キレる小学生
毎日新聞(9/23)から
文部科学省の調査によると、04年度の全国の公立小学校で児童が起こした校内暴力は1,890件で、前年度(1,600件)に比べて18,1%増であったことが分った。小中高校を合計した校内暴力の件数は前年度より4,0%減っており小学生の突出ぶりが目立っている。
個々には中学校では 23,110件(前年比 △5,5%)
高校 では 5,022件(前年比 △3,7%)
小中高の合計は、校内が30,022件(前年31,278件 △4,0%)
校外が 4,000件 (前年 4,114件 △2,8%)
のように全体としては減少した傾向の中で、小学校での増加が際立っている。
小学校で最も多いのは児童間暴力で992件、対教師暴力が336件で前年度の253件から32,8%も増加している。これについて文部科学省の児童生徒課は「小学校で感情のコントロールがきかない子が増える傾向にあるようだ。忍耐力や自己表現力、人間関係を築く力が低下しているのではないか」と見ている。
千葉県北部のある小学校4年のあるクラスでは、休み時間、些細な口論から児童が暴れ出し、鉛筆や教科書を手当り次第投げつけ、椅子を振りかざす。この学校では事前に決めた抑止役の男性教諭たちが駆けつけ、男児数人を押さえつける。50代のベテラン女性教諭が担任だが、4月当初から授業は崩壊。5月の連休以降はほぼ毎日暴動が起きた。保護者有志数人が授業を監視する事態になり、学期途中で39人のクラスを二分し、小人数クラスにして対応した。それに暴れる児童は決まっていて、カッターナイフを持ち込んだり、級友の肩に噛みついて一週間の怪我を負わせたり、教師に悪態をついたりしていた。こういった児童には協調するものが2〜3人いて加わる。
保護者会には生徒の親は出て来ず、担任の家庭訪問で返って来る話は「家ではいい子。暴れるなんて考えられない」と繰り返すだけで解決の糸口もない。
小学校が荒れている背景について識者と云われる人たちはさまざまな意見を口にしている。
♦明治大学(教育学)斉藤孝、曰く、「少子化や核家族化で、人間関係の絶対量が不足しているのではないか。学校で感情をコントロールする訓練が必要だ」
♦フリースクールの草分け奥地佳子(理事長)曰く、「数年前から小学生の暴力は増えていると感じていた。少子化で子供に対し。親や教師を含めた多くの大人が期待を掛けるようになり、そのことが子供達のストレスや緊張になっている」
♦教育評論家、法政大(臨床教育学)尾木直樹曰く、「ゆとり教育の反作用で、週5日制のもと、以前より詰め込みが酷くなり、子供のストレスは高まっている。些細なことが対教師暴力に繋がるのではないか」
などである。
いずれも当を得ているようであるが、いずれも本質について見落としているものがある。少子化などではないし、ゆとり教育の問題でもないし、詰め込み教育などではさらさらない。答えは先の文章の中、親の無責任にあるのだ。「家ではいい子、暴力なんて考えられない」という親の無責任。小学校に上がってからでは既に手後れだ。親の目に映る自分を拵える悪知恵を身につけ、すでにT・P・Oを使い分けることができるようになっている。
家庭や校外にあっては父親が、或いは母親が、評論家もどきに教師の悪口を云う。「本来、勉強は面白いもの、学校は楽しい所だ。そうでないのは先生が悪い」と。これは一ヶ月ほど前のテレビでの先生たちと識者たちとの討論の場で、まあまあ頭が良い、と思われているタレント、ラサール石井の発言だが、その場で「それは、優等生の云う言葉」と揶揄されて、一層むきになり、額に青筋立てて反論していたが、このようなバカな親が口にする教師を蔑んだ発言こそが、子供に影響し、「そうだ、面白くない、先生が悪いからだ」と益々波及効果を生み、学級崩壊の糸口ともなるのだ。識者ぶったこのような一言がどのような結果を生むかを考えるのが大人の、親としての子供への愛だろう。
親は生んだはいいが、乳飲み子を託児所という手荷物一時預り所まがいの施設に預け、他人にわが子を世話させ、愛情の注ぎ方も知らない。他人がどんなに可愛がってくれようが、親の愛情にまさる育て方はない。盲目的に働いて家庭を、家族を支えた団塊の世代に育てられ、鍵っ子(託児所も、携帯電話もない時代、外に出る親は子供を家の中に閉じ込めたことからそう呼ばれた)として成長した現在の親たちも、やはり親の愛情を注がれることもなく子供を生むことになった結果が現在の家族を構成しているのだ。苦しい生活の中、父親の低収入を口汚く罵る母親、男女同権を声高に、女権運動が鬱勃として起こる最中でもあり、『男なんてなにさ』と女性の社会進出が目覚ましく、家庭にあって家を守る女性への蔑視を口にする同性まで出現するまでになって行っった。
しかし、よく考えてみよう、男には絶対に不可能なことがある。命を生むこと、母体に種を蒔くことは出来ても命をこの世に生むことはどんなに優れた天才であろうと出来ないことだ。そして、生んだ子は母親の乳房を吸い、スキンシップが始まる。しっかりと抱かれた胸を透して体内で聞いた心臓のリズムを聞き止め、満腹して安心して眠る。体型が崩れるから、と粉乳で済ます馬鹿女もいるようだが、自ら子供への愛情を放棄していることに気がつかない。(そのように望んでも母乳のでない女性のことは今は触れない)
私は母親は子供が母乳を必要とする間は働きに出ることには反対の立場を取る。父親の育児休暇など何の役にたつか。哺乳びんで乳房の代わりなど不可能だ。赤ん坊は満腹するだろうが、肝心のスキンシップが全く出来ないことを知るべきだ。お襁褓を代えることぐらいできるだろう、私の妻は全く勤めたことがない。私の世代の男には現在の男にはない古風な意地があって、“女房に働かせるなど男の屑だ”と教えられた世代。封建時代そのままの世代だけれど、勤めからどんなに疲れて返って来た時でも、首の座らない赤児の入浴を怖がる妻に代わって私が連れて入り、紙お襁褓のない時代だが、大小便の世話もした。しかし、これも妻が家にいたから効果があった。
女性の子供を生みたくない理由に、経済的なことが一番に上げられたり、託児所が少ない、働き易い職場でない、児童手当の増額を要求したり、子供に対する愛情の欠片もない。このような自己主張だけをする親に育てられた子供たちが今、切れているんだ。テレビで時々放映する大家族の子供達の成長記録、兄弟姉妹同士の喧嘩、殴り合い、親のビンタありの中で、それぞれお互いの羨ましい程の溢れる家族愛、信頼、尊敬が満ち溢れているのを見る。『元始、女性は太陽であった』と女性を称えた平塚らいてう(らいちょう)の言葉を今の世の女性に再び贈りたい。
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