1942(昭和17)年
小学校5年生、相変わらず教育勅語の書写は続いていた。卒業するまでに何枚書いただろうか。句読点もなく、濁点もない、カタカナと漢字で書かれた不思議なものであった。「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ・・・・云々」続いて「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦愛和シ朋友相信シ・・・」から始まる言葉は難解だったが、漢字を知るには叉とない手本になった。遵守、拳々服膺(けんけんふくよう)、天上無窮、謬(あやまら)ラス、悖(もと)ラス、御名御璽(ぎょめいぎょじ)などを毎日書き写していると自然に身についていった。
さて、この教育勅語の一文だが「父母に孝に・・・・朋友相信じ」は現在読んでも当然のことが書かれているのだが、勅語全文の中で解釈されると全く捉え方が違って来ることは否めない。何故ならこの言葉の後に続く文章に「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」とあり、これらすべてはいざという時には万世一系の天皇のために命を投げ出すことを遵守するための教育であった、と言えるからだ。
長引く中国の戦線に疲弊気味の国民は、前年暮のハワイ真珠湾攻撃による戦果に狂喜していた。続いて南方に転進した日本軍が次々にあげる戦果を各新聞は大見出しでその戦果を謳い、連日目にする米英撃滅の文字は国民の戦争参加への熱を煽り立てた。しかし、大勝利に酔う日本は、開戦4ヶ月にして早くもアメリカ軍の日本海から発進した爆撃機により、東京・大阪・名古屋・神戸などが初爆撃を受けることになった。
(その他の出来事)
1月 日本軍がマニラを占領
1月 ナチス幹部が欧州のユダヤ人1,100万人の絶滅を決定
1月 日本軍がマレー半島ジョホール・バルを占領
2月 英軍の降伏で日本軍はシンガポールを陥落させると、国は祝賀国民大会を開き、酒、お菓子、小豆などを各家庭に特配し、国民は勝利に酔った
2月 ルーズベルトが日本人12万人余りを強制収容所に隔離することを決定
2月 当時オランダ領東インド(スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスなど)のオランダ海軍を壊滅させ、制海権を握ると破竹の勢いでビルマのラングーンを攻め、スマトラを占領
4月 18日、B25爆撃機16機が日本本土を初空襲
5月 29日、『乱れ髪』の与謝野晶子が死去
6月 太平洋戦争における日本軍の唯一アメリカ領土占領となったアリューシャン列島のキスカ島、アッツ島を占領
8月 ドイツはスターリングラードを攻撃、市街戦を展開
9月 アメリカのボーイング社がB29長距離爆撃機を完成。この時に作られたB29が3年後に日本本土に飛来、原子爆弾を投下した
11月 ソ連軍の反撃でドイツ軍がスターリングラードを退却
12月 東宝映画『ハワイ・マレー沖海戦』封切、(特撮は後に『ゴジラ』で名を馳せる円谷英二である)教員引率で児童全員が観覧した
開戦後1年も経たずに、早くも日本の戦況は芳しくなく、6月のハワイ近海で行われたミッドウェーの海戦では日本連合艦隊が大敗北していた。(大本営は国民には「我が方の損害は軽微なり」と発表)この海戦の敗北までは半年間の戦いに連戦連勝する日本軍を讃え、教師たちは海戦の敗北があった後も、子どもたちには神の国の勝利を信じ込ませようと躍起になっていた。彼らは後に日本国の敗戦(1945年)が来ると即座に主義を変え、豹変して口々に民主主義を唱えた。今時の教師たちの較べようもなく鉄面皮であったし、機を見るに敏であった。希望に燃え、男として国の為に尽くすことを教えられ、「男とは死ぬことと見つけたり」を本分として成長を続けていた。ところが瞬時にして先の見えない闇の中に放り込まれたのだ。信じるものを失っては手探りで一歩一歩進むしかなかった。自分が信じられるものを探すために。
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