何も変わらない
選挙が寂しい結果で終わった。
テレビ、新聞が大騒ぎして面白可笑しく取り上げ、小泉の提灯持ちをした結果、狙ったとおりの終着を見た。マスコミは『国民がそれぞれに自分で判断した結果だ』と言い訳がましく口にしているが、数に流れるのは大衆の心理だ。宣伝効果は抜群だ、選挙戦中、街頭演説する小泉に“純ちゃーん”の合いの手がひっきりなしに飛び出す。韓国スターに群がる付和雷同の小母ちゃん宜しくお祭り騒ぎの風景だ。
馬鹿の一つ覚え“郵政改革”なくして全ての改革はない!。国民はこのレトリックに誤魔化され、洗脳されたように票は小泉に流れた。選挙の結果など始めから分かっているも同然。
もっと不可思議、というよりも選挙など不要とも思われる当選確実の発表。午後8時に閉め切られると間、髪を入れない時間で情報が流れる、そしてほぼそのとおりの結果が発表されて行く。選挙の意味など無いに等しい。新聞社が勝手にやってれば済むことだ。過去のデータ、電話アンケートなど、それらを取捨選択、集計してのものらしいが、どこよりも速く情報を出したいマスコミ側の理由は、害あって益なしのものと思う。こんな姿勢からA新聞のように、ありもしない会談をでっち上げてみたり、以前起きた沖縄で自ら傷つけた珊瑚礁をご叮嚀にも写真まで掲載して、スクープとしてでっち上げるバカな社員を生むことに繋がるのだ。
何時から日本人はこのような昼行灯のような人間になったのだろう。周りを見渡しても誰かの真似の流行がはやり、個性をなくし、何もかもが擬(もど)きの擬き。ファッションから刷り物のような眉毛の化粧、玉蜀黍のひげ擬きの色に染めてザンバラに切った髪(特に若い男のヘアスタイルと髭は汚らしい以外に表現がない)。他人と同じでないと疎外された感じになり、二人三人と徒党を組む。海の向こうで流行ればすぐにもぞくぞくと擬きの歌が生まれる。裏声が流行れば一層貧相な裏声の歌手が続く、そのようにして何もかも印刷機でコピーされたような個性のない人間が育って行く。
小泉が織田信長になぞらえて何か譫言(うわごと)を云ったが、人間が違う、信長は古今日本国が生んだ最高にして最大の傑物、小泉ごとき爪の垢ほどもない小物だ。それさえも理解できない人間が総理に居座る日本には当分明るい将来は期待できないだろう。今まで以上に‘ご無理ご尤も’に周りを囲まれて小泉は好き勝手をやるだろう。
やはり選挙に行かなくてよかった。またまた物言う権利は放棄した。
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