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2005年12月 8日 (木)

1941(昭和16)年

昨日は二十四節気の1つ大雪(たいせつ)の日、日本列島が寒気に覆われた朝も朝顔は寒そうに数少なくなった花を咲かせてくれた。暦便覧は『雪いよいよ降り重ねる折からなればなり』とある。

64年前の今日、12月8日未明ハワイ真珠湾のアメリカ軍基地を爆撃、停泊していた大平洋艦隊の艦船の殆どを撃沈。この時打った無電が、トラ、トラ、トラ(吾れ奇襲に成功せり)である。ルーズベルト大統領はこれを騙し討ちとして非難、アメリカ国民は憤激して決起することになった。日本閣議は戦争の名称を『大東亜戦争』とすることを決定。年の瀬の16日、戦艦大和が竣工する。

尋常小学校が「国民学校」と名を変えた。四年生になった。私の通った小学校の校庭に置かれてあった巨大な魚雷に子供心にも軍人への関心を持ち、漠然と軍人なら真っ白な制服、腰に下げた短剣に魅せられて海軍を夢に見ていた。多くの子供達は誰でも願えば叶うものとの思いから、陸軍大将に、海軍大将にと夢を描いて憧れた。しかし、私は相変わらず虚弱であった。学校に近い場所に泉があり、その湧水を導いて造られた当時としては珍しい立派なプール(50X20メートル)が存在していた。毎年6月1日がプール開きと決まっていた。雨天でも震える体を水に沈め、泳いだ。泳げない子は竹竿の先から吊るした藁縄に結ばれて右に左に引かれて覚えて行った。入学したばかりの1年生は男の子も女の子も上級生が肩車して50メートるを歩いた。深い方は背の低い子はやっと呼吸ができる口で溺れそうになるのを必死で堪えて肩の子を移動させた。国民皆泳の掛け声のもと男女を問わず泳げなかった子でも泳げるまで練習を繰り返した。海洋少年団に入っていた私は体は弱くてボート(スマートな細いものではない、子どもの力では10人が並んで漕いでも進んでいるのが判らないほど円く脹らんだものだった)を漕ぐのは苦しんだが、泳ぐことは得意であった。毎年海で(若狭湾内)遠泳の検定があり、この年に四キロを泳いだ。途中尽きることのないほどの大きなクラゲの大群の頭を撫で撫で横切り、泳ぎ切った。

通信簿の評価が甲、乙、丙、丁(こう、おつ、へい、てい)から優、良上、良、良下、可になり、最も優秀なものには秀の評価がついた。学校は軍隊教育を真似て天皇の神格化をすすめた。門を入るとすぐの所に「奉安殿」(天皇・皇后の写真と教育勅語の奉書を納めるための建物)があり、登、下校時には最敬礼を義務付けられた。行事の度に取り出される教育勅語を繙き(巻き物にして保管されていた)恭(うやうや)しく読み上げる校長の手にはめた真っ白な手袋が今でも鮮やかに目に浮かぶ。

(その他の出来事)
 1月 アメリカ大統領ルーズベルトはイギリスへの援助のため武器貸与法に書名
 1月 陸軍大臣・東条英機が『戦陣訓』で有名な「生きて虜囚の辱を受けず」を指示、捕虜となった兵士の自殺を言外に臭わせた
 1月 新聞の記事掲載差し止め権を首相に貸与、記事の統制を一段と強めていった
 1月 それまでにあrった青少年団少女団体を統合させ、大日本青少年を結成
 1月 政府は閣議で『産めよ増やせよ』の人口政策を確立し、戦争で激減する男子の補充に早期結婚を奨励
 3月 尋常小学校を改称し、国民学校となる
 3月 国家総動員法、治安維持法など次々と改正し、政府の権限を拡大させる
 3月 朝鮮も国民学校に規定、朝鮮語の学習を廃止
 4月 生活必需物資統制令施行、1日2合3勺と外食が切符制になる
 4月 ドイツ軍がバルカン半島を南下、ユーゴスラビア、ギリシャに侵攻
 4月 日ソ中立条約調印
 5月 ソ連でスターリンが首相に就任
 6月 ドイツが300万の軍隊でソ連へ侵攻(独ソ戦開始)。短期決戦で望んだドイツ軍は破竹の勢いでモスクワに迫り、30キロの目前にして冬の到来とともにソ連軍の猛反撃にあい、耐寒の防備を持たないドイツ軍は冬将軍の中を戦場から撤退
 6月 大本営は6日、仏印(フランス領インドシナを云いハノイからプノンペンに至るインドシナ半島の東半分を占めていた)タイ(バンコクを含む仏印に接するインドシナ半島のほぼ西半分)進出を計画。25日には南部仏印への進駐を決定し、28日には進駐を開始
 7月 アメリカが在米の日本資産を凍結し、翌日には航空機エンジン用オイルなど、ガソリン・石油製品の対日輸出を全面禁止
 8月 ルーズベルトとチャーチルの米英主脳が会議。ドイツ・ナチス政権の打倒を含む8項目の共同宣言を発表
 8月 金属類の回収を公布。社寺の鐘、など最後には学童の穴のあいたアルミの弁当箱まで供出することになって行く
 9月 ドイツ軍がレニングラード市を包囲
10月 アメリカが日本に仏印・中国からの撤退を要求 
10月 反戦、平和を願っての工作だったがスパイ容疑で尾崎秀実、ゾルゲ両名が検挙され、3年後の11月7日両名とも死刑執行される
10月 強硬な開戦論の東條に押し切られた近衛内閣の総辞職に伴い、東条英機陸相が組閣、首相・陸相・内務相を兼任
12月 午前会議で対米英蘭開戦を決定。8日未明、日本軍は真珠湾を奇襲
12月 大江秀雄フィリピン上陸作戦で戦死。旧制中学の先輩になる。ベルリン・オリンピック棒高跳びで3位。2位の西田修平とメダルを折半してつなぎ合わせた逸話は有名。学校の記念行事に出展され、実物を目にしたことがある。

奇襲の華々しい戦果を各新聞は大見出しでうたい、国民は日本強しで浮かれ、開戦の勝利を喜び、連日の勝利の報道に酔いしれた年であった。


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