続・子育て
昔観た西部劇にこんなのがあった。
父親に率いられた無法者一家がいた。どう云う訳かこの父親は子どもたちが集団を組んでの銀行強盗、列車強盗、賭博、喧嘩などの無法は許しても、殺人だけは許さない哲学を持っていた。ある日、兄弟の中でも親父が目をかけていた一人が街の住人と諍いを起こし、銃を抜いて打ち殺してしまった。
夜になって兄弟たちの父親への一日の報告が続いた。4人が日中の荒くれを自慢した。続いて街の人を射殺した一人の報告を聞き終えた父親は、事実かどうかを他の兄弟に確認した。それを認めた兄弟の返事を待って父親はテーブルの上の銃を取り、殺人を犯した息子に銃口を向けた。口も利けずに銃の前に手を突き出し震え上がる息子目掛けて父親は引き金を引いた、息子は床にぶっ倒れて即死した。一言『人を殺すなと云ったはずだ』。
さいたま地裁は12日、3歳の長女を餓死させたとして殺人罪に問われた母親(21歳)に懲役12年(求刑は15年)の実刑判決を言い渡した。被告は先夫と別れ、昨年春から早速別の男と乳飲み子の3人での同棲を始めた。女はこの男との生活を楽しむには娘の存在が邪魔になり、10月ころからは男の目から遠ざけるために凡そ一坪(3平方メートル)のロフト(本来は屋根裏部屋だが、最近はモダンリビングにも取り入れられている)に隔離して殆ど食事も与えていなかったらしい。そして今年1月22日に死亡しているのが分かった。骨と皮ばかりになった娘の体重は3歳児の標準の半分以下の5・8キロで傍らにはお襁褓代わりの古新聞が置かれていたという。当然交際相手の男も同罪である。判決は「幼く大人の庇護に頼るしかない子は狭い空間(ロフト)に隔離され、僅かな食物や(母が)垣間見せる愛情を心待ちにしながら懸命に生き続けていた」と子を哀れんだ。とあるが畳み二枚の広さは乳飲み子には十分な広さで哀れみの誇張でしかないとは思うが。
法定では裁判長から女の「反省は心からのものと認識している。更生し二度とこういう場に立たないで欲しい」と声を掛けられ小さく頷いた、というがこんなのはその場限りの『蛙の面にしょん便』で何度でも繰り返すだろう。傍聴席では娘を育てた母親は「娘を信じて待ちます」と語ったとある。
親の悪事を働いた子への接し方には冒頭の父親のような己の持つ価値基準から信念や信仰を貫き通し(反面父親は己の殺人をどのように解釈するか)、悪は悪として社会の断罪を認める親と、何があっても何が起こっても子を守るのはどこまでも親の責任、と事の是非に拘わらず庇う愛情の表し方と両極ある。
今の日本の親たちはこのどちらでもないように思う。子を突き離して見ることのできる親は先ずいないだろう。どうしていいか解らずに、おろおろして観察もできない見ているだけの放任だろう。まして子の責任が取れる親など何処にも見当たらない。子供の犯した犯罪に、顔を出して謝る親を見たことがない。訳の解らない人権保護団体がそれをさせない。子には携帯電話を持たせ、好き勝手にする通話の支払いを窘めもできず、家に帰って来なくても異性関係さえ我れ関せず、年齢が来ても働くこともしない子の生活をせっせと面倒を見、不登校、欠席など知らん顔。
埼玉県内の児童相談所が受付けたこのような親の怠慢や子育て拒否(ネグレクトと呼んでいるようだが)に関する相談は年々増え続け、10年前には47件であった数字は04年には645件でほぼ13倍になり、今年度は8月までに既に226件の相談が寄せられている。県のこども安全課は「被害を受けた子供は、成長の遅れなど身体的な後遺症、親の無視から強い無力感を感じ、極端な無気力状態に陥る。学校や地域、行政が連携して子供を虐待から守る必要がある」と話しているが、横の繋がりの希薄な現代社会、そうは上手く運ばないだろう。
日本中に広がっている犯罪の多発現象、要はそのような親を含めて子育ての仕方を教えなければならなかった世代が、生きることに或いは国の発展のためにと、無我夢中で過ごして来た生活の中で、伝えなければならなかったのに見失ってしまった貴重な子育ての厳しさ、苦しさ、躾けのことごとくを、伝え教えることをおろそかにした酬いが噴き出したと見るべきだろう。親は親の責任について自分自身に問い、考えることから始めよう。
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