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2005年12月26日 (月)

1943(昭和18)年

旧年齢で13歳、小学校6年生。生を享けて70有余年、ただ一度奇跡とも呼べる出合いを体験することになった。

4月17日〜5月17日の間の一日であった。学校も終えて父の勤める会社の社宅の二階で手摺に凭れて、間に畑を挟んで100メートルほど先の通りを行き交う人をぼんやりと眺めていた時だった。まだ夏前で紺の海軍の軍服を纏った軍人が右に歩くのを何気なく眺めていた。咄嗟に大きな声で叫んでいた『文吉兄ちゃーん』。100メートルの距離では届かなかったのか、どんどん歩き進んでいた。
巡洋艦「阿武隈」に乗艦して戦地に出て日本にはいない筈の人だったし、近眼の私には遠くて顔の判別はおろかすれ違っても見知らぬ人でしかなかった。5歳の時里帰りの母に連れられて逢っただけの人だった。慌てて駈け降りて母に伝えた。私が口にした名は母の従弟の軍人だった。血相を変えた母は人違いかどうかも確認することもなく飛ぶように駆け出して通りに向って走り出していた。やがてその人が母と一緒に目の前に現れた。

この日から後の5月29日、『大東亜戦争』最初の玉砕の島アッツ島へ、それに先立つ2月10日、数次に亙る兵士の輸送船団の護衛を行った帰路アメリカ艦隊と交戦し、被弾して修復のために1ヶ月間だけ舞鶴に帰港したことから、その人と生前最後の出合いとなった。実の両親への挨拶も叶わなかった人との、作戦の合間に起こった奇跡でしかなかった。

kaigun 1944年10月26日 ミンダナオ海戦で戦死


『文吉兄ちゃん』はその後再び6月10日、アッツ島の生還者27名の収容に7月7日、キスカ島の陸軍部隊1,202名の撤退作戦に向ったあと南に転進し、翌年10月26日ハワイに近いネグロス島沖のミンダナオ海でアメリカ軍と遭遇、「阿武隈」は爆撃を受けて自ら装填していた魚雷4本が誘爆して炎上沈没した。当然遺骨はないし、遺書もない。救助されたもの283名、この間の経緯については戦後史が書かれるようになって徐々に明らかになって来たことで、当時は実家の家族にも戦死の通達1枚が送られただけで済まされていた。

前年6月のミッドウェーの反撃からアメリカ軍の攻撃は激しさを増し、同年8月の1次から始まったガダルカナル島沖のソロモン海戦は11月までに3次を重ね、ガダルカナル島に上陸したアメリカ軍の占領により空、海からの食料の輸送路を断たれたガダルカナル島の日本軍は飢餓に見舞われることとなり、戦病死者、餓死者24,000人を出して本年2月、将兵13,000人余を駆逐艦などの艦船に収容して撤退した。大本営はソロモン海戦を通して海軍の損失が戦艦2、空母1などを含む艦49、航空機900機近い損害を受けながら、敵へ与えた損害を華々しく発表して虚勢で飾り、日本軍の損害を軽微に偽り、国民への真実を隠した。

この年もう一人の母の従弟が陸軍に召集された。やはり兄ちゃんと呼んで九州から出て我が家に同居していた人で、入隊先が近畿であったため、私たち家族の家からの出征となった。


syussei 旗を持つのが子どもの私



その後日本を離れて行った先は泥沼に嵌ったように長引く中支の戦場だった。憲兵隊に配属され、敗戦後生きて日本には戻って来たが行方不明になりそのまま消息が絶えた。

    野戦病院に収容中の傷病者はその場において、
    軽傷者は自ら処理せしめ、
    重傷者は軍医をして処理せしむ。

この文は、大本営が南方に戦局の打開を求め、アッツ島を見捨てたおり、守備隊長山崎大佐が『生きて虜囚の辱めをうけることなき』よう玉砕の当日、最後の突撃に参加出来ない戦傷病者の命を断ち、天皇陛下万歳を三唱して2,638名の部下とともに突撃するに際して大本営に向けて打電した最後の電文である。それでも玉砕を伝えられた後、27名の重傷者を含む生存者が救出された。

新聞は大本営の発表をそのままに、ガダルカナルの時も、アッツ島でも敗北の「退却」を「転進」と書いた。学校では教師が玉砕とは1人残らず戦死することと教え、玉砕した兵士を英雄と讃え、軍神と教えて反米感情を煽っていた。そして、大事なことだが当時の小学校の男の子たちはそのような教育にさほどの抵抗もなく洗脳されて染まって行った。高学年になると赤樫の木刀を、女子は薙刀を習い、敵と戦うための訓練をしていた。この赤樫の木刀は今でも夜盗の侵入に備えた警備用として実家に残っており、里帰りの折々に苦々しく眺める。

(その他の出来事)
 1月 ジャズなど1,000曲の演奏が禁止になる
 1月 5年制だった中学校が4年制になる(高女、実業、大学予科、高等学校なども同様に短縮される)
 2月 スターリングラード攻撃のドイツ軍は9万人が冬将軍に囲まれたまま身動きが取れず、ソ連軍の反撃に合い降伏
 4月 連合艦隊指令長官山本五十六大将の搭乗機がソロモン沖でアメリカ空軍に撃墜され戦死、6月5日国葬に
 5月 陸軍が少年兵の志願年齢を1歳引き下げて、14歳とする
 5月 アリューシャン列島アッツ島の守備隊約2,600名玉砕
 6月 就労時間の制約を解除、婦女子、年少者の採炭のための坑内作業を認め、男子労働者に混じって上半身裸で作業する女子労働者もうまれる
 7月 イタリアでムッソリーニが失脚、逮捕される
 7月 女子の学徒動員を決定
 8月 米英空軍がベルリンを猛爆撃
 8月 9月にかけての1ヶ月間に空襲による万が一の事態に備えて動物園の猛獣たちが次々に毒殺、絞殺、餓死させられて行った
 8月 朝鮮に徴兵制を実施
 9月 3日、イタリアが連合軍に無条件降伏する
10月 学生、生徒の徴兵猶予が停止されて、5月に決まった陸軍の志願年齢引き下げもあって、いつ兵隊に取られるか不安な空気が漂い始めた
10月 21日、雨中の明治神宮外苑競技場で東京近郊の77校から集まった学生数万人が小銃を肩にして行進。出陣学徒壮行大会が行われ、12月1日第1回学徒兵が入隊する
11月 兵役法が改正され、年齢が45歳までの延長になる
11月 ルーズベルト、チャーチル、蒋介石がカイロで会談、日本が無条件降伏をするまで戦うことを取り決める
11月 ルーズベルト、チャーチル、スターリンがテヘランで会談、この時ソ連はドイツが降伏すればその3ヶ月以内に対日戦への参加を表明していた
12月 特例として徴兵年齢を1歳引き下げて19歳からとした。

少年兵の年齢を14歳に下げ、学生の徴兵猶予を廃止し、45歳までを兵に取り、20歳であった徴兵を今また引き下げて日本の国内の男性は老人と幼児、或いは病弱のものだけで構成され、若者は根こそぎ動員されて死ぬことを強要されることになった。
この頃ショーコンユなる言葉を耳にするようになったが、漢字で書けば「松根油」、文字どおり松の木の根から採ったもので航空機の代用燃料として使われた。

kouhisei 戦争末期に志願して散った2歳年長の遠縁の少年(叔母に贈った最後の写真)


memo 裏書き 叔母の健康を願って記されている、15歳とある。

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