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2005年7月30日 (土)

愛煙と嫌煙

昨日(7/29)どこかのテレビ局がやっていた。
東京の千代田区が2002年10月に実施した路上での喫煙者に対して2000円の過料金をその場で徴集。これを真似て路上喫煙禁止地域・美化推進地域の設定が全国規模で広がり、今では東京都内の3市9区の他にも各地で禁煙運動がヒステリック(敢て云う)に進められている。

千葉県市川市が条例で同じことを決めて(2004年4月)、市の関係者による監視状況を報道した。市川市も過料金は即その場で徴集されることから、喫煙していて注意を受けた人間は逆切れしたり、叶わぬ抵抗の押し問答を繰り返したり、最後まで歩きとおして係員に後を追い掛けさせて、遂には電車に乗り込んで姿を消したりでそれこそ人さまざまの応対を見せていた。

途中、嫌煙家と愛煙家を登場させて意見を出させていたが、嫌煙家の売り言葉に愛煙家の買い言葉では話にならず、何の為に対立意見の人間が出て来たのか不可解なままに終わった。嫌煙家は云う、愛煙家の‘愛’は‘哀’の字が相応しい、と。一方愛煙家はそれで気が済むなら勝手に云ってればいいじゃないか、と。この市の場合、駅近辺には1300枚に上る禁煙バツマークが路上に、壁面に、至る所に張り巡らされ、煙草のポイ捨て以上に街を汚していることには無関心。特別地域を設置することへの意見は何も出ず、喫う喫わないが当面のことになる。評論家らしき人間も顔を出してありきたりの意見を口にする。「要はマナーを守って云々・・」と、余りにも平凡。

私が云う嫌煙家のヒステリック性は、煙草にニコチン、副流煙には一酸化炭素、タールなる有害物質が含まれており、肺がんを誘発する危険があるから、ということに尽きる。そのとおりだと思う。しかし、ある人が亡くなり、この人は煙草を喫ったために癌になり死亡しました、と云う例が存在したか。煙草を愛用した人は、喫わない人に比べて癌の発症率がやや高い、ということに過ぎないのが実体だろう。これにも笑い話がある。今世間を騒がせているアスベスト塵灰、この肺癌の病状を煙草のせいにしたヤブ医者が実際に存在していたのだ。余りにも煙草の発癌性がヒステリックだから、こんなヤブ医者も生まれるんだ。今は愛煙家の喫う権利を全く無視したことが行われているとしか思えない。

私は煙草を一時休止してから15年経つ。一日60本も喫っていたヘビーだったが、取り立てて何の目的もなく休止している。長生きとか、肺がんを恐れての健康のためとか、家族のためとかじゃない。(余談:『・・とか』はこのように二つ以上の物事を並べて表現したい時に使用する。現在の若者たちに限らず、テレビに携わる人間たちでさえ、『・・とかァー』で次に何も並べるものが来ない使い方が極端に目立っているが、バカに見えるから止した方がいい。)私は喫いたくなれば何時でも戻るつもりだ。煙草は決して旨いものじゃないが、興奮している心を鎮め(初期の医者は患者に沈静効果ありとして奨めたくらいだ)、落ち込んだ時には気持ちをすっきりさせてくれる。

ヒステリックな煙草攻撃には酒飲みに一言。酒には、口腔内、咽頭喉頭、食道、肝臓癌を誘発する物質が含まれ、アルコールの中間代謝物質のアセトアルデヒドには発癌性が確認されているのだ。アルコール度の高いものほど誘発性は高くなるのは当然のこと。いや酒飲みに八つ当たりで論点をぼかしちゃ不味い。

それほどに煙草が悪いものなら姑息な手段じゃなく、いっそのこと日本の国内では大麻のように煙草の葉の育成を禁止し、輸入もしない(アメリカは怒るだろうが)、発売も禁止すればいい。(過去に禁酒法でアル・カポネを生んだように日本のヤクザが喜ぶか。)煙草を売って税金の二兆三千億円が国庫に入り、七兆円の損失を生んでいる現在だが、結果税金はゼロになる反面国家の煙草による経済損失もなくなる。

これで一段落するから次のターゲットは煙草以上のドラッグ、酒の撲滅だ。酔っぱらい運転の人殺しもなくなり、あちらこちらのゲロもなくなり、酒臭い息を吐く奴もいなくなって、地球は綺麗になるぞ!。


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2005年7月29日 (金)

ビロウ

東京テレビ(7/28)に朝から宣伝されてテレビ画面に出て来た文字ビロウ。私のような旧い時代の人間にはビロウの文字は直感的に下(しも)の話に思いが行く、意味は『汚い様子』で字は尾籠と書く。

勘違いと気付くには暫く時間が必要だった。宣伝のビロウはどうやら違うもので、当日の夜、放映さる2002年アメリカで作られたサスペンス、ホーラー、SFに分類される映画とわかった。
 ‘below’も‘billow’も日本語表記にするとビロウとなるが、アクセントの位置が異なる。
しかし、どっちでもいいことだ。現在は映画の題名に英語の原題をカタカナ表記にするだけのことが圧倒的に多くなっている。映画製作会社、或いは監督やプロデューサーの意志で、日本側の輸入配給会社が勝手に変更できないことが多く、英語に馴染みの薄い、英語は敵国語として排斥した世代にはチンプンカンプンになることがある。

要はアメリカ版“ひゅーどろどろ”【日本の映画では恨みを抱いて殺された多くは女の幽霊が出てくるお化け映画で(サスペンスあり、ホラーあり、SFの世界まである)、これも多くは川端の、或いは墓場の柳の木の下で、脚をなくした死装束姿で両手を前にかざしておどろおどろしく現れるときの表現に使われた】か。

私たち世代に現在のアメリカ映画が魅力がなくなっている要因に、コンピューターグラフィック(以下CGと表記)の無闇矢鱈な多用がある。これ見よがしの技術には面白さの欠片もない。単純に紙芝居を綺麗にして見せただけの価値しかなく、「ああ、これもCGか」「この程度なのか」「やっぱりCGの世界だな」で、金の力でどう複雑に細密に作っても迫力もなく、凝れば凝るほどお笑いになる。良い言葉がある、こう云うのを「噴飯もの」と云う。可笑しさに堪え切れず、食べかけていた飯粒を吹き出す意味で、馬鹿馬鹿しくて思わず吹き出して笑うことだ。映画界テレビ界はCG流行りの世界だが、策に溺れた技術自慢の行き過ぎの感は免れない。

日本のテレビ・コマーシャルでは顔の表情を変えるだけの幼稚な技術から、野生の動物の平原の世界にCGを持ち込み、ライオンとシマウマの抱擁を作って見せた馬鹿もいるが、これこそ哲学を云々する前に典型的なお遊びの噴飯ものの例に過ぎないものだ。

やはりお月さまには兎がいて、餅搗きをしている方が好ましい。

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代表校続々と

夏の風物詩、甲子園の高校野球大会

今、酣(たけなわ)の全国で開かれている選抜試合。こう書けば高校球児のさも溌溂とした大会のように感じられるが、実際はいかにも情けない試合の連続だ。
それが格好良いと思っているのか眉毛を剃り落とし(紛れもない化粧する女性らしい男)、或いは中には剃り込みを入れた街の兄ちゃん風のも混じって白球を追い駈ける。
結果どちらかが勝ち、どちらかが負ける。勝負の世界だから当然の結果として決まる。このことは参加している全員は承知していることだ。自分達が勝てば負けたのは相手校。或いはその逆の結果が出る。

私が嫌うのはここで負けた高校の人間の泣く女々しい姿。全国には凡そ4140の高校があり、選抜に参加するのがそのうち何校かは分らないが、何れにしてもその頂点に立つのはたった一校だけなんだ。だとすると日本中では幾らの数の高校で泣き声が上がっているのだろう。だから女々しいと云うのだ。勝つも負けるも時の運、強いから勝つのではなく、勝ったものが強いんだ。これはプロ野球の世界を見てみれば如実に解ろうと云うものだろう。最後に残ったものが強かったんだ。(このことを「国士無双」という映画で1932年、伊丹万作がすでにカリカチュアライズしている。)

中には涙が美しい、と云う人も多い。そんなセンチメンタリズムを口にするから今の日本には優しいだけの男がはびこり、腐ったような裏声で唄う歌い手がもてはやされ、テレビは女か男か解らない人種に人気が集まり、“ヨン”のようなオカマ紛いの韓国俳優がもて、女の自己主張が益々増長する結果を招いていることに気が着いていない。
負けて泣くような試合は初めからするな、ちっとも美しくもないし、男らしくもない。(必ず男らしいとは何か?と聞くヤツはいる)。その結果、本番の甲子園で負けて未練たらたら土を持ち帰ることもするな!

だから高校野球は嫌いだ。泣くなら最後に勝って泣け。

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2005年7月25日 (月)

暴走族、夏休み

昨日(7/24)午前3時50分頃、神戸市中央区のJR三ノ宮駅前の市道交差点付近で暴走族が道交法違反(転回禁止)をしている、との市民からの通報を受けてパトカーが急行。近くの交番からの応援も得て男(17〜20歳)一人を逮捕して手錠を掛け三ノ宮駅西側の高架下でパトカーの後部座席に乗せた。
駅のすぐ近くに通称「でこぼこ広場」と呼ばれる場所があり、周辺は夏休みに入って最初の週末のため暴走族が集まり、その若者たちが暴徒化して騒いでいたらしい。
パトカーを発進させようとした時には車の周囲は20〜30人に取り囲まれ、車の前には暴走族風の男が立って妨害をしていた。その時周りを取り囲んでいた群集の誰かがドアを開け、ロックを外した男を引きずり出して逃走を助けたという。その間僅かに二分程度という。
逃げた男は上半身裸で手錠を掛けられたまま。男が乗っていたバイクは今月初め市内で盗まれた車であった。

情けない、役に立たない、哀れ、としか言いようのない警察。毎回毎回の大捕り物をしても網に懸かる鼠は1、2匹、挙げ句の果てに折角捕まえた鼠を逃がすとは。
何の為に腰に警棒やピストルぶら下げているのか、妨害する奴などぶん殴り、ピストルを取り出して威嚇射撃して、跳ね飛ばして発進させればいい。発進する車の前に立てば轢かれることぐらいは幾ら足りない奴でも知っていよう。知ってて立てば車が動けば下敷きになるのは解るはず、その結果死んでも自分で招いたものだ。
思想こそ違っても1989年6月4日、民主化を求める学生や市民に対して人民解放軍が武力弾圧を行った時、抵抗する市民が前進する戦車の前に寝転んだ勇敢な中国の青年とは、情けないが計り知れない差があるのを認めない訳にはいかない。(第2次天安門事件)

それに掴まった奴は何故逃げる。掴まる勇気もなくて何故バカな暴走行為をするのか。禁止された行為をする時には掴まることを覚悟してやれ! 結果掴まった時にはそれこそ男なら男らしく捕まえられろ!

それ以上に腹が立つのはこいつ等の親だ。深夜の徘徊がどうして止めさせられないのか。首に縄つけて柱に縛りつけてでも外に出さないようにしろ。親はそれだけの重い監督責任を負っているのが解らないのか。

夏休みに入り携帯電話を持ち、家に帰らないプチ家出をする不良少女、少年がすでに街なかに徘徊を始めている。夏休みが終わる頃、どれだけ多くの犯罪、被害に会う子どもたちがいるか、その時になって親が泣いても後のまつりだ。すべて親の責任なんだから。

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2005年7月24日 (日)

大リーグと日本プロ野球

巨人、大鵬、玉子焼き、と昭和37、8年から45、6年の当時、少年たちの心を占めていた大好きなものがあった。この言葉の意味は巨人が好き、という裏には巨人と拮抗する他球団との比較が存在するし、大鵬という強い関取には人気を二分した柏戸(後に二人は揃って横綱になり、柔と剛の代表としての関取)がおり、今ではカレーライスと答える子どもが多い食べ物の代表は当時玉子焼きであった。しかし、これはマスコミが作り上げたキャッチフレーズのようなものだから、巨人、大鵬、カレーライスでは語呂が悪いので玉子焼きにしたものだと思うが、確かに時代を掴んだ上手い文句だ。

それから40年以上を経過して、プロ野球の世界、相撲の世界はともに低迷期を迎えている。
プロ野球では少年たちの憧れの巨人の惨めな姿が連日写し出され、世を上げてその凋落ぶりを論(あげつら)っている。私は野球に関しては巨人など眼中にない往時の西鉄ファン、中西、豊田、関口、仰木(現オリックス監督)などなど。ただ、巨人でも個人的には早稲田実業から初々しく入団した王(現ソフトバンク監督)はずっと見守って来た。巨人が負ければ嬉しく、王の活躍だけを期待した。長嶋もいたが若い頃の彼は脳天を突き抜けるような甲高い声を発して喋り、人一倍パフォーマンスをして見せる私には肌の合わない人間だった。
その後西鉄がなくなり贔屓のチームはなくなった。ただそれでも巨人が負ければ嬉しくて、通勤電車の中ではページを大きく広げて読んだりする嫌な人間だった。

後になって手の届かないと思われていたアメリカ大リーグを睨む選手が出て来て野茂がその先便を切った。

一方相撲界では数年前のことに過ぎないが、貴乃花、若の花の兄弟横綱が現役の頃までは、連日の満員御礼が出て現在のような低迷の心配はないかのように見えていた。しかし、これも一時危機を危ぶまれたこともあった。外国人の入門が増え、恵まれた体躯でめきめきと上位にのぼり、最高位が取り沙汰される頃には日本古来の国技ゆえに外国人の横綱は如何?との声まで出、今に横綱が全員外国人になるのでは?との笑い話のような話しさえ囁かれた時代もあった。そのために、直後に生まれた日本人横綱貴乃花、若の花の兄弟横綱の誕生は挙って喜ばれ、それは嵩じて入門時から醜名(しこな)を呼ばず、兄を“お兄ちゃん”と呼ぶ阿呆な習慣を生み、二人が相撲界を去り、父(親方)の死を境にして元に戻らない亀裂が表面化した今になってメディアも二人の険悪な仲に、流石に自分達が拵えた“お兄ちゃん”は使いづらくなって“花田勝”を使用している。だが今日は相撲界のことは一先ず置いて次に進む。

プロ野球界の沈滞に関して日頃考えていることを一つ、二つ述べて見たい。先ず、
毎朝家庭に届けられる新聞記事(スポーツ記事に限る)に目を通して気がつくことの一つ。何故だか日本国内のプロ野球に関する記事よりも、海の向こうの大リーグにいる日本人選手が大きく取り上げられていること。国内選手の活躍はモノクロ写真でも海の向こうの人間がカラー写真の場合がしばしばあること。
戦後真っ先に日本を飛び出したピッチャーの野茂が大リーグ入りを希望した当時、日本の殆どのマスメディア、野球評論家、プロの先輩たちは大リーグのレベルを野茂ごときが行ってもどうにもならない世界と読んでいた。ことろが豈図らんや、であった。目覚ましい働きが日本に舞い込むと、「俺はやると思っていた」「やはりな、彼奴はやると思っていたよ」と先見の明を競う恥知らずの輩が陸続と現れることになった。

次に、彼がいなければイチローも松井もどうなっていたか解らない。そんなことはどうでもよい。彼等は皆日本の野球界を捨てて飛び出した男たち、どう活躍しようが日本の野球界には何も足しにならない。第一彼らは日本のために野球をしているのじゃない。日本でもセ・パを通して投手なら10勝以上、野手なら打率10傑、ホームラン10傑、打点10傑に仲間入りしていれば誰が行っても通用する。さして変わらないレベルを過大評価し、契約金に羨望する。そう云った選手を新聞が、テレビが、紙面を割き、時間を割く。日本を捨てて去った選手の後を未練がましく追い掛けるのはいい加減止せばいい。たまに打ったホームランを打った打ったとNHKはスポーツニュースでもない時事ニュースで流す。日本の野球を蔑(ないがし)ろにするのもいい加減にしろ!新聞、テレビのこんな取扱いに日本の球界はものを云う必要を感じていないのか。マスメディアそれ自体が自ら日本のプロ野球界を沈滞させる原因を作っているのに。

巨人の沈滞にはまた、他の原因がある。巨人の主軸に生え抜きがいない。他球団から金が目当てで集まった連中で作られた集団だ。口で“男意気に感じて”“飛んでもない金なんて”とは云っても日本ハムに行った新庄のように“指名があれば契約金なんか問題じゃない”と真っ先に名乗りを上げた球団に飛び込み、生活の基盤さえ北海道に移したような真似は出来まい。

今年のオールスター、巨人からはたった一人、耳にピアスの選手が選ばれたが、彼は西武の出、巨人には他に広島、近鉄、ダイエー、以前にはヤクルトなど、誰がバッターボックスに立っても巨人の選手には見えないのが実体。ピッチャーの工藤などは未だに西武の印象が強い。いくら巨人のユニホームを着たからって心底それまで敵であった選手を好きになれるか、しかし、巨人のファンだけには味方に見えるのだろう凄まじい応援をする。特に今年は藁をも掴みたい心境か。昨日の敵は今日の友の心境なのだろう。しかし、どこの球団にもこういった友の加入はあるにも拘わらず何故巨人だけが嫌われる。誰もが思い当たるのが金。他の球団には他球団からの主軸を寄せ集めて数珠つなぎにするだけの金がないだけなのだが。

要は私に言わせれば、マスメディアの日本球界に関する取り上げ方に良くしようとする姿勢が見えないこと。これはどのスポーツでも言えるのだが、スポーツを取り上げるのじゃなくて人気スターだけを追い掛ける安易な諂(へつら)いがあること。或いは逆に情報の受け取り手を見下しているのか、のどちらかだ。


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2005年7月22日 (金)

まさか!

同じく毎日新聞(7/21)夕刊より
「空襲被害データベース化 全国から資料集めネット公開 総務省10月からスタート」
まさか!目を疑った。敗戦後60年、国は一体何をやっていたのか、6月のブログ《敗戦後60年》で書いたのは、将にこのことだ。敗戦で終わった事実を終戦と言い替え、やれやれ、ほっとした、で済ます。責任は誰も取らない追求しない。真珠湾攻撃から始まり、原爆投下で敗戦となった四年間の事実の総括は何一つしていない。

八紘一宇だの大東亜共栄圏だのと口にし、そのために大東亜戦争と称して“聖戦”を錦の御旗とし、緒戦の勝利を大活字にかかげ、“撃ちてし止まん”“一億一心火の玉だ”“欲しがりません勝つまでは”と国民挙(こぞ)っての協力を呼び掛けたマスメディアもまた、自らの責任は敗戦を切っ掛けに固く口を閉ざし、ほんの一握りのトップ人事の引責だけでお茶を濁した。(このことはその後、民主主義の波が大きくなり過ぎた1960年の安保闘争に慌てたメディア七社は共同声明を発して“議会制民主主義に戻れ”と呼び掛け、その後の日本の右傾化して行く道筋をつくった。その体質は戦時中の権力への迎合と何一つ変わらない。)

全国200箇所以上の市町村に及んだ空襲による犠牲者は50万人以上とも云われ、これまでにも各地方自治体や、民間団体が記録づくりをして来ているが、国が国土への空襲と云う出来事の集計に60年の時間を無駄にして、国家規模での纏めをしていなかったなど、信じられない。この間には体験者の数も多く減り、長い空白はその他の事象と同様記憶を鈍らせ、粉飾させ、果ては浄化させる。総務省は何をしようと考えているのか。単に各地方自治体の集計したものを纏めるだけなら余りにも情けない、こんな作業なら何十年も前に終わっていなければならない初歩の初歩の作業だ。今になって思い出したように重い腰を上げようとは、しないよりは益し、と云う程度のものだ。

広島市立大学(広島平和研究所)の田中利之教授は「東京大空襲だけが注目されて来た感があり、全国の記録を網羅することは意義がある。市民への無差別爆撃がなぜ許されたのか、世界各地で続く空爆をどうしたら止められるのか、今につながる活用を考えて欲しい。」と云う。
私はそんなに東京大空襲だけが注目されて来たとは思わない。少年時代に関西の海軍基地のあった地で空襲を体験し、何十条のサーチライト(夜空の機影を捕まえ、高射砲の目標設定を定めるために使われた探照灯)に浮かび上がるB29を見ては山の防空壕に逃げ込んだ経験から、全国の被害には敗戦後も自分なりに情報を知ろうとして来た。また、恨みがましく市民への無差別爆撃を云うが、先鞭は支那(現中国)に於ける日本軍が始めたことで目指す所は戦争の早期終結で、アメリカの云う原爆投下の理由づけに引用されている。要は地球上に多民族がそれぞれの国を創ってきて、利害、損得の駆け引きが(現在の例で云えば石油)引き金になっていて、正義などと云う言葉はまやかしの言葉だし、諦観から云うならば、愚かな人間の住む限り世界平和は「大いなる幻影」(第一次世界大戦を描いたフランス映画:1937年製作)でしかないのかも知れない。

千鳥ケ渕の昭和館(東京都千代田区九段)、これだって平成11年3月27日の開館という遅きに失した感はあるが、戦中・戦後の国民生活に関してや、太平洋戦争の資料も揃えられたり展示されて、何時でも誰でも見られるようになっていて、私も同世代の妻(大阪で空襲を体験)と何度も出かけてはお互いの悲惨な失った青春時代を振り返ることもある。

総務省の作業は完成を三年先を目処(めど)にしているようだが、今になって何を付け加えようとするのか、集計だけに三年は掛け過ぎだし、記憶として表現可能の世代の空襲体験者はどんどん数を減らして行くのに。

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2005年7月21日 (木)

やはり

毎日新聞(7/21)夕刊 尾瀬ピンチ 栄養過多
やはり、と、云うべきか、当然というべきか。何度となく書いて来た行楽地、観光地に集まる人間たちの質の低さ、マナーの悪さの招いた結果だ。

しかし、待てよ、行楽地は招いた側にも一端の責任があるのじゃないだろうか。“お出で、お出で、お金を落として帰って、”と。その最たる例が日光で騒いでいる猿被害。始めのうちは少なかった猿も今では膨らんだ大集団になっている。今になって“餌付けはしないで”と云ってみたところで云うことを聞くものじゃない。第一人間が、決められたこと、してはならないことの常識が守れないんだから、猿が云うことを聞くわけがない。急に餌の貰えなくなった猿は店に飛び込む、観光客を襲い手に持った物をかっぱらう。食わねば死ぬ猿の知恵だ。それに加えて人間よりも猿を大事にする行政がある。猿よりも人間が偉いとは露ほども思わないが、もっと猿を凝らしめる手立てはないのだろうか。何かと云うと動物愛護を標榜する訳の解らない団体さんもいるが、今は人間さまが猿軍団に逆襲する時じゃないのか。

話を尾瀬に戻して、コケ類の衰退を惹き起こし、この先景観までも変えるのじゃないかと思える原因は、訪れる観光客(ここの場合はハイカーというのか)の弁当の食べ残しや糞便による栄養過多であるらしい。
私も登山は好きであちこち歩いたが、特に水分には気を使った。例えば富士山へは頂上でコップ一杯の水を補給しても往復する間に排尿をすることもなかったし、山を汚す残飯も残さなかった。

尾瀬でも徐々に人が増えたころ、沼の汚染が旅館から垂れ流す生活水が原因で問題になり、対策を講じた。続いて今度は自動車道を設ける計画が起こったが、自然保護の観点から廃案になって今日に到っている。個人的には尾瀬を代表する歌にも唄われる水芭蕉の花は、里芋の花と同じで少しも綺麗とも可憐とも思わないし、ニッコウキスゲは他の何処にでもあるから態々尾瀬に行こうと思ったことはない。美的センスは人それぞれで仕方ないことだ。

調査に当った東京農工大の赤木教授は「ハイカーは、尾瀬では弁当を食べないくらいの気持ちで行くことが必要だ」と話している、と結んでいいる。そう、それでいい、それでも行きたい人は行くんだから。

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2005年7月19日 (火)

美容整形

一時(いっとき)プチ整形の人気は韓国ツアーであったが、今、平和ぼけした日本のバカな女たちはその整形のためにタイを訪れているらしい。今までのその数およそ13万人という。
わざわざ国外へ出るのは懸かる費用の安いこと。同じ部位の整形で比較すると、タイでは日本国内で行う手術の1/2〜1/3ですむという。現地病院で若返りのための整形に訪れたあるカップルへのインタビューに答えた中年女性は「これからの残った人生をもう一度明るく生きていきたい」と云い、連れ添って来た亭主は女房の手術を「大賛成」と云った。そのためにこの夫婦が投資する金額は占めて100万円、これを日本でやれば200万円だって。飛行機代を支払っても見返りはあるらしい。

遠い昔、秦の始皇帝が不死の薬を探したのは有名な逸話だが、重なる年令と共に老いて行く我が身を悲しむ女は余りに多い。一つ年を取れば一歳増えるのが当たり前の話だが、それに耐えられないのが女なのか。年と共に増える皺、白くなる髪、脂気のなくなる肌、霞む目、抜けて少なくなる歯、どれを取っても当然の衰えなのに無駄な抵抗をする。七十歳、八十歳のお婆ちゃんに皺が無ければ化け物だ。髪が真っ黒いままだとこれも化け物だ。巷には帽子を被ったような鬘(かつら)を乗っけた人もいるし、男では反対側の側頭部まで撫で付けたバーコード擬(もどき)の頭もある。何故それほどに髪の薄いことが気になるのか、バーコード頭よりも禿頭のほうが余ほど見栄えがするのに。これら人の弱味に付け込んだ商売もまた上手い金儲けをしているものだ。

若い女たちが鼻を高くし、胸を大きくし、顎を削り、シリコンを注入しようと、二重瞼にしようと、あれもこれもと、どれだけの大金を投じようと勝手だし、本人だけは満足できるのだろう。しかし、例えば子どもが生まれて似ても似つかぬ赤の他人のような風采の子だったら、先ず“これ本当に俺たちの子?”となるんじゃないだろうか。幸いにも現代ではDNA鑑定なる手段があるからいいものの、打ち明けずにできた子なら浮気の疑いすら掛けられる羽目になり兼ねないし、“私は綺麗な女”と売り付けた商品に詐欺行為が存在することになる。

このことは何よりも昔の人間には考えられない行為なのだ。こう教えられて育てられた。
『身体髪膚(しんたいはっぷ)これを父母に受く、あえて損ない破らざるは孝の始めなり』。髪の毛一本と雖(いえど)も親から授かった大事な体だ、それを傷つけないことが何よりも親孝行なのだ、と。
今では納得する娘がいないのだろう。何故こんな顔に産んだ、何故一重の目に産んだ、何故こんな体、と親を攻めるのだろう。親孝行なんて何のこと?と。
世界には食べることもできない貧しい子どもたちがこれを書いている今も、次々に息を引き取っている国があるというのに。鼻が低いことぐらい、少しばかり乳房が小さいぐらい、一重瞼であることぐらい、どうということはない、と思うのだが。

そうは云っても私だって身内のためなら骨身を削って命だって与える覚悟は持っている。


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梅雨明け

梅雨明けと同時に若者の死。
千葉の海岸で昨日(7/18)遊泳禁止の海で泳いでいた高校生(17歳)が行方不明。
この先夏休みに入る直前のこと、これからの長い夏休みには、どれだけ多くのこのような死亡記事が報道されるだろう。痛ましいとは少しも思えない当然の結果で、大人は事故の起こることを事前に予告しているのだ。警告を無視しての自ら招いた死だ。荒れる海で泳いだのは彼の自由、平常泳ぎ慣れた海であったろう。自信もあったのだろう。テレビの画面に映し出された海面は結構波が高く、うねりも大きく見えた。行方不明になった時刻にはどうであったかそれこそ不明だが、遊びに適した状況でないことは日本海の荒波で育った私には十分に解る。

「禁止」されているからこそなまじ泳ぎに自信のあった彼は入水したのだろうが、本当に自分の泳ぎを知っていればふざけ心では入らなかったろう。
禁止されていても泳ぐことは自由だ。だが、自由には「責任」がくっ付いていることはブログでも繰り返し述べて来た。責任が取れるから自由が許されるんだ。彼の場合、当初から溺れることを覚悟していたとしか思えない。それが泳ぐことを禁止された荒れる海で泳ぐことの「自由」なんだ。どんな同情もする必要はない。放っておけばその内荒れた海で泳いで満足した顔でどこかの海岸に流れ着くだろう。

親が忘れた教育、こんなこと学校で教えることじゃない。その前に親がまっ先に教えることだ。これから長い長い夏休みが始まる。親は心して総ての行動で子どもを守ってやるべきだ。

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喫煙全面禁止の居酒屋出現

東京都に十店鋪を構える居酒屋で、赤羽の一店鋪で実施。
街でのレポーターによる禁煙居酒屋の評判は、是否ほぼ半々。質問への回答に「現在喫煙しているが、止めたいから」(男)というヤツがいた。阿呆!としか云いようがない。そんな考えで止められるか!。また曰(いわ)く、「煙草の煙りで分らなかった料理の味が良く解る」(女)。阿呆ぬかせ!。化粧をした女に隣に座られた方が余程料理は味が落ちることを知ってるのか。まして体臭のきついヤツが隠す香水をまぶしたヤツの側にいるだけで味は落ちるんだ。それに、飲むに従って漂う腐った柿に似た匂いがする息を嗅がされて料理の味が云々できるものか。第一酒を飲むために出かける店で、アルコールに麻痺した舌で料理の味が吟味できるほど味に肥えたヤツがいるのか。

若い女たちが多いのに驚いたが、もっと驚いた風景を見かけた。子ども連れでやって来た家族。その小学生の女の子を連れて来た家族へのインタビューが終わって、女性レポーターの曰く、「これからは家族で気楽に来られますね」だと。どアホ!
酒を飲む場に子どもを連れて来る親の馬鹿さ加減を云うのなら解るが、煙草の煙りがしないだけのことで居酒屋に子どもを連れた家族が入るのを認めるなんて狂っているとしか思えない。要は料理も陸(ろく)にできない親が、料理の手間を省き、子どもを餌にして飲んべエの仲間入りをしたいだけのことだろう。

こんな親に育てられた子どもが将来どう育って行くのかは、語らずとも結果は解ろうと云うものだ。自分の子どもへ自ら悪い見本を見せつけ、煙草は喫わない代わりに酒は飲める、料理もしない母親を作り上げることになる。テレビが時々街なかで、からかい半分の番組を製作している。どれだけ現代の若い女たちが料理ができないかを見せつける。包丁は使えない、卵が割れない、調味料の使い方を知らない、フライのころもが解らないなどなど。えへらえへら笑いながらチャレンジする最低の女たち。先のような親に育てられ、それが普通の家庭だと思い込む。連れの男も同様にそれがどれだけ異常なことか解っていない。

子育てを放棄しているとしか思えない現代の親は至るところに転がっている。


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2005年7月16日 (土)

大人の暴走族

毎日新聞(7/14)夕刊 “大人の暴走族”34県に200以上 とある。

何のことか分らないで読んでみた。若い頃世間を騒がせていたちょっとばかり頭の足りない連中が、歳を重ねても性根が治らず、自分達の後から続いて来る同じくちょっとばかり頭の足りない若い連中に、負けたくないとばかりに年代物の車を走らせて、おっさん連中がまたまた世間に迷惑を掛けようとしているらしい。どう考えても40歳〜50歳の年令で構成された集団だろう。云うなれば、ぽんこつ車に乗るぽんこつ小父さんだ。

彼等は妻や子から捨てられて家庭がなく、寂しさを紛らせるための行為なのだろうか。記事の中でも強化月間中、高知県警は約130台が参加した旧車会(80年代後半に製造されたオートバイや車なので)の集会で、交通違反をした7件5名を検挙。彼等に妻子がいてこれだけのバカがやれる筈がない。(というのは常識人の考えか)年を取ってもちっともお利口になれず、常識も持てず、社会のはみ出しもののままで生きて来たらしい。

毎年恒例行事のように都道府県の警察の取締が実行され、その様子はテレビや各種報道で知らされ、見せられるが、一向に実の上がらない結果にはいつも隔靴掻痒の思いで見ている。あれほどの傍若無人、もっと厳しい対応が何故出来ないのか、取締り車輌の直前を右往左往のじぐざぐ走行、挑発的な暴言、挙動。警察署を総動員しての取締も大山鳴動して鼠一匹の言葉どおり、集団の中からほんの数人が連行されるだけ。警察は最初からメディアに叩かれることに予防線を張って、「民主警察」が頭にあるのか至極暴走族にお優しくて“止まりなさい”を始め、“しなさい”言葉の丁寧語まで使用している。多額の税金を使い、人件費を消費しての捕り物なんだ。疑わしき行動ではなく、はっきりとした犯罪行為を実行している相手に丁寧語の必要などない。追い掛けて後ろから追突して転げさせるくらいのことはする方がいい。大怪我をしても、死亡しても自業自得だ。それは過激に過ぎると云うなら本当に抜本的な対策を考えるべきだ。どうしたら一網打尽が可能かをね。

ロートルの集団と未成年を中心とした集団。ロートル集団は自分で車輌を賄う手段はあるのだろうが、未成年集団の場合、誰が高価な車輌を買い与えるのか。全員自分で資金調達しているのだろうか?或いは盗んだものなのか?親が買って与えているとすると、何をか云わんやである。

持論から云えば、親の教育、躾けがなっていないからだが、これからそれらの矯正が可能だとしても、常識ある世界が実現されるまでには早くても一つの世代の交代する長い時間が必要だろう。


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2005年7月14日 (木)

知床 世界遺産に

南アフリカ・ダーバンで開かれていた会議において、全員一致で自然遺産に登録されることが決定した。
しかし、この会議が南アフリカで開かれていることも知らなかったし、ましてや北海道知事が女性であることさえ知らなかった。
流氷、大鷲、羆のことは知っていた。長く続いた人気ドラマは評判は聞いていたが一度も見たことがない。なのに写真やフィルムで見る平地に天高く聳えるポプラの木は一幅(いっぷく)の絵として強い印象を抱いている。
寒い季節に訪ねたい。寒い地へは冬に、暑い地には夏に行くのが私の基本。

早速テレビが知床を紹介しているが、日本のほかの観光地と変わらぬ観光客のマナーの悪さが目に飛び込む。食い散らかした残飯を含め、帰途の邪魔になるものは遊んだ地に投げ捨てて帰る。兎に角親の代から続く伝統的な躾け不足、マナーの欠落だろう。何度書き込んでも躾け、マナーの問題はまだまだ云い足りない。知床は認知されたからいいが、日本一の山といわれる富士山は、ゴミの山のために未だに認知されていないし、恐らく暫くは何処の国の委員も認めないだろう。

知床は早速、場所によっては人の出入りを制限することを検討すると云う。当然のことだ。羆や大鷲の生息する為の環境保護はさることながら、ゴミや残飯など後始末すらできないような、躾のできていない奴らにはそこに近づく資格はない。富士山では著明な若い登山家が始めたゴミの回収に、ボランティアも参加して数十トンものゴミを拾い集めているが、このように乱れた躾やマナーだが、本来の姿に戻ることがあるのだろうか。やはり富士山も一夏の登山者数を制限しなければならない状況にあるのではないだろうか。

いよいよ始まる夏休み、一年でも最も若者たちの生活が乱れるシーズンだ。海に山に町なかに、夜昼構わぬ迷惑騒動、ばか騒ぎが続く。

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2005年7月 9日 (土)

ある流行歌手の死

毎日新聞(7/9)朝刊の死亡記事。「山のパンセ」「博物誌」の著者、串田孫一と並んで三船浩(75歳)の死亡記事が載っている。
「男のブルース」「夜霧の滑走路」「黒帯の男」など、昭和30年から60年ごろまで、力強い低音の魅力を聞かせてくれた歌手だった。低音だけではなく音域も広くて、澄み切った高音で朗々と歌いこなした。
現在歌手と呼ばれている紛(まがい)の歌い手とは全く質が異なっていた。私たち世代には(昭和一桁)昨今テレビから聞こえて来る音は、音楽ではなく、雑音か、騒音か、鼻歌にしか聞こえない。もう10年、15年も前から年末のNHKの紅白すら聞く(音楽は聞くのが主、ビジュアルは二の次)魅力もなくなっている。
少なくとも歌手と呼べる資質を備えた人間が殆どいないのが現実だ。演歌歌手と呼ばれる人たちの中にはまだ確かな音楽センスや歌唱力を持っている人もいるが、ポピュラー系の歌い手には男女ともに殆ど歌手と呼べるレベルの人間がいない。CD、MD、パソコンからのダウンロードも含め、財布の紐を解いてくれるのは歌それ自体ではなく、歌っている人の嘴の黄色いファン、歌などどうでもよい子どもたちだけ。大人の耳に耐えうるレベルの歌手がいない現実が空しい。

男女とも音域の狭いのを気持ちの悪い、背筋も氷るような声量の落ちた裏声(まるでトイレの中で便器に腰掛けているのじゃないか、風呂場で頭にタオルでも載せているのじゃないかと思えるような)でごまかし、低音は耳を凝らしても音も無く聞こえない口だけが動いている世界。やっと聞こえても音程がまるで外れたものになっている。
自分の作詞になるともっと酷い状況が生まれる。日本語の多彩な語彙(ごい)で詩をつくることもできない己の無知を、安易に横文字でごまかして逃げてしまう。やっとメロディーが浮かんでも日本語の韻を無視したおたまじゃくしが泳ぎ始める。我が物顔でテレビはコマーシャルに気持ち悪くなる裏声の歌を流し始める。途端に音を消すか、そこでテレビを見るのを諦める。背筋に冷たい悪寒だけが残る。

どう仕様もないのかも知れない。アナログはディジタルになり、CDからMD、iPodへと便利性だけは進んだが、音は悪化する一方だ。ディジタル写真がどんなに綺麗でもやはり銀塩写真には勝てないのと同じ、音も細工して細かく切り刻んでも鋸の刃は鋸の刃、滑らかなアナログには勝てない。それでも業界が潤っているとすれば、それほどに現代人の耳は退化しているとしか思えないのだが。

以前はNHKののど自慢は情け容赦なかった。一声発しただけで下手な奴には鐘一つをお見舞いした。歌とはそれでレベルが明確に解るのだ。ところが現在この番組は出演者への同情番組になった。或いはNHKが出演者、視聴者に媚びを売っているのか。老人ホームのカラオケに、ふざけた若者のカラオケ・ボックスに。書くために無理して聞いてみる。局側は多くの人に鐘を連打してサービスするが、私には何度聞いてもその鐘の連打に値する歌い手は出て来ない。慰安旅行の隠し芸レベルだ。しかし、これが今の日本の歌手たちのレベルで自分が歌手だと云えばそれで歌手なんだ。あとは何も解らない子供達がどれだけ騒いでくれるかだけ。

三船浩、代表的な低音の魅力を備えた男の歌手。今の日本には怒鳴るのではない、叫ぶのではない、男の声帯を備えた男の歌手が全く存在しない。


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2005年7月 5日 (火)

酒のみ運転

居酒屋で三時間、酒を飲んで運転し、交通違反の上殺人を惹き起こす。神奈川県相模原市、国道16号交叉点で深夜0時ごろ。警察は「業務上過失致死」として調査するというが、今回の犯人は15歳の少年、どこに業務遂行の行為と認めるものが存在するのか。車を運転することも許されない年令で免許証も持たない人間に運転業務など存在する筈はない。同乗の19歳少年が酩酊状態で運転できないと判断して自分が代わったのだろうか。事故の結果自らが死んだならそれはそれでいい、何も同情することもないし問題にもならない。他人を巻き添えにし、殺人までするとは許し難い。

このような少年犯罪でいつも思う。この少年たちの親は一体どんな育て方をして来たのだろうか。同乗していた同じ15歳の少女の親も含めて深夜に外出する未成年の子どもをどのように育てたのだろうか。15歳と云えば私の世代は国の存亡を考え、将来を憂慮し、志願兵として戦いに赴くことまで考えた年令だ。当時(1943年5月にアッツ島の2600名の守備隊玉砕があった年)国も14歳にまで年令制限を下げて少年兵を募った時代でもあった。既に男子中学生には学徒動員があり軍需工場に徴用されていたが、高等女学校(男子の旧制中学校に当る)にも動員令が下(くだ)って(12〜15歳)工場への勤労奉仕が義務付けられた。この時代をもう一度というつもりはない。

少なくとも男女15歳にもなればものの善悪ぐらいつけられる価値基準を持っているのが当然のことだが、これまでの持論を何度も繰り返すが、現在この価値基準を説いて子どもの身につけさせる親が居ないのだ。親は携帯電話を持たせ、金銭を与えておけば息子や或いは娘が何処にいるかが解ればそれで良しとする。酒を飲もうが、煙草を喫おうが、盗みをしようが、嘘をつこうが、恐喝をしようが、怪我させようが、性に溺れようが、それが解ってからも問い詰めることができない。幼い頃からの会話もなく、躾が全く出来ていないから何を云っていいのか、どう叱って良いのか解らない。ますます落差が広がる。

酒飲み運転は日本だけではなく、外国でも問題になっていて、カナダでも新法案が発表された。それによると免許の再交付の前にリハビリプログラムを実施する。常習者(どこにもバカはいる)の車には呼気アルコール検出装置を装備させ、酒気のないことが確認されなければエンジンが掛けられないようにする。警察権も拡大させ、罰金刑を重くするなどが含まれている。この程度のことでへこたれる酒飲みはいない。

日本でも煙草の害は狂気の沙汰と言えるほど叫ばれているが、それ以上に害のある酒については音無しの構えだ。煙草で死んだ人間など一人もいない。反対に、酒で死んだ人間は一気飲みの急性アルコール中毒を始めとして、本人の死から殺人まで、酒による被害は数えればきりがない。何故酒の害が叫ばれないのか、不思議で仕方ない。酒のドラッグ性は煙草よりも遥かに強いのに。

今回の事件も15歳少年の親への取材を始め、同乗女性の親、19歳男性の親への取材を行い、家庭での親子問題を徹底して掘り下げることが最も重要と考える。親の監督責任を追求すること、何かと邪魔になる人権擁護団体など無視していい。

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