敗戦後60年
天皇、皇后揃ってサイパン島へ慰霊のため訪問。先の天皇の戦争責任が明確にされないままに経過した60年。後継天皇として父天皇がしなかった慰霊の訪問になる。第二次世界大戦、大平洋戦争の激戦地となり亡くなった軍人、軍属、日本兵として戦死した韓国人、日本人家族、現地人等の慰霊のために。それゆえに歓迎のセレモニーは自粛を指示された由。この大戦を昭和一桁最後の世代として敗戦をしっかりと受け止めた結果としてより深い歴史観、戦争認識をお持ちのようだ。小泉とは比較にならない洞察力の持ち主に思える。
しかし何故60年を喧(かまびす)しく口にするのだろうか?60年の刻みが身近にあるのは人間60年生きて来た還暦が思い当たる。
尺貫法でいうメートルと古くからの尺、或いはインチの違い。私の年令七十三歳でも何かピンと来ない。
二、三の資料を開いてみた。
十干(じっかん)と十二支(じゅうにし)の組み合わせで用いられた干支(かんし)を「えと」よんでいる。「え」は兄(え)で陽をあらわし、「と」は弟(と)で陰をあらわす、とある。この組み合わせが60種類に別けられ、60年で一周期で世界が動いている、という考え方とあった。
だとすると、何も戦後の刻み方に適用することはない。戦争を考えてみるに一年でも二年でも、十年、いや、一ヶ月でも半年でもいいことだ。このような刻み方でしか物事に迫ることのできない民族なのだろうか日本人は。
1943年5月29日、北方アリューシャン列島のアッツ島守備隊玉砕。
「玉砕」とは全力を尽して戦い、潔く負ける(死ぬ)こと。
1941年12月8日開戦以来早くも敗戦色を見せ始めた。
北方から退却(日本軍は転進と云った)して南に戦線を移したが敗色は濃くなって行く。
●1943・9・8 イタリア降伏
1943・11・24 マキン島守備隊玉砕
1943・11・25 タラワ島守備隊玉砕
1944・07・07 サイパン島守備隊玉砕
09 マッピ岬に避難した民間人崖から身を投じて自決
占領して日本軍の造ったアスリート飛行場から飛び立ったB29が東京空襲を。以降マリアナ基地に配備されたB29の大部隊による日本本土空襲が繰り返される
1944・08・02 サイパン島の南五キロの島テニアン守備隊玉砕
1944・08・11 グァム島守備隊二万名のうち戦死者一万八千余名、25日深夜最後の総攻撃
*1945・09・15 逃避行を中止、投降
1944・10・19 アンガウル守備隊玉砕
1944・12・23〜26 フィリピン沖海戦(親族の一人戦死)
1945・01・27 コレヒドール島要塞部隊玉砕
1945・03・25 硫黄島守備隊組織的戦闘終了
1945・04・01 米軍沖縄本島に上陸
●1945・04・30 アドルフ・ヒトラー、ベルリンで自決
●1945・05・07 ドイツ連合国に降伏
1945・08・06 広島に原子爆弾投下
1945・08・09 長崎に原子爆弾投下
1945・08・15 天皇の玉音放送 敗戦
敗戦を終戦とよんだことから日本の混沌が始まった。責任を取らない、追求しない。現在の政治にも端的に現れている。日本の最高学府は国民の汗の結晶税金を、どうしたら犯罪者として裁かれないで浪費し、ごまかし、私腹を肥やせるかを教え、学ぶところになり、毎年大勢の卒業生が田中真紀子氏のいう“伏魔殿”なる役所に転がり込んでいる。こんな役人がいる間は日本が良くなる訳がない。
天皇、皇后の慰霊の後ろ姿に《合掌》 南無阿弥陀仏。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント