊れるほどに痛み、肋骨は熱帯の暑さと60年以上になる経過の中で殆ど土と化している状態であったという。

海外戦没者の遺骨収集は1952年に始められ、240万柱のうち116万柱が残されている。海戦で艦とともに海底に沈んだ人たちも多く遺骨の収集は不可能だが、今も56万柱が残る遺骨の殆どは南方に集中している。遺骨は現地の人が偶然見つけて日本の慰霊巡拝団などを通して知らされることが多い。現場には何柱あるのかも判らず、手当りしだいの発掘になり、パプアニューギニアは土地への終着が強いところで収集を巡っての争いになったり、フィリピンではゲリラの勢力圏での収集は不可能であるという。

敗戦後60年が経った現在、この南方での遺骨収集事業の打ち切りが検討されている。尾辻秀久前厚労相は9月、南方の遺骨については今後3年間で集中的に情報を集めて収骨し、区切りをつける方針を示した。記者の質問に「だらだらとやっても・・・・、3年やって後は情報があれば」ということであった。収集事業を継続するには予算も人員も必要だ。現在すでに若者のボランティアが慰霊巡拝団にも参画している。事業に学生たちを派遣して来た団体「JYMA」(東京都中央区)の後藤拓美代表(26)は「現地から帰った若者は顔つきまで違って来る。戦争や歴史について真剣に考えるようになる。現場を見れば戦争はすべきでないということがわかる」と話す。

この遺骨団は1週間の滞在で47柱を焼骨して日本に持ち帰ったきている。しかし遺骨の身元も不明のまま、無縁仏として国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑に納められることになるだろう。もしも収集事業が打ち切られれば、そのあとはもう思い出す人もいなくなり、南方に限らずいまだ還ることのできない戦没者の遺骨がパプアニューギニアで、フィリピンで、サイパンなど、多くの島々で数多く眠っていることさえ忘れ去られて行くことになるだろう。

1944年7月の激戦で、波打ち際で戦死した夥しい日本兵の死体をアメリカ軍は島の占領後、ブルドーザーで砂浜の土を掘り返し、日本兵の死体を放り込んで埋めた浜で、日本からの観光客は何も知らないで嬉々として遺骨の上で遊んでいる。そう、サイパン島である。日本からの観光客目当てにサイパンとパンダをもじって「サイパンダ」なる縫いぐるみが売られている。パンダの鼻に犀の角をくっつけて「サイパンダ」と。

小泉よ、靖国の戦犯に頭を下げる前に見捨てられた英霊の帰国を本気になって検討してくれ。あなたの貧相な歴史観、戦争認識を改めて勉強し直してくれ。

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2005年12月11日 (日)

MOTTAINAI

朝顔が遂に最後を迎えたようだ。2日間寒い中を5㎝ほどになった蕾のままで過ごし、自らの水分で凍りついたように開き切れずに終えるようだ。夏の花がよくぞここまで長らえることができたと感心する。後は沢山ついている種子を求めるご近所に分けて上げられるように、しっかりと実らせてやりたい。

今朝(12/11)配られた新聞を取り上げて驚いた。今までは休刊日を案内するチラシは片面刷りであったが、今日のそれには裏面にも印刷がされていた。もうどれくらいの昔だろう(それこそ昔は10年ひと昔と云ったが)間違いない!ふた昔にはなるだろう、裏の使用できるチラシ類は殆どをメモとして取り除いては切り溜めて取っていた。今でも半分に、或いは4枚に切り分けたメモ用紙は10㎝ほどの高さにはなっている。会社勤めの頃からメモ魔の異名をもらったことのある性分だった。今では家庭内でそれほどメモを取ることは多くないが、難しいことを頭に入れたい時、自分なりに図式化したり、分類したり、系列化して弱くなって来た“おつむ”を刺激するために使用している。五十代後半、現役時代担当の女医から「○○さん、長生きするけれどあなたのような人が1番ぼけるタイプだから」と明言された。それ以来草になって生きるのを避けたい、と頭や指先を働かすのが良い、と云われてパソコンに取り組んで来た。人生を振り返るにはメモはどうしても必要だ。

MOTTAINAI運動に逸早く取り組んだ毎日新聞も取り組んでから数カ月を経過したが、今日になってチラシの裏印刷に気が付いたらしい。メモ用紙が1枚減るがまだまだ裏に印刷しないチラシは多いから大丈夫。

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2005年12月 9日 (金)

無資格で診療

無資格で医者に成り済まして診療8年、その間の年収がなんと2000万円。それ以上に驚くのが8年もの期間その事実が見抜けなかった多くのチェック機関だ。

97年から8年間に亙り約20ケ所の病院などに勤め、縫合などの手術までやっていたらしい。見よう見真似にしては腕は確かだったらしく、ある総合病院では「問題もなく、処置は丁寧だったと聞いている」などと呑気なことを云っている。問診や投薬をしたり、工場の診療室の外科、内科医、総合病院の当直医としても掛け持ち勤務をしていたという。この男実際は高校を中退だったが「慶応大学医学部卒」を自称し、医者採用面接には偽造した医師免許証をコピーして示していた。

無免許で医療行為を行った本人が許せないのは当然だが、このような人間が何の疑いもなく採用されるチェック方法に驚く。それも1度や2度じゃない、20ケ所の医療機関が見逃しているのだ。医者の採用に当っては医師免許証のコピーだけで許されるのか。大学医学部の卒業証書など反古同然で必要はないのか。そうじゃないはずだ、人の命をあずかる職業として採用する側はコピーでない原証書類に目を通すべきだろう。

無資格を云う前に、このような仕組みが存在することのほうが何倍も怖いことだ。小児科の医者が不足がちと聞く。隙間を縫ったこのような不逞の輩が再び現れないように反省の上、しっかりした仕組みを作るべきだ。上に書いたような総合病院の呑気なコメントで済んだから良いようなものだが、ミスが起こってでもいたらどこが責任を取ったのだろう、考えるだけで本当に恐ろしい話だ。

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2005年12月 8日 (木)

1941(昭和16)年

昨日は二十四節気の1つ大雪(たいせつ)の日、日本列島が寒気に覆われた朝も朝顔は寒そうに数少なくなった花を咲かせてくれた。暦便覧は『雪いよいよ降り重ねる折からなればなり』とある。

64年前の今日、12月8日未明ハワイ真珠湾のアメリカ軍基地を爆撃、停泊していた大平洋艦隊の艦船の殆どを撃沈。この時打った無電が、トラ、トラ、トラ(吾れ奇襲に成功せり)である。ルーズベルト大統領はこれを騙し討ちとして非難、アメリカ国民は憤激して決起することになった。日本閣議は戦争の名称を『大東亜戦争』とすることを決定。年の瀬の16日、戦艦大和が竣工する。

尋常小学校が「国民学校」と名を変えた。四年生になった。私の通った小学校の校庭に置かれてあった巨大な魚雷に子供心にも軍人への関心を持ち、漠然と軍人なら真っ白な制服、腰に下げた短剣に魅せられて海軍を夢に見ていた。多くの子供達は誰でも願えば叶うものとの思いから、陸軍大将に、海軍大将にと夢を描いて憧れた。しかし、私は相変わらず虚弱であった。学校に近い場所に泉があり、その湧水を導いて造られた当時としては珍しい立派なプール(50X20メートル)が存在していた。毎年6月1日がプール開きと決まっていた。雨天でも震える体を水に沈め、泳いだ。泳げない子は竹竿の先から吊るした藁縄に結ばれて右に左に引かれて覚えて行った。入学したばかりの1年生は男の子も女の子も上級生が肩車して50メートるを歩いた。深い方は背の低い子はやっと呼吸ができる口で溺れそうになるのを必死で堪えて肩の子を移動させた。国民皆泳の掛け声のもと男女を問わず泳げなかった子でも泳げるまで練習を繰り返した。海洋少年団に入っていた私は体は弱くてボート(スマートな細いものではない、子どもの力では10人が並んで漕いでも進んでいるのが判らないほど円く脹らんだものだった)を漕ぐのは苦しんだが、泳ぐことは得意であった。毎年海で(若狭湾内)遠泳の検定があり、この年に四キロを泳いだ。途中尽きることのないほどの大きなクラゲの大群の頭を撫で撫で横切り、泳ぎ切った。

通信簿の評価が甲、乙、丙、丁(こう、おつ、へい、てい)から優、良上、良、良下、可になり、最も優秀なものには秀の評価がついた。学校は軍隊教育を真似て天皇の神格化をすすめた。門を入るとすぐの所に「奉安殿」(天皇・皇后の写真と教育勅語の奉書を納めるための建物)があり、登、下校時には最敬礼を義務付けられた。行事の度に取り出される教育勅語を繙き(巻き物にして保管されていた)恭(うやうや)しく読み上げる校長の手にはめた真っ白な手袋が今でも鮮やかに目に浮かぶ。

(その他の出来事)
 1月 アメリカ大統領ルーズベルトはイギリスへの援助のため武器貸与法に書名
 1月 陸軍大臣・東条英機が『戦陣訓』で有名な「生きて虜囚の辱を受けず」を指示、捕虜となった兵士の自殺を言外に臭わせた
 1月 新聞の記事掲載差し止め権を首相に貸与、記事の統制を一段と強めていった
 1月 それまでにあrった青少年団少女団体を統合させ、大日本青少年を結成
 1月 政府は閣議で『産めよ増やせよ』の人口政策を確立し、戦争で激減する男子の補充に早期結婚を奨励
 3月 尋常小学校を改称し、国民学校となる
 3月 国家総動員法、治安維持法など次々と改正し、政府の権限を拡大させる
 3月 朝鮮も国民学校に規定、朝鮮語の学習を廃止
 4月 生活必需物資統制令施行、1日2合3勺と外食が切符制になる
 4月 ドイツ軍がバルカン半島を南下、ユーゴスラビア、ギリシャに侵攻
 4月 日ソ中立条約調印
 5月 ソ連でスターリンが首相に就任
 6月 ドイツが300万の軍隊でソ連へ侵攻(独ソ戦開始)。短期決戦で望んだドイツ軍は破竹の勢いでモスクワに迫り、30キロの目前にして冬の到来とともにソ連軍の猛反撃にあい、耐寒の防備を持たないドイツ軍は冬将軍の中を戦場から撤退
 6月 大本営は6日、仏印(フランス領インドシナを云いハノイからプノンペンに至るインドシナ半島の東半分を占めていた)タイ(バンコクを含む仏印に接するインドシナ半島のほぼ西半分)進出を計画。25日には南部仏印への進駐を決定し、28日には進駐を開始
 7月 アメリカが在米の日本資産を凍結し、翌日には航空機エンジン用オイルなど、ガソリン・石油製品の対日輸出を全面禁止
 8月 ルーズベルトとチャーチルの米英主脳が会議。ドイツ・ナチス政権の打倒を含む8項目の共同宣言を発表
 8月 金属類の回収を公布。社寺の鐘、など最後には学童の穴のあいたアルミの弁当箱まで供出することになって行く
 9月 ドイツ軍がレニングラード市を包囲
10月 アメリカが日本に仏印・中国からの撤退を要求 
10月 反戦、平和を願っての工作だったがスパイ容疑で尾崎秀実、ゾルゲ両名が検挙され、3年後の11月7日両名とも死刑執行される
10月 強硬な開戦論の東條に押し切られた近衛内閣の総辞職に伴い、東条英機陸相が組閣、首相・陸相・内務相を兼任
12月 午前会議で対米英蘭開戦を決定。8日未明、日本軍は真珠湾を奇襲
12月 大江秀雄フィリピン上陸作戦で戦死。旧制中学の先輩になる。ベルリン・オリンピック棒高跳びで3位。2位の西田修平とメダルを折半してつなぎ合わせた逸話は有名。学校の記念行事に出展され、実物を目にしたことがある。

奇襲の華々しい戦果を各新聞は大見出しでうたい、国民は日本強しで浮かれ、開戦の勝利を喜び、連日の勝利の報道に酔いしれた年であった。


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2005年12月 7日 (水)

1940(昭和15)年

旧年齢で10歳、小学校三年生。男女は別々の教室に別れ、文字どおり席を同じゅうすることなく敗戦を迎えることになる。女の子と机を並べるのは敗戦後の学制改革による新制高校(現行)になるまで実現しなかった。この年は神武天皇が即位してから2600年目に当たり、日本は『皇紀2600年』続く神の国と教えられていた。祝典のための国民歌が発表され、子どもたちは高らかに歌った。「金鵄(きんし:黄金色の鳩)輝く日本の 栄えある光身に受けて 今こそ祝えこの朝(あした) 紀元は二千六百年 ああ一億の胸はなる」歌は景気よかったが、しかし、生活の方は『贅沢は敵だ!』として貧困を強いられ、日々の暮らしを圧迫して行った。

前年ポーランドに攻め込んだドイツ軍は一気にマジノ線(フランス、ドイツ国境を中心にルクセンブルク国境からスイス国境を結ぶ要塞地帯)を突破、パリを陥落させる電撃的な猛攻ぶりでヨーロッパを席巻する。当時マジノ線は難攻不落を誇っていたがドイツ機械化部隊はそれを破り、英仏軍はダンケルクを脱出して辛うじてイギリスへ戻る始末だった。

日本はドイツ、イタリアが共に持つアメリカへの反感を読み、米英が中国へ支援する動きを牽制するため、日独伊三国同盟を結ぶ。新聞は国是に添ってこれを高らかに祝い、八紘一宇(日本書紀の記述が根拠になっている言葉で『あめのした(八紘)をおおいて、いえ(宇)とせんこと、またよからずや』を意味した)の宣伝を受け持ち、国家総動員体制を景気の良いスローガンを並べて底辺から支えた。【因に宮崎の八紘一宇の塔はこの年に建てられたものである】

(その他の出来事)
 1月 津田左右吉の書、「古事記及日本書紀の研究」「神代史の研究」などが発禁処分に
 3月 インド国民会議派が全土で反英不服従運動開始を決議
 4月 生活必需10品目(米、味噌、醤油、塩、マッチ、木炭、砂糖、卵)が切符制になる
 5月 イギリスで挙国内閣(保守、労働、自由3党)が成立。チャーチルが首班となる
 5月 ポーランドにアウシュビッツ収容所が設置される
 6月 イタリアが英・仏に宣戦布告
 6月 ドイツ軍がパリ入城
 7月 既成政党がすべて解散(社会大衆党、政友会、民政党)
 7月 大本営政府連絡会議で時局処理として、実力行使を含む南進政策を決定
 8月 ゼロ戦が重慶爆撃に出動、初の実戦参加となる
 9月 ドイツ空軍がロンドンを爆撃
 9月 3日の御前会議で日独伊3国同盟締結決議、27日ベルリンで調印
10月 ドイツ軍がブカレストに侵入、ルーマニアがドイツ支配下に
11月 フランスで遊んでいた少年たちが偶然1万年前以前のラスコー洞窟の壁画を発見
11月 ルーズベルトが大統領に3選される
11月 10日、紀元2600年祝賀式典が宮城前広場で挙行される

当時軽快なリズムで子供達が無邪気に口ずさんだ歌がある。近所どうしの助け合いを呼び掛けたものである。

   トントントンカラリと隣組み
   格子をあければ顔馴染み
   廻してちょうだい回覧板
   知らせられたり 知らせたり

   トントントンカラリと隣組み
   あれこれ面倒 味噌 醤油
   ご飯の炊き方垣根越し
   教えられたり 教えたり
  
    作詞 岡本 一平
   (彼は‘芸術は爆発だ!’で有名な岡本 太郎の父である)

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2005年12月 6日 (火)

1939(昭和14)年

【前文】
(12/5)新聞投書から
埼玉県の女子高生が気のむかないまま参加した修学旅行について書いている。
行き先は九州、「何で九州なの」という思いが強かったらしい。ところが長崎を訪れて気持ちが動いたと云う。おそらく彼女も広島だけじゃなく長崎にも原子爆弾が落ちたことは教えられていたであろう。しかし、彼女がそこで見た爪痕に強いショックを受け、彼女の表現を借りれば、11時2分のままで停まったままの時計を見たり、多くの痛ましい写真を見て「まるでタイムスリップしたかのように周りの写真が動き始め、強い閃光が走り、人々の泣叫ぶ声が聞こえて、火と人間が混じる臭いがした、原爆はこの世にあってはならない」そして、あの日を決して忘れてはいけないということも。彼女はこの気持ちを「九州に行った意味なんだ」という言葉で表している。最初は望まぬままに行った修学旅行を「私の一生の誇りになった」と。

【本文】
旧年齢で9歳に。5月、満州とモンゴル人民共和国の国境ノモンハンで両国の軍隊が衝突、これが引き金となって日本はソ連に戦いを仕掛け、日ソ両国の激突となるノモンハン事件に発展する。日本軍は第23師団山県支隊がモンゴル軍に猛攻撃を加えるが、ソ連、モンゴル軍の反撃に合い大損害を受けて戦線離脱。7月に入って再び23師団を中核に関東軍が攻撃を再開、ソ連は戦車を総動員した機械科部隊を投入し、モンゴル軍と大攻勢を開始。日本軍は最後の反撃に出るがソ連軍に圧倒され、大本営はノモンハン作戦中止命令を出す。日本陸軍の近代戦といわれるノモンハン事件であったが事実上敗北。1945年の敗戦後になって少しづつその真相が解かれて行くことになるが、今なお多くの謎が残されたままになっている。『隠すほどに現れる』というが、今も私の耳には当時大人たちが小声でひそひそと囁く「ノモンハン」といういかがわしい響きに云い知れない恐怖を感じていたのを思い出す。

男たちが軍隊に徴用に取られて労働力を失った女たちは男の仕事を受け持ち黙々と働いた。さらに労働力の不足する職場を埋めるため、東北地方の小学校を卒業したばかりの少年を京浜地帯の軍需工場へ送り込み、「少年産業戦士」なる名前の元に集団就職させた。天皇は「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」を下賜。直々の御墨付きをもらって軍国主義教育は勢いを増し、益々強化されて行った。

9月に入るといよいよ第二次世界大戦の始まりである。

(その他の出来事)
 1月 近衛内角総辞職
 2月 すでにこの頃から軍需物資の原料不足が深刻化し、郵便ポスト、釣鐘、ベンチ、火鉢などの鉄製品の回収を開始
 2月 日本でも理化学研究所において原子爆弾実験のサイクロトロンが設置される
 3月 ドイツがチェコ領ボヘミアを、ハンガリーが同じくルテニア地方を併合、チェコスロバキアは国家として完全に解体する。
 3月 スペイン内乱が終結
 4月 米穀類が配給制となる
 7月 労働力確保の国民徴用令が施行され「白紙」の徴用令状を受け取ると拒否できなかった
 7月 「朝鮮人労務者内地移住に関する件」内務省、厚生省の通達により朝鮮人の強制連行が始まる
 8月 独ソ不可侵条約調印に平沼内閣は無策のうちに「欧州情勢は複雑怪奇」なる声明を発表して総辞職
 9月 1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻、第二次世界大戦始まる。3日、英・仏両国がドイツに宣戦布告。5日、アメリカは中立を宣言
11月 ソ連軍がフィンランド攻撃を開始
12月 軍規保護法によるビルや高台からの風景写真や俯瞰撮影を禁止

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2005年12月 5日 (月)

1938(昭和13)年

【前文】
毎日新聞(12/5)朝刊から
厚生労働省の調査によると、第二次世界大戦中、戦地での過酷な経験や軍隊生活によって精神障害を負った元軍人・軍属が、全国各地の病院に84人(今年3月末現在)入院していることが分かった。同省援護企画課によると
  福岡県  8人
  千葉県  6人
  宮崎県  6人
  鹿児島県 5人
  東京都  3人
  京都府  1人 など

入院先は36都道府県の病院に及んでいる。敗戦後60年経った現在も心に深い傷を負ったまま、多くは家族との交流もない状態だと云う。大半の人たちが60年以上に亘って入院生活を続けており、多くが80歳以上の老齢になり、近年は、毎年10人以上が死亡しているという。この他にも地域の病院に通院して治療を受けている人も59人がわかっている。

このような精神に障害を負った軍人らの大半は戦時中、国府台陸軍病院(現国立精神・神経センター国府台病院、千葉県市川市)に送られ、1937〜45年度に1万人以上に達した。
こうした元軍人らに対し、国は戦傷病者特別援護法に基づき、入院や治療の費用を支給して来ている。しかし、社会の偏見も強く、家族から見放されたまま病院で亡くなった人も多数いるものと見られている。

何という悲しい話だろう、キーボードを打ちながら涙が落ちるのを必死に堪えている。国の為に命を捧げる覚悟で家族を捨てて国を出、余りの過酷さに狂った体を今度は家族が見放す。戦争と云えばそれまでだが、この残虐さが戦争なんだ。この現実はもっと声を大きくして社会に知らせなければならない現実だと思う。

小泉は、大相撲で「感激した!」と吠えてみたり、ブッシュに満面の笑顔ですり寄ってみたり、靖国に傲然と進んでみたりする前に、このように殆ど忘れられている戦傷者を見舞うことをするべきだ。そして、自衛隊の派遣延長や、軍隊にする前に、同じ轍を踏まないように十分な検討をしてこそ国政を預かるものの取る道だと思う。

【本文】
8歳になり小学校に上がる。残念ながら入学写真もなければ記憶もない。「男子7歳にして席を同じゅうせず」の時代だが、一年生は女の子と一緒だった。
記憶の断片には夏の暑い日、かき氷屋さんで面白半分の悪戯で、氷を掻く例の手回しの氷が落ちる下から刃の間に小指を差し込んで、何も考えないで指を抜いた。当然すっぱりと指先が切れていた。吃驚して泣く声も出ず、そのまま母がいる家まで飛んで帰った。今も左手の指先の爪は右の3分の2ほどしかないが、何故あの時痛くなかったのか今でも不思議に思い出す。或いは嵐の日のこと家の横に立つ電柱に落雷があり、ラジオから一瞬の火花が走ったこと、子供用の自転車の練習中にハンドルが切れず、前輪を蓋のないマンホールに突っ込み転んで向こう脛を打ったこと、ここにも未だに消えない傷がある。このように切れ切れの記憶しかない。

一学期を終えて父の転勤に付いて一家は日本海側の地、舞鶴(当時海軍鎮守府があり、B29の空襲も受けた。造船の街でもあったが、敗戦でソビエト、満州、中国からの引揚げ船の帰港地として使われた)に転居。移り住んですぐに地蔵盆があり役員たちが集まったのは私たち家族が住むことになった家の隣だった。子供達のための行事であるはずだが、新入りの我が家の4人の子供の誰にも声は掛からず、賑やかなお囃子やお菓子も貰えず寂しい思いをしたのを覚えている。(貧しい時代の食べ物の恨みかな)菓子は駄菓子屋で1銭持って行くと口一杯の大きさの飴玉が2つ買えた時代だった。

時局は日中戦争の泥沼化で国家総動員への体制を固め、「一億一心火の玉だ」の標語の元に全てに国家統制を強めて行った。当時それでもまだ軍部にも戦争の拡大を避け、和平工作を進めることを主張する動きもあったが、時の首相近衛文麿の裁断で和平工作は打ち切りとなり、挙国一致で戦時体制に入って行くことになる。軍歌「麦と兵隊」で“徐州 徐州と人馬は進む・・・”と歌われた徐州作戦で西住戦車隊長が戦死。死後中尉に昇進するが、支那事変初の『軍神』と讃えられ、当時の大スター上原謙がその役を受けて映画に歌につくられて国民の戦争熱を煽った。7月、1940年に予定されていたオリンピック東京大会の返上が決定し、芸能人、文士たちが続々と戦地の兵を慰問するために海を渡り結果としての戦意昂揚を支えた。

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武漢作戦のおり九江にて(左端は叔父:故人)


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戦地を慰問する芸妓たち




(その他の出来事)
 1月 日本海軍陸戦隊が青島(チンタオ)を占領
 1月 近衛内閣「爾後国民政府を相手にせず」との対中国重大声明を発表
 2月 日本軍、重慶を爆撃
 3月 オーストリア、ナチ党のインクヴァルト首相がドイツとの合併を宣言
 3月 国家総動員法案可決、4月公布、5月5日施行
 3月 蒋介石が国民党総裁になる
 3月 メーデーの全面禁止
 4月 電力の国家統制
 5月 ガソリンが切符制になる
 5月 毛沢東が持久戦による抗日戦争の勝利を予言
 7月 ソ満国境で日ソ軍衝突
 9月 三菱重工業でゼロ戦(零式艦上戦闘機)の試作機完成
10月 ドイツ軍がズデーテンに進駐
10月 日本軍は武漢三鎮(漢口・武昌・漢陽)を占領
11月 パリでドイツ大使館員がユダヤ青年に射殺され、報復にドイツ全土にユダヤ人に対する組織的迫害が行われる

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1937(昭和12)年

旧年齢で7歳、幼稚園に入園。“お山の大将おれ一人 後から来るもの突き落とせ・・・”と唱いながら後から登って来る仲間を突き落とす遊びである。手を引いて助け上げるのではない。今ならPTA辺りが血相変えて怒鳴り込んで来るだろう。その中に女の子がいたかどうかは全く記憶がないが、少なくとも男の子には楽しい遊びであった。当時の思想として男は強くなければならなかった。弱く生まれ麦藁のように細かった私でも泣いた、或いは泣かされた記憶はない。ご坊さんと呼ばれたお寺に附随した園であったが、通園はいつも祖母が寺の境内まで一緒について来てくれていた。

時代は7月7日の深夜どちらが発砲したか未だに不明だが、数発の銃声が響いて起こった盧溝橋(ろこうきょう)事件が引き金となった日中戦争のただ中にあり、新聞は戦争熱を煽り立てて緒戦の勝利を祝った。当時のスローガンは「暴戻(ぼうれい)支那の膺懲(ようちょう)」であり「対支一撃」であった。新聞は毎日のようにその文字を一面に掲げて日中全面戦争への拡大を容認して行った。

castlex姫路城


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境内で遊ぶ(船場幼稚園)


(その他の出来事)
 1月 4月から小学修身教科書に「君が代」を国歌として掲載を決定
 4月 ヘレン・ケラー来日
 5月 双葉山が第35代横綱になる
 6月 第一次近衛内閣発足
 7月 日本労働組合連合が戦争協力を表明
 7月 日本キリスト教連盟が戦争協力を表明
 8月 トヨタ自動車工業設立
 9月 中国国民党と共産党の合作宣言書を公表、蒋介石が共産党の合法性を承認
 9月 国際連盟が中国への爆撃に対して日本非難決議を全会一致で採択
10月 ルーズベルト大統領がシカゴの演説で日・独・伊三国を非難
11月 イタリアが加わって日独伊防共協定を調印
12月 日本軍が南京を占領

新聞は南京陥落と万歳の声で誌面を埋めつくし、さらに戦争熱を煽り立てた。日本軍はこれ以降およそ二ヶ月に亘る大虐殺事件を起こす。世に云われる「南京大虐殺」である。中国側の発表によれば犠牲者は30万人とも云われ、略奪、放火、強姦を繰り返したといわれる。(現在、中国側の発表内容については、数字、写真の捏造を指摘するこえもある)
日本国内では南京陥落の祝賀行事で沸き返り、勝った、勝ったで浮かれていた。この一連の事件については1945年の敗戦後開かれた極東国際軍事裁判で明らかにされるまで、一般の日本人にはひた隠しにされていたため、南京虐殺などなかったと述べる人は現在でも存在する。

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2005年12月 4日 (日)

1936(昭和11)年

64年前の太平洋戦争の開戦の日(8日)が刻々と近くなる。昭和16年を当日に置きたいので2年分を載せる。

旧年齢で6歳、たった1つ本当にぼんやりとした記憶が残っている。小川に近く農家に飼われていたらしい馬が川に浸かり、男の人に体を洗ってもらっている姿だ。母の故郷鹿児島の田舎に連れて行かれた時のものであるらしい。やはり記憶力は相当に低いらしい。

2月26日未明、半世紀ぶりに降る大雪の中、青年将校が1400人からの兵を率いて決起、陸軍省、警視庁などを襲撃占拠する。天皇は激しい怒りとともに彼らを「反乱軍」として鎮圧を望んだ。このことがその後、軍部に抵抗するとこうしたテロに襲われるかも知れないという威嚇の力になって、後の太平洋戦争へ導く重要な役割を果たすこととなった。

小学生になったころ、大人たちの会話から洩れる“にー、にー、ろく”の響きについて、父に尋ねたことがあったが、唇に指を当てて「大きな声で云うものじゃない」、と嗜められたのを覚えている。当時の言論統制を受けて詳(つまび)らかには活字にならなかった事件の事でもあり(敗戦後になっても統制派、皇道派《ここにも2つの流れがある、改造派と天皇派》などが複雑に絡み合ったこの事件に関して、明らかになるにはまだ相当の年月が必要だろう)何も知らされない一般の国民には触らぬ神に祟りなしの心境であったのだろう。

(その他の出来事)
 1月 電話の緊急呼び出し 119番 決まる
 2月 日本職業野球連盟結成
 3月 ドイツがラインラントに進駐
 5月 阿部 定が男性の局部を切断して逃走する猟奇事件が発生
 7月 軍法会議で2、26事件関係者に判決。元将校13人、民間4人に死刑宣告。2名を除き宣告から7日目に刑執行
 7月 スペインで内乱勃発
 8月 第11回オリンピック・ベルリン大会開催。“前畑がんばれ”のアナウンスで有名な平泳ぎ、三段飛びの田島直人、当時日本国籍で参加したマラソンの孫基禎がそれぞれ金メダルを獲得
10月 『狂人日記』『阿Q正伝』の魯迅死去
11月 中国全土に抗日運動が高まる
11月 国会議事堂落成
11月 ベルリンで秘密協定、日独防共協定を結ぶ
12月 海軍軍縮条約が失効、無条約時代に入る

「スペイン内乱」
カナリア諸島に左遷されていたフランコ将軍が大規模な軍事反乱を起こす。55ヶ国から4万人の義勇兵が参加したが、翌年にはドイツ飛行兵団のゲルニカへの無差別爆撃、バルセロナの共和国陣営での市街戦など、共和国の不利が続き39年に反乱軍に無条件降伏をして内戦は終了。
この内戦のゲルニカ無差別爆撃の悲惨な状況を描いたのがピカソの『ゲルニカ』である。チェリストのカザルスはフランコが国家元首でいる限り二度とスペインには戻らない、と国外へ脱出。フランコの死後カタルーニアに戻りこの地で死去。

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1935(昭和10)年

いよいよ日本は軍国主義の道を進み始め、はっきりと天皇制国家の精神を強調するようになって行く。8月、陸軍内部の派閥抗争からから天皇至上を唱える皇道派は、軍務局長の永田鉄山を刺殺、神国日本への転換の風潮は次第に暴力肯定の思想を生んで行く。関東・関西を未曾有の豪雨が襲い、前年に続く東北地方の凶作による大飢饉とも重なって、国民は疲弊のどん底に喘いでいた。ヨーロッパではドイツの再軍備宣言で危機が募り、日本では国家統制へ向ってダイナマイトまで使用した大本教本部への宗教弾圧、映画、言論にと着々と準備が進められていた。

(その他の出来事)
 2月 共産党機関紙「赤旗」が発行不能となり終刊、3月には共産党が事実上壊滅する
 2月 湯川秀樹博士が中間子理論を発表
 3月 ドイツは第一次大戦の敗戦による軍備制限を一方的に破棄し、ヒトラーはラジオ放送で徴兵制による再軍備を進めると宣言
 4月 美濃部達吉の天皇機関説が不敬罪で告発される
 5月 戦前最後のメーデーが行われる
 5月 ドイツのアウトバーンが完成(フランクフルト〜ダルムシュタット間)
 5月 吉川英治が朝日新聞に『宮本武蔵』の連載を始める
 9月 ドイツで「ニュルンベルク法」が公布される
10月 イタリアがエチオピア北部に進入
11月 大日本映画協会設立、映画の国家統制が始まる
12月 日・英・米・仏・伊によるロンドン第二次海軍軍縮会議が始まる

「ニュルンベルク法」
9月15日のナチス党大会で「ドイツ人の血と尊厳の保護のための法律」として制定され、8分の1までの混血をユダヤ人と規定し、公職は追放、企業経営は禁止などが決められ、ユダヤ人男性がドイツ人女生と性関係を持つと死刑という厳しい差別法で、「劣等民族」のレッテルを貼られ、ユダヤ人の市民としての生活権を否定した。

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2005年12月 3日 (土)

1934(昭和9)年

弱い子ながらも生き延びることになった私は、当時の数え方(大晦日に生まれ、正月で二歳)で四歳になった。余ほど記憶力が劣っているらしく、自分のことは幼稚園に通うようになる年齢までの物事はすっぽりと抜けている。がしかし、時間軸から切り離されたようにぽっかりと幻のような明かりを見ていた記憶がある。祖父の幾右衛門を生きて見たことはないが、泣き虫の私を背負うのは何時も祖母チエの役目で、夜暗くなって姫路城に近い場所にあった変電所の周りをねんねこにくるんで泣き止むまで歩いてくれていた、と聞く。恐らくこの時に祖母の背から涙の目で見た変電所の明かりが焼きついているのだろう。三月にすぐ下の弟が生まれる。(昨年2004年末、彼は順序を弁えもせず病いで兄よりも先に墓に入った)

西日本に颱風(9月21日室戸颱風:明治時代に立てられた小学校が授業中に倒壊する惨事が多発し、多くの生徒、児童が下敷きになって死亡した)が襲い、旱魃、風水害、東北地方の冷害などが続いて米は大凶作となり、欠食児童、またも娘の身売りなどが続出する。

(その他の出来事)
 1月 富士写真フィルム設立
 3月 満州国が帝政を実施、溥儀が皇帝に即位
 4月 中国共産党が反日統一戦線・抗日救国の綱領を提示
 4月 ネス湖で“怪獣”が撮影された。1994年3月、英サンデーテレグラフ誌が「おもちゃの潜水艦を改造したトリックだった」と発表。半世紀以上に亘って世界を騒がせた怪獣の正体が明らかになった
 8月 ヒトラーが国民投票で大統領に選ばれ、首相と兼任
 9月 1日、竹久夢二死去
10月 警視庁が学生、未成年者のカフェ、バーへの立ち入りを禁止
11月 日本労働組合全国評議会(全評)結成
12月 丹那トンネル開通、1日一番列車が走った
12月 ソ連でセルゲイ・キーロフ暗殺、スターリンによる大粛正の引き金となる


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2005年12月 2日 (金)

1933(昭和8)年

第一次大戦の教訓から生まれた史上初めての平和維持国際機関『国際連盟』は前年の満州国の建国宣言を受けて、満州事変勃発後の日本側の強行な態度の実態を調査するため、イギリスのリットンを代表(フランス・ドイツ・イタリア・アメリカからなる)とする調査団を満州に派遣する。3月〜6月に亘り中国から満州を調査し、纏めた結果を国際連盟で報告する。内容は『満州国』の不承認、日本軍の満州からの速やかな撤退を勧告。42対1、棄権1の賛成決議となる。日本代表松岡洋右(ようすけ)はこれに抗議して席を立つ。国際連盟からの脱退である。日本国民は松岡の行動を支持し、帰国した彼を万歳の声で迎えた。勢いに乗った関東軍は中国を奥へ奥へと侵攻を続けることになる。

一方ヨーロッパではいよいよ世界を震撼させたヒトラー率いるナチスドイツ第三帝国が始まる。1月28日ドイツ国会はヒトラーを首相にし、彼はヒンデンブルク大統領の死を利用して一気に総統の地位を獲得する。ナチスは策謀によって自らの国会に火をつけ、共産党の放火として弾圧に乗り出す。全権を掌握したヒトラーはヨーロッパ支配の野望を達成させるべく権力の一元化を進めて行くことになる。

(その他の出来事)
 1月 大島三原山で実践女学校の生徒が投身自殺
 3月 日本は国際連盟の場から退場して3日後、政府は正式に国際連盟からからの脱退を表明
 4月 忠犬ハチ公の銅像が渋谷駅前に立った
 5月 女性弁護士の道が開かれた
 5月 大阪の地下鉄、梅田—心斎橋間が開通
 8月 中等学校野球準決勝戦、中京商業と明石中学が延長25回の末中京が1対0で勝つ
 9月 上高地大正池までバスが開通
10月 ドイツがジュネーブ軍縮会議、国際連盟から脱退声明
11月 アメリカがソ連を承認
12月 皇太子明仁親王(現天皇)誕生

前年5月9日の坂田山心中(男爵の息子・24歳、慶応大学経済学部学生と静岡県の素封家の娘・22歳)で、女性の両親の反対から将来を悲観し、神奈川県大磯の山林で服毒自殺。女性は和服の上から膝を紐で結び、裾の乱れを止めていた。近くの寺に埋葬されたが、翌日女性の遺体だけが掘り起され、全裸になって近くの漁師小屋で砂に埋められて発見。(当時は必ずしも焼却の決まりはなかった)変態性欲者かと騒いだが、検視の結果遺体に陵辱の痕跡はなく処女のままであった。その後焼却分骨されて二人は夫婦として同じ墓に入ることになった。事件は話題を呼びすぐさま映画化され、『天国に結ぶ恋』となる。主題歌が作られ、「二人の恋は清かった
神様だけがご存じよ 死んで楽しい天国で あなたの妻になりますわ」映画館で主題歌を聞きながら昇汞水(塩化第二水銀)を飲んで自殺するものが出た。また坂田山だけで年末までの半年間で20件の自殺・心中事件が相次いだ。

続くようにこの年も1月に始まって2月になると実践女学校の生徒2人が自殺、この年だけで100人近い自殺者が出て三原山は自殺の名所となる。前後してフランスのシャンソン歌手ダミアの唱う『暗い日曜日』を聞きながら自殺するものが続いて、厭世ムードを助長するとして発売を禁止した。

世界的な恐慌を受けて日本国内も緊縮財政による経済立て直しが失敗し、思想弾圧、言論封殺、テロの横行が目立ち、軍部の横行は中国東北部への侵攻となる。満州国の建国は国際関係の悪化を呼び孤立を深めて行くことになるが、当時の言論界は進出を続ける軍部を批判することもなく、却って大勢は戦争に追随し、戦争を謳歌し新聞の発行部数は戦争の度に増え続けて行った。

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2005年12月 1日 (木)

戦争は終わっていない

いよいよ今年も最後の月、師走に入った。
若い頃は一年の経つのが遅くて仕方なかった。喉元を通り過ぎた餅の味も残っている内に、もう次に来る正月の餅搗きを待ち望んだ。
軍人になる夢を失ってからは、生きる道を暗中模索した。何故か「男は三十歳にならなければ一人前じゃない」との考えが固まっていた。早くその年齢になりたかった。狂ったように働いた。気がついてみると“人生わずか五十年、・・・”を遥かに過ぎている。戦時中、若い男たちの戦死によって日本人の平均寿命はそれよりも遥かに短いものだった。それが今では世界一の長寿国になった。
朝顔は今日も開いた。

毎日新聞(12/1)朝刊の投書から
パプアニューギニアで遺骨収集団を支えている79歳(昭和元年生まれ)の男性の話。「戦後60年。ここに来て戦争と縁が切れなくなってしまった。若い時は戦争が嫌で、頭の中からけしたのに」訪れた島は今次戦争で戦死した日本兵は14万人とも云われる激戦地であった。この人は現在この地に居住し、日本から来る慰霊巡拝団や遺骨収集団が宿泊する古いホテルを経営している。敗戦直前には国内山口県の基地で人間魚雷(人間が乗り込み、一人必殺の目的で作られ、水中から敵艦に自ら体当たりして爆破させるための玉砕兵器)の訓練中に敗戦を迎えた。

その後はテレビ局に勤務、報道記者として世界の秘境を巡りパプアニューギニアにもたびたび訪れていた。20年前に知人からホテル経営を頼まれ引き継いだが、2ヶ月で逃げ出すつもりだったが、環境が自分に合った。他人に気兼ねせず、自然体で生きる島の人たちの中に集団生活に馴染めない自分の安住する地を見い出していた。
慰霊のために島に来ても現地の言葉が話せずに困っている巡拝団が次々に来るのを放って置けず、永住を決めた人だ。大阪から15年近く訪れていた元衛生兵は、薬もないこの島で、多くの戦友の死を見送った。彼らを慰霊するために独学でお経を身につけ、島に来て戦地を廻る道案内をした人の話に感動する。

昨年、島の日本人の慰霊塔の管理を無報酬で引き受けたという。「戦争体験者は高齢化して来訪者も年々減っているが、もう暫くは頑張ろうかな、と思っている」と結んである。

確かに戦争体験者は数を減らしているが、まだ存命の間に聞いておかねばならない話はたくさんある。この人も昭和一桁の世代だ。この世代が戦中から戦後にかけての激変を最も身に被り、価値観の変化、見失った価値基準を手探りで模索しながら成長した世代だ。そのためこの世代には日本の復興を支えてきた反骨の人が多い。しかし、国の再建には心を尽くして来た反面、暗中模索の中で日本人本来が持っていた美しい心、人を敬い、愛すること、扶けあい、などの道徳心を等閑にし、「旧いもの全て悪」のような風潮をつくり、現在のように乱れ切った政治、世情、家庭環境、親子関係を招いた負の面もある。

同じ日の投書から
こちらも同じ79歳の男性。自民草案「自衛軍保持」への疑問。
戦中派としての考え、として今次大平洋戦争の開戦の詔書「自存自衛ノ為」とあったが、武力での本土侵攻もなかったのに自衛と称して開戦し、悲惨な敗戦となった。自衛軍も軍とあれば「国際的に協力して行われる活動(草案2の2)」をすれば、特定の国との利害衝突を招き、敵視されることは十分ある。自衛が敗戦を招き、反省から生まれた現行憲法9条「戦争の放棄」が宣言された。今、自衛のためなら友人、恋人が死んでもよいかを、全国民が考えるべきだ。彼は中学2年生の時、突然戦争へと誘い込まれた体験からの提言だ。

敗戦後街に溢れた失業者を救済するために「警察予備隊」として生まれたのが今の自衛隊。米ソ冷戦のさなか、便利に成長して来た警察予備隊は名前を変え、「自衛隊」となった。当初吉田茂首相も憲法条文について9条は『自衛のための戦争もこれを放棄する、ということだ』と答弁している。それがアメリカとの関係が密接になるに従って政府の言は変化し、今では自衛論が圧倒的な支持を受け、ああ云えばこう云うで戦力を強化し、海外にまで派遣(派兵といってもいい)することになった。特に仮想敵国をつくることで反共包囲網をつくり、戦力を増強して来たアメリカに倣い、日本の今はその仮想敵国を北朝鮮に置いて、事ある毎に“もしもテポドンが”を口にすることで戦力の強化、軍隊の保持を正当化しようとしている。
肝心なことはこのような草案をつくる人たちだ。どんな内容になろうと、年老いた自分達が戦争に狩り出される心配はない。例え徴兵制度が布かれて多くの若者が連れて行かれても、自分の子供は権威で逃れさせることはできる(ブッシュが噂になった例もある)だろう。まして戦地で死ぬことは考えもしないだろう。

太平洋戦争の時代と何も変わらない。命令する階級と徴兵される階級が必ず生まれる。死ぬ階級と死ぬことを強いる階級。このようなことがあっては絶対にならない。今年は敗戦後60年になる、一年間テレビは区切りとして幾多の番組を製作して来た。つまらないドラマも多く作られた。原子爆弾の被害に片寄ったものが多く、開戦から敗戦に到る戦争責任について考えさせられる番組は皆無だった。逆に戦争犯罪者が眠る靖国の正当性を言いたげな報道も多く見られた。もうすぐ12月8日、64年前のこの日、真珠湾攻撃で戦端を開いた日だ。あらためて平和を護るための思いを強くする。

私にとっての戦争もまだ終わってはいない。

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