悲しみよこんにちは
9月2日仏文学者朝吹登水子(88歳)が亡くなった。
1957年天才少女作家としてデビューしたフランソワーズ・サガン(18歳)の『悲しみよこんにちは』の翻訳を初めとして、ボーボワール(「第二の性」)を世に知らしめた。因にサガンは昨2004年9月24日、69歳で亡くなっている。
私の世代には誰の名前を耳にしても馴染みの深い人たちだ。生涯をJ・P サルトルの伴侶として送り、「私にとって恐ろしいことは、たった一つしかない。それはサルトルが死ぬことなのだ。」と云ったボーボワール。ご多分に漏れず、私も若い頃には(1950〜1960ころ)実存主義に嵌り、サルトルの著書は難解ながら読み耽った。「嘔吐」「存在と無」「自由への道」「弁証法的理性批判」などなど。当時の若者たちは彼の『実存は本質に先立つ』という言葉を知らないものはいなかったと言えるほどだ。その彼は1980年4月この世を去った。
ボーボワールもまた「第二の性」で‘第一の性’たる男性に依存する女性の問題を追求し、人は女に生まれるのではない、女になるのだということを唱え、概念的にも“男”と云われるすべてを同格で“女”が持って第二の性ではなくなる、と云った。
しかし、今日はこの人たちのことから離れて1958年に映画化された(愛に破れて自動車事故で崖から海中に落ち、死亡する女性を演じたデボラ・カー、この人から匂い立つインテリジェンスは日本の女優には探しても見当たらない)『悲しみよこんにちは』に出演していた歌手、ジュリエット・グレコとシャンソンについて語りたい。
確か、1952年、好きなシャンソンを原語で歌いたくて仏語辞典を購入し、独学でフランス語を学び始めていた頃のこと、なけなしの小遣いの中から発音に慣れるため片面4分弱のSPレコード(78回転)を何枚か手に入れ盤面に針を下ろした中に、当時はまだ新人の歌手として紹介されていたグレコの歌が三曲、‘若いうちに’‘蟻’‘街角’が含まれていた。歌い始めて総毛立つ歌が流れ出た。女性とは聞こえない太い声で歌うシャンソンは、数分のうちに今もなお続く(50年以上になる)彼女の虜になっていた。
パリの一角、サンジェルマン・デプレのカフェで歌っているところを、パリに住む文化人、文人たちが集まる中のサルトルに気に入られ、サンジェルマンのミューズとしてもてはやされることになる。時を経て私は関西から東下り。グレコが初めて日本公演に訪れたのが1961(昭和36)年、新宿の東京厚生年金ホール、貧乏な私にも職業柄カメラは携えられる身分になっていた。会場内での撮影はストロボを発光させなければ許されていた。彼女の黒ずくめの衣装がスポットライトの中に浮かぶ、今も続くグレコの世界だ。トライXを使用して増感現像で何枚も焼いた。公演の後は楽屋まで押しかけリバーサル・カラーフィルムで存分にシャッターを切った。豪華なパンフレットへのサインももらった。知性溢れる大きな瞳、舞台ではアクセサリーの類いは一切身につけない、それらのもの以上に表現できる両手がある。音楽誌の切り抜き、嵩じて電車の中吊りポスターを剥がして持ち帰りもした。肝心の歌の方も発売されるものは殆どを買い揃えて来た。メディアはSPからLP(33回転)になりCDに変わった。クラシックのフルトヴェングラーとともに私の大事な二つの宝物である。
サルトル、ジャック・プレヴェール、ジョセフ・コスマ、レオ・フェレたちを筆頭に現代の若いミュージシャンたちが今でも彼女グレコのために競うように曲を提供していると聞く。それらのミュージシャンの作った曲を集めて2003年76歳になったグレコはタイトル『愛しあいなさい、さもなければ消えてしまいなさい・・・』のCDを出し、彼女の最高傑作とまで評価された。10月には来日してコンサートを開いた。
今年78歳、今なお現役であり続けるグレコはミューズでもあり続けている。
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