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2005年8月16日 (火)

1945(昭和20)年 8月

私のホームページからの転載である。1930年(誕生前年)から現在まで歩んで来たことと、日本の移り変わりを一年ごとに書いたものの抜粋である。

昭和20年、旧年齢で15歳(当時は数え年を使う習慣であった)現在の満年齢で13歳と2ヶ月。学徒動員で働いた海軍工廠の食事は旨かった。一般家庭では水ばかりの雑炊並みの食事が当たり前であったのに比べ、大豆の大量に混じったご飯であったが畳み二畳ほどもある大釜で作る炊出しのせいか、しっかり嚼み応えのある美味なものであった。木工部の作業にも慣れて来た冬の寒い朝だった。四人で電柱ほどもある丸太を工場内に搬入することを命じられた。数日前から降り続いていた雪が纏わり着いた丸太だった。四人は持ち上げて歩き始めたが、濡れた木の肌に降り積もった雪は表面がざらざらした氷状に凍結していた。抱え直しては何度か歩こうと努めたが手がかじかんだ上に少年たちには重過ぎた。誰かが口を切った。「止めよう」、「ああ、止めよう」と、丸太を雪の中に捨てて工場から消えた。結論からいえば明確なストライキであったが四人の誰にも自覚はなく、単純に冷たくて重く、少年の手に負えなかっただけの認識しかなかった。翌朝、早速懲罰が下った。全員が揃って整列した最前列に並ばされた四人の頭を目掛けて材料には事欠かず、散らばっている木片を掴み上げると勢い良く振り降ろされた。最後の私の頭を打った木片は、折れて飛んだ。

8月、人類史上初めての原子爆弾が広島に落とされ、続いて長崎に落とされた。

1942年の本土初空襲から4年の間に全国200ケ所(最近の調査では400ケ所)にも及んだ都市町村の無差別爆撃による被害は、非戦闘員の死没者約38万人、罹災者は1500万人という空前の犠牲者を出して敗戦となった。

連合国に無条件降伏をして敗戦を迎えた日本は、マッカーサー元帥が8月30日に厚木基地にやって来るまでの二週間、戦争を指導してきた内務省、外務省、軍、警察は戦争犯罪を隠蔽するために、手元にある大量の資料を焼き捨てている。現在にまで続いて残っているこの国の腐れ切った、事実をなかったことにする犯罪とも云うべき共犯作業である。

マッカーサーは9月2日の陸海軍の解体命令に続いて、東久邇宮内閣が実行できないとして総辞職することになった天皇制問題を討議することの自由、政治犯の釈放、思想警察(主に左翼思想の取締り)の全廃、特高員(特別高等警察)の罷免などの指令を10月4日に発表。矢継ぎ早に特高警察の廃止、人権確保、自由主義化などを盛り込んだ憲法改正の指令を出す。続いて15日には治安維持法の廃止、11月に入ると財閥解体指令、12月には陸・海軍省を廃止、引き続いて戦犯の逮捕、17日には早くもB、C級戦犯の裁判が開かれ約300人が対象になる国内最初の裁判となった。

日本の敗戦で強制連行されていた在日朝鮮人、中国人たちの解放を求める運動が各地に起こり、9月19日北海道三井・三菱の美唄炭坑で約2000人が退職金、弔慰金を要求して蜂起、石川県七尾市では中国人約400人が警察署を襲撃、10月8日夕張炭坑では朝鮮人労働者約6000人が労働条件改善を要求してストが起こった。

一方最後まで戦火に耐え神風を期待した国民は、敗戦が濃くなって指導者たちの国体護持だけに慌てる無策の陰で、命や財産を失ったまま焼野原の中に放り出されることになった。

(その他の出来事)
1/16 B29 一機が飛来、京都を空襲。27日東京に飛来、銀座、上野を空襲
1/17 ポーランドのワルシャワを占領したソ連軍は27日アウシュヴィッツ強制収容所を解放。(作られて5年の間にユダヤ人を中心に400万人がガス室などで殺されたと云われる。
2月  近衛文麿が敗戦を予想し、敗戦後の共産主義による革命を避けるための早期和平を天皇に奏上
2/25 B29 約200機が東京を空襲
3/4  B29 東京を空襲
3/10 B29 約330機が東京を空襲、焼夷弾の投下で下町一帯が全滅、死傷者112万人
3/11 鹿児島県鹿屋基地から特攻が南方に向け出撃始まる
3/13 13日〜14日にかけてB29約300機が大阪、神戸、尼崎を空襲
3月  硫黄島の日本軍守備隊約21000人が全滅、捕虜となった者約1000人、アメリカ軍死傷者も28000人に上る。同じ日 B29約60機が神戸を空襲
3月  18〜19日にかけてアメリカ機動部隊の艦載機千数百機が東京、中国、四国、九州などを空襲
3月  B29百数十機が名古屋市街地を爆撃
3月  敗戦が決定的になってヒットラーはドイツ全土を焼き尽くす命令を出す(古代ローマの皇帝ネロの故事に因みネロ指令と呼ばれる)
●3/26 アメリカ軍が沖縄、慶良間諸島に上陸を開始
3月  28〜29日にかけてアメリカ艦隊の艦載機延べ1300機が九州地方を空襲
4/1 アメリカ軍が沖縄本島に上陸を開始
4月  ソ連は日ソ不可侵条約の不延長を通告
4/7 戦艦『大和』は沖縄近海に出動したが届かず、九州南方海上でアメリカ機動部隊艦載機の攻撃を受け巡洋艦1、駆逐艦4とともに撃沈
4月  ルーズベルト大統領が急死、副大統領のトルーマンが大統領に
4月  13、14、15、16日とB29約330機が東京、横浜、川崎を空襲
4/28 前日パルチザン部隊に逮捕されていたイタリアの元首相ムッソリーニが人民裁判で銃殺、死体はミラノのロレッタ広場に逆さ吊りされて人々の目に曝された
4/30 ドイツの総統ヒットラーがベルリンの地下室壕(軍指令室)で愛人のエバ・ブラウンとピストル自殺
5月  ソ連軍がベルリンを占領
5/7 ドイツは連合国に無条件降伏
5/13 艦載機約1000機が南九州の航空基地などを爆撃、同じ日と14日、名古屋にはB29約480機が来襲、名古屋城焼失
5/24 B29約480機が東京を空襲、宮城内大宮御所など炎上し、東京の市街地の大半が焼失
6/7 近代日本の最大の哲学者西田幾多郎死去
6月  占領後のベルリン分割を決める(米・英・仏・ソ)
6月  ここに来ても戦争指導者たちは国民に死ぬことを求め、天皇臨席の最高会議でも本土決戦の方針を決定する
6月  沖縄本島の戦場で負傷者看護の女子師範、第一高女の生徒49人が洞窟内で集団自決
6/23 沖縄の日本軍守備隊全滅、戦死者9万人、民間人の死亡者約10万人
6月  この頃B29に加えて沖縄や硫黄島から発進した爆撃機や戦闘機、日本近海にいた機動部隊の空母艦載機が地方都市まで爆撃、空襲が激化する
7月  アメリカ(トルーマン大統領)イギリス(チャーチル首相)ソ連(スターリン首相)にょる対日ポツダム宣言(ドイツの占領政策、ソ連の対日参戦)が発表されたが、日本は宣言を黙殺し、戦争継続を決める
●8/6 B29が広島に原子爆弾を投下(死者約20数万人)


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   原爆ドーム

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  記念碑から見るドーム


8/8  ソ連が対日宣戦布告、満州北部、朝鮮、樺太に進行を開始
●6/9  B29が長崎に原子爆弾を投下(死者約14万人)
8月   政府は中立国スイス、スウェーデンを通じて国体護持を条件にポツダム宣言の受諾を申し入れたが、解答には天皇について何も触れられていなかった
8/15 録音による天皇の終戦の詔勅を放送、無条件降伏による敗戦である。

父の勤める会社の社宅で数少ないラヂオを持ち合わせていた我が家に近所の人たちが集まり、当時の性能の良くない雑音混じりの中から、天皇のあの甲高い声音と独特の節回しの放送を皆は畏まって聞いた。まだ13歳を越したばかりの耳に聞こえるのは難しい言葉の連続だった。その中に、一際強い口調の言い回しを聞き逃さなかった。10日ほど前に広島と長崎に落とされた爆弾のことが噂されていた中で、天皇がこの爆弾に触れて発言したからであった。今でも鮮明に覚えている。『敵は新たに残虐なる爆弾を使用し、頻りにムコ(?)を殺傷し・・・』この「ムコ」が 「無辜」であることを後に知った。まだ原子爆弾とは解らなかった。この日で太平洋戦争(日本は大東亞戦争と呼んで始めた)、第二次世界大戦が終わる。1931年の日中戦争勃発以来の9年間だけでも、軍人、民間人の戦没者は厚生省の算定では310万人を数える。

8月  敗戦処理内閣として皇族の東久邇宮が首相に任命される
8/18 満州国皇帝退位、満州国消滅

●8月政府は占領軍向けの性的慰安所の設置を指令し、27日には早くも東京大森で開業する

8月  マッカーサー元帥が厚木飛行場に到着

●9月2日 東京湾に停泊中のアメリカ戦艦ミズーリ艦上で日本は降伏文書に正式に調印。全権大使外務大臣重光葵(まもる)は脚が不自由で、杖をついて居並ぶ連合軍の前に進みより、後ろ手をして前に立つマッカーサーの前で降伏文書にペンを走らせる姿が痛々しく、勝者、敗者の対比が生々しく脳裏に焼きついている。艦上には乗組員の水兵たちが立錐の余地なく群がり、砲芯にまで跨がって鈴なりで見下ろす様は敗者の惨めさを際立たせた。同日、連合国軍総指令部(GHQ)は指令第一号を発表し、陸海軍の解体、軍需生産の全面停止を命令。また同じ日、マッカーサー(連合国軍最高司令官)は米ソ二国間で 朝鮮 を38度線で南北に分割占領することを発表。

9/11 GHQが戦争犯罪人の逮捕を命令(東条英機ら39人)
9月  中等学校以下の教科書から戦時教材の削除を通達、墨汁で塗り潰した所謂墨塗り教科書を使用することになる
9/26 哲学者三木清が共産主義者を匿ったかどで逮捕され、獄死する
9/27 天皇がマッカーサー元帥を訪問。リラックスして両手を腰に当てたマッカーサーの横に、畏まって立つ天皇の写真を不敬罪にあたるとして発売禁止とする政府に対し、GHQは発禁の停止を指令した
10/11 映画「そよかぜ」の主題歌、『リンゴの歌』(並木路子)が広がる。敗戦に打ち拉がれた心に軽快なメロディが明るい灯を点してくれた
10月 特高警察が廃止、続いて治安維持法が廃止
12月 婦人参政権が認められる
12月 GHQが修身、日本歴史及び地理の授業の停止を指示

     多くを朝日新聞社発行「週間20世紀」を参考にした

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コメント

10代の頃は、歴史という知識でしか認識していなかったのですが、年齢を重ねるごとに戦争についてよく考えるようになりました。
それは日本が経済や産業などで、アジア諸国との関わりを求めているが、ことあるごとに戦争責任を追求せずにはいられない他国との衝突が見られるからでしょうかね? ( ̄-  ̄;)

わたくしの祖父は明治生まれ、祖母は大正生まれで、共に戦争を乗り切ってきた人達から、子供の頃、当時の話を聞きました。
けど、あんまり話したがらなかったです。
目に涙をためて話していたのが印象的でした。子供だったせいか心中を察することが出来ずに慰めの言葉一つかけてあげられなかったことが、今、後悔として残っています。

投稿: X子 | 2005年8月17日 (水) 03時08分

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Clint\'s double take ・・・タイムの記事へ      1945年、戦況は明らかに日本軍不利に傾いていました。奇跡を信じ続ける当時の日本政府幹部たちも、徐々に失われていく選択肢を前に、自暴自棄の心境に陥っていました。このときの彼らには、本土爆撃の恐怖が、脳裏をかすめていたはずです。だからこそ、死守しなければならない場所が硫黄島でした。 この小さな島の頂は、169mの摺鉢山でした。この頂に、今から60年前、星条旗が掲げられたのです。6... [続きを読む]

受信: 2005年11月17日 (木) 01時05分

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