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2005年12月 5日 (月)

1938(昭和13)年

【前文】
毎日新聞(12/5)朝刊から
厚生労働省の調査によると、第二次世界大戦中、戦地での過酷な経験や軍隊生活によって精神障害を負った元軍人・軍属が、全国各地の病院に84人(今年3月末現在)入院していることが分かった。同省援護企画課によると
  福岡県  8人
  千葉県  6人
  宮崎県  6人
  鹿児島県 5人
  東京都  3人
  京都府  1人 など

入院先は36都道府県の病院に及んでいる。敗戦後60年経った現在も心に深い傷を負ったまま、多くは家族との交流もない状態だと云う。大半の人たちが60年以上に亘って入院生活を続けており、多くが80歳以上の老齢になり、近年は、毎年10人以上が死亡しているという。この他にも地域の病院に通院して治療を受けている人も59人がわかっている。

このような精神に障害を負った軍人らの大半は戦時中、国府台陸軍病院(現国立精神・神経センター国府台病院、千葉県市川市)に送られ、1937〜45年度に1万人以上に達した。
こうした元軍人らに対し、国は戦傷病者特別援護法に基づき、入院や治療の費用を支給して来ている。しかし、社会の偏見も強く、家族から見放されたまま病院で亡くなった人も多数いるものと見られている。

何という悲しい話だろう、キーボードを打ちながら涙が落ちるのを必死に堪えている。国の為に命を捧げる覚悟で家族を捨てて国を出、余りの過酷さに狂った体を今度は家族が見放す。戦争と云えばそれまでだが、この残虐さが戦争なんだ。この現実はもっと声を大きくして社会に知らせなければならない現実だと思う。

小泉は、大相撲で「感激した!」と吠えてみたり、ブッシュに満面の笑顔ですり寄ってみたり、靖国に傲然と進んでみたりする前に、このように殆ど忘れられている戦傷者を見舞うことをするべきだ。そして、自衛隊の派遣延長や、軍隊にする前に、同じ轍を踏まないように十分な検討をしてこそ国政を預かるものの取る道だと思う。

【本文】
8歳になり小学校に上がる。残念ながら入学写真もなければ記憶もない。「男子7歳にして席を同じゅうせず」の時代だが、一年生は女の子と一緒だった。
記憶の断片には夏の暑い日、かき氷屋さんで面白半分の悪戯で、氷を掻く例の手回しの氷が落ちる下から刃の間に小指を差し込んで、何も考えないで指を抜いた。当然すっぱりと指先が切れていた。吃驚して泣く声も出ず、そのまま母がいる家まで飛んで帰った。今も左手の指先の爪は右の3分の2ほどしかないが、何故あの時痛くなかったのか今でも不思議に思い出す。或いは嵐の日のこと家の横に立つ電柱に落雷があり、ラジオから一瞬の火花が走ったこと、子供用の自転車の練習中にハンドルが切れず、前輪を蓋のないマンホールに突っ込み転んで向こう脛を打ったこと、ここにも未だに消えない傷がある。このように切れ切れの記憶しかない。

一学期を終えて父の転勤に付いて一家は日本海側の地、舞鶴(当時海軍鎮守府があり、B29の空襲も受けた。造船の街でもあったが、敗戦でソビエト、満州、中国からの引揚げ船の帰港地として使われた)に転居。移り住んですぐに地蔵盆があり役員たちが集まったのは私たち家族が住むことになった家の隣だった。子供達のための行事であるはずだが、新入りの我が家の4人の子供の誰にも声は掛からず、賑やかなお囃子やお菓子も貰えず寂しい思いをしたのを覚えている。(貧しい時代の食べ物の恨みかな)菓子は駄菓子屋で1銭持って行くと口一杯の大きさの飴玉が2つ買えた時代だった。

時局は日中戦争の泥沼化で国家総動員への体制を固め、「一億一心火の玉だ」の標語の元に全てに国家統制を強めて行った。当時それでもまだ軍部にも戦争の拡大を避け、和平工作を進めることを主張する動きもあったが、時の首相近衛文麿の裁断で和平工作は打ち切りとなり、挙国一致で戦時体制に入って行くことになる。軍歌「麦と兵隊」で“徐州 徐州と人馬は進む・・・”と歌われた徐州作戦で西住戦車隊長が戦死。死後中尉に昇進するが、支那事変初の『軍神』と讃えられ、当時の大スター上原謙がその役を受けて映画に歌につくられて国民の戦争熱を煽った。7月、1940年に予定されていたオリンピック東京大会の返上が決定し、芸能人、文士たちが続々と戦地の兵を慰問するために海を渡り結果としての戦意昂揚を支えた。

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武漢作戦のおり九江にて(左端は叔父:故人)


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戦地を慰問する芸妓たち




(その他の出来事)
 1月 日本海軍陸戦隊が青島(チンタオ)を占領
 1月 近衛内閣「爾後国民政府を相手にせず」との対中国重大声明を発表
 2月 日本軍、重慶を爆撃
 3月 オーストリア、ナチ党のインクヴァルト首相がドイツとの合併を宣言
 3月 国家総動員法案可決、4月公布、5月5日施行
 3月 蒋介石が国民党総裁になる
 3月 メーデーの全面禁止
 4月 電力の国家統制
 5月 ガソリンが切符制になる
 5月 毛沢東が持久戦による抗日戦争の勝利を予言
 7月 ソ満国境で日ソ軍衝突
 9月 三菱重工業でゼロ戦(零式艦上戦闘機)の試作機完成
10月 ドイツ軍がズデーテンに進駐
10月 日本軍は武漢三鎮(漢口・武昌・漢陽)を占領
11月 パリでドイツ大使館員がユダヤ青年に射殺され、報復にドイツ全土にユダヤ人に対する組織的迫害が行われる

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