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2005年6月29日 (水)

敗戦後60年

天皇、皇后揃ってサイパン島へ慰霊のため訪問。先の天皇の戦争責任が明確にされないままに経過した60年。後継天皇として父天皇がしなかった慰霊の訪問になる。第二次世界大戦、大平洋戦争の激戦地となり亡くなった軍人、軍属、日本兵として戦死した韓国人、日本人家族、現地人等の慰霊のために。それゆえに歓迎のセレモニーは自粛を指示された由。この大戦を昭和一桁最後の世代として敗戦をしっかりと受け止めた結果としてより深い歴史観、戦争認識をお持ちのようだ。小泉とは比較にならない洞察力の持ち主に思える。
しかし何故60年を喧(かまびす)しく口にするのだろうか?60年の刻みが身近にあるのは人間60年生きて来た還暦が思い当たる。

尺貫法でいうメートルと古くからの尺、或いはインチの違い。私の年令七十三歳でも何かピンと来ない。
二、三の資料を開いてみた。
十干(じっかん)と十二支(じゅうにし)の組み合わせで用いられた干支(かんし)を「えと」よんでいる。「え」は兄(え)で陽をあらわし、「と」は弟(と)で陰をあらわす、とある。この組み合わせが60種類に別けられ、60年で一周期で世界が動いている、という考え方とあった。
だとすると、何も戦後の刻み方に適用することはない。戦争を考えてみるに一年でも二年でも、十年、いや、一ヶ月でも半年でもいいことだ。このような刻み方でしか物事に迫ることのできない民族なのだろうか日本人は。

   1943年5月29日、北方アリューシャン列島のアッツ島守備隊玉砕。
   「玉砕」とは全力を尽して戦い、潔く負ける(死ぬ)こと。
    
    1941年12月8日開戦以来早くも敗戦色を見せ始めた。
    北方から退却(日本軍は転進と云った)して南に戦線を移したが敗色は濃くなって行く。

    ●1943・9・8 イタリア降伏
   1943・11・24 マキン島守備隊玉砕
   1943・11・25 タラワ島守備隊玉砕
   1944・07・07 サイパン島守備隊玉砕
         09 マッピ岬に避難した民間人崖から身を投じて自決
    占領して日本軍の造ったアスリート飛行場から飛び立ったB29が東京空襲を。以降マリアナ基地に配備されたB29の大部隊による日本本土空襲が繰り返される
   1944・08・02 サイパン島の南五キロの島テニアン守備隊玉砕
   1944・08・11 グァム島守備隊二万名のうち戦死者一万八千余名、25日深夜最後の総攻撃
           *1945・09・15 逃避行を中止、投降
   1944・10・19 アンガウル守備隊玉砕
   1944・12・23〜26 フィリピン沖海戦(親族の一人戦死)
   1945・01・27 コレヒドール島要塞部隊玉砕
   1945・03・25 硫黄島守備隊組織的戦闘終了
   1945・04・01 米軍沖縄本島に上陸
    ●1945・04・30 アドルフ・ヒトラー、ベルリンで自決
    ●1945・05・07 ドイツ連合国に降伏
   1945・08・06 広島に原子爆弾投下
   1945・08・09 長崎に原子爆弾投下
   1945・08・15 天皇の玉音放送 敗戦

敗戦を終戦とよんだことから日本の混沌が始まった。責任を取らない、追求しない。現在の政治にも端的に現れている。日本の最高学府は国民の汗の結晶税金を、どうしたら犯罪者として裁かれないで浪費し、ごまかし、私腹を肥やせるかを教え、学ぶところになり、毎年大勢の卒業生が田中真紀子氏のいう“伏魔殿”なる役所に転がり込んでいる。こんな役人がいる間は日本が良くなる訳がない。

天皇、皇后の慰霊の後ろ姿に《合掌》 南無阿弥陀仏。
   

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2005年6月26日 (日)

児童虐待 四

昭和一桁の責任についてもう少し触れてみよう。
敗戦(1945年8月)を切っ掛けにして復員或いは引き上げて来た人たちで急激な人口増加が起こり、失業者問題、食糧難など問題が山積。地下組織であった共産党の復権とともに労働者の目醒め、一気に噴出した民主化の流れなどあらゆるものが存在する混沌の世の中になったことは説明した。

一方1946(昭・21)年5月3日から極東国際軍事(通称・東京)裁判が開廷し、11カ国の判事(国際法学者はインドのパール博士ただ一人)A級戦犯28人(政府・軍部首脳、途中3名は死亡)による戦争責任が審理され、1948(昭・23)年11月12日全員に有罪の刑を宣告、翌月12月23日巣鴨プリズン(東京・池袋)に於いて七名の絞首刑が執行された。五名の少数意見の中の一人パール判事は、『勝てば官軍、負ければ賊軍』というならば、最早そこには正義も、法律も、真理もない、力による暴力の優劣だけが存在する社会があるだけ、と述べて無罪を主張。日本は裁判の結果を受諾することで国際的に戦争責任の問題を決着させる道を選んだ。GHQの徹底した言論統制下にあった当時、日本がこの裁判について語ることは不可能であった。現在第二次大戦の日本の立場を侵略と見たくない根拠の多くは、このパール判事の報告書に依っている。この頃米ソ冷戦が激化の兆しを見せ始め、第二次A級戦犯として100名にのぼる容疑者の起訴が予定されていたが有耶無耶のうちに終結を見たが、この中には後の第56・57代(昭和32・2・25〜35・7・19)総理大臣となった岸信介もいた。その前には情け深い日本人は禁固7年で巣鴨から出所していた重光葵(まもる)を鳩山内閣(昭・29)の外務大臣に、終身刑から出所した賀屋興宣を池田内閣(昭・38)の法務大臣に採用し、A級戦犯の法相が誕生した。

反面国内的には左翼思想を中心に戦前の教育の否定(国家思想、天皇制など価値観の否定)が活発化し、今に残る国歌斉唱、国旗掲揚を嫌う教育現場として続いている。敗戦後60年、無策に放置して来た国の施策は靖国問題(逆に現在右傾化にある)も含め、検討されなければならない時に来ている。

閑話休題

以上甚だしい駆け足で見て来たが、進歩的と称する学者、言論人、マスメディアはこぞって民主主義を賛美し、大きなうねりとなって各地でストライキ、デモ行進が発生したが、最大の波が1960(昭・35)年6月15日の安保闘争であった。昭和一桁世代の35歳〜26歳の頃である。この時東京大学文学部の学生、樺(かんば)美智子が警官隊かデモ隊か不明だが(デモ側は警官隊という)圧殺された。これを基点として日本は大きく右傾化する。潮のような民主化の高波は一気に沈静化し、先頭に立って国民を煽っていた新聞論調も一転して議会制民主主義を説いた。戦時中の大政翼賛の政策に乗って国民を欺いたあの調子で。これで日本に民主主義が根付くと思い、走り続けていた国民は方向を見失って空しい挫折を味わう。何もかもが空しく、どうにか見い出そうとしていた価値基準は音を立てて崩れた。

どうして子どもの教育ができるか、親自身が方向を見失って。この頃生まれていた子どもの世代が所謂第一次ベビーブームの団塊の世代なんだ。価値基準を失った親からは何も教えられず、良いも悪いも判断出来ない人間に育って行く。これが現在の若者たちの祖父母の世代に当る。この価値基準を失った親からは何も教えられず、良いも悪いも躾けられない人間が育って行く。そしてこれが現在価値基準を持たない父母となっている世代。自分の子どもが働きもせず、親の収入で食べていても注意一つできず、家に帰って来ないでも叱れず、横文字で云えば済むかのようなフリーター、だのニートだの、何てことはない、昔風に云えば浮浪人、ルンペンを養ってやるようなものだ。

随分遠回りして来たようだが、親子の断絶が生む病巣が、60年かけて作られて来た。殺人狂が主人公のような戦争映画(どう理由づけしようが正義の戦争なんてあり得ない)、ゲーム、漫画、ちょっとしたことで親も子も暴力に走る要因はそこら中に存在している。
“手前たちゃ、人間じゃねエ!俺が叩き斬ってやる!。”こう云って人を斬る人間は人間じゃないのか?今は亡き時代劇の俳優萬屋金之助が毎週、番組の終わりに口にする台詞。人間だからこそ悪をする、人を騙す、殺す。
黴の生えた性善説では説明出来ない時代になっている、現代に生きる人間の人間哲学の体系づくりを目指す哲学者は世界にいないのだろうか。  ・・・・ ひとまず終わる

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2005年6月24日 (金)

児童虐待 三

事件が起こった。15歳少年の親殺し。
今のところ詳しいことは未だ解らない、ただ少しばかり出て来た情報で、父親との確執があったことが解って来た。しかし、今はもう存在しない父親の言葉は聞くことができない。これからの情報は全て少年の片側通行のものでしかない。父に馬鹿にされ、頭を押さえ付けられてお前は頭が悪いと云われた。日曜も夏休みも、食事の用意や掃除でこき使われた、云々。

私も小学校の六年間に三度の引っ越しを経験した。瀬戸内海寄りの街から、日本海側の街へ。事件の少年と同じかどうか、幼い私は引っ込み思案の性格であった。父親の仕事を詳しく理解していた訳ではないが、寂しくはあっても何処の家庭にもあることだとの認識があり、父が求められて新しい工場へ行くことを母から聞いた記憶もある。私は決して頭の良い子ではなかったが、当時の少年の多くは軍人になることを夢に見、陸軍大将に、海軍大将になることを望んでいた。男には大きな目標があった。しかし、

1945年、敗戦を切っ掛けにして社会が激変する。アメリカの空襲、原爆によって焼野原になった日本に元軍人が、軍属が、或いは外地に出向いていた人たち家族が荒れ荒んだ心で帰還して来た。一気に膨れ上がった人口はその日口にする食べ物も無くなっていった。戦争中にも経験しなかった程の食料不足が到来し、飢餓が広がって行った。その時1946年から1951年までほぼ6年間にわたって前年まで敵国であったアメリカからの資金援助「ガリオア」「エロア」の総額12兆円(内無償9.5兆円)--いずれも現在価値--が投入され、引き続き1946年11月「ララ物資」が(当時小学生であった人たちには脱脂粉乳の記憶があるだろう)国際NGOから、1948年から55年までは「ケア物資」が食料品、菓子、コーヒー、紅茶、砂糖、石鹸などの日用品をなどを援助してくれた。
そんな中1947年10月11日東京地方裁判所、経済統制担当・山口良忠判事(当時34歳)が闇食料を拒否し、主義を貫いて餓死した。日本はそれほど苦しい毎日を送っていた。

このブログを立ち上げる思いの一端は、ずっと心に蟠(わだかま)っていた一桁生れの責任を吐露したい気持ちにあった。日本中が飢餓状態にあったちょうどその頃に私たち昭和一桁の人間(20歳から11歳)が、時代の流れの中で価値観の喪失を味わうことになった。男として死ぬことを、国に殉じることを教えられた戦前の価値観が否定され、新しい価値基準を見出せないまま一日一日が過ぎ去る生活が続いた。本来ならば多感な少年期、青年期に吸収、成長するべき人間形成はできず、暗闇を手探りで、しかも飢えとの戦いの中で生きることに精一杯になっていた。大人たちはもっと苦しい生活(膨れ上がった人口で失業者は街に溢れ)を強いられ、子どもを飢えから守ることで家庭を顧みることもできず、ただ働けるものは我武者らに働くだけだった。本当ならばしっかりした価値基準を持ち、ものの善悪を説くことのできる人間として次の世代を育てる責任と義務があった筈だった。しかし、疲れ果てていた大人たちにはそれが出来なかった。

その渾沌とした混乱の中で育ち、大人になった人間のうち、確たる価値基準を持ち、次世代の親(現在の若い親のもう一世代上の)を育てあげることのできた人は恐らく少ないだろう。そうでなければ現在ほど情けない姿の日本にはなっていない筈だ。その世代として敗戦時の過渡期、そこで生きた人間として現在の日本を作った遠因はわれわれ昭和一桁にもある気がしている。現在起こっている少年犯罪にしても、児童虐待にしても、事件は結果でその結果ばかりが取り上げられて上っ面の因果関係は論じられるが、もっとしっかりと世代間の関係を掘り下げた原因にまで遡って社会の深層を分析をする学者もまた出ていない。現在の現象は戦後60年間に溜まった膿が噴出しているものだと考えている。

携帯電話に余計なものがくっつき、わざわざ顔を見ないでも、言葉を発しなくても、聞かなくてもメールで済み、誰も不満に思わない。乳児期から育てるのは一時預かりの他人、苦しい苦しいと云いながら家の中はブランドものが増えて行く。冒頭の15歳にもなった少年も家の用事、手伝いを“こき使われた”としか理解出来ない。働く親の生活は目に入らないのではなく、目に入れない。現在起こっていることの大半は(全てと云ってもいいが)家庭での父親の権威失墜と、両親揃っての社会的価値観の不足にあるだろう。(ここでは敢えて母子家庭については触れない)家庭での会話の不足は両親の側の善悪の判断不足、公私の判断不足があって子どもに明確に教え諭すことができない。結果は聞かされる子どもは全然納得しない。どんどん意志の疎通は出来なくなって行って理解しあうことがない。最後にはお互いに暴力に頼るか無視するかの極端な対処になって行く。
優しいだけの父親は駄目、猫可愛がりの母親はもっと駄目。父と母の役割分担を考えてみる時が来ている。・・ひと休み

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2005年6月21日 (火)

児童虐待 二

ところで、虐待の定義ってあるのだろうか。精神的なもの、肉体的なもの、個人的なもの、集団的なもの、などなど。

⑴昔の小学校には必ず立っていた銅像、二宮金次郎(成長して二宮尊徳)
柴刈り縄綯(な)い 草鞋(わらじ)をつくり 親の手助け弟を世話し 兄弟仲良く孝行を尽す 手本は二宮金次郎
彼は背中に刈った柴を背負い、山への行帰りに歩きながら読書をするしかなかった。これを全部毎日のように自発的にこなしていたのだろうか。草鞋を綯うには綯う時間以上に藁を柔らかくする為に槌で打つ作業の方に多くの時間が必要なのだ。手助けというには一足作って足りるものではなかっただろう、恐らく弟たちを寝つかせてからの作業になり、寝る間もない夜通しの作業と見られる。これを親がさせていて、反抗せずに処理していたら、やはり虐待というのだろうか?

⑵室町期の画僧で水墨画【天橋立図】で有名な雪舟
彼が幼年期、悪戯をした時、堂の柱に後ろ手に括りつけられ、独りぽっちになり、寂しくなって床に落とした涙の粒を足の指を使って床に鼠の絵を描いた。許しを与えに来た僧がそれを見て驚き、それが切っ掛けになり、絵に目覚め、やがて長じて中国(明)にまで渡って絵の修行をし、三年の後帰国。
幼年期の柱に括りつけられた行為はやはり虐待と呼ぶのだろうか?

毎日新聞夕刊(6/20付)
児童虐待三万件超す。通告対象の拡大で相談処理が一気に増加した。ここで云う一件の数え方だが一人の個人について何度相談しても一件処理なのか、その都度合計するのか、解らない。加算方式なら内容は随分変わる。

そして、私は小学生時、先生から“こら、廊下に立っとれ!”と命じられ、その時間が終わるまで立った経験がある。当然、自分の悪かったことは承知してしいるからバツで虐待とは考えない。恥ずかしくて親には報告することはしない。今はひょっとしてこれさえも虐待なのだろうか?

敗戦後、左翼思想の普及から人権が声高に叫ばれ、労働組合の発展は日本の労働者の意識を向上させた反面、労働貴族(労資協調主義の大企業の特権的な幹部)なる階級が生まれるほど組合内部の乱れもまた大きくなった。
特に今でも叫ばれる「人権」「人間的」なる言葉が“錦の御旗”として大手を振って罷り通り、その悪弊は未だに麻原を生き延びさせ、被害者以上に加害者を保護し、世の中の多くの被害者を或いは家族を苦しめている。
加えて戦勝国から与えられた個人主義思想は60年後になっても日本には根付くことなく、放任主義とでも勘違いしたらしく、自由の本質である責任に気付くこともなく、親もそれを教えることもできず、結果的には家庭の崩壊を招くことになっているのが現状のようだ。

私は家を持つことが出来たが、そして子ども(当時小学五年生)の個室も用意したが、鍵をかけることは許さず、子どもの部屋への親の出入りは可能にした。親の子どもへの監督責任として当然の義務と考えるから。私が無断で出入りしたことは一度もないが、妻は息子が高校生の頃、余りに女性に無関心なことが心配で、こっそり入室したことがあるらしい。

小さい時からの細やかな子どもへの接触もなく、金品だけで吊って来た親たちには口をきくタイミングも図れず、ただ見ているだけで時間ばかりが過ぎて行く。そして、遂にどうにもならなくなって来て、手を出す。
・・・つづく

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2005年6月20日 (月)

児童虐待

今、日本に満ち溢れている躾の出来ない親たちのことを踏まえてこの問題を考えてみる。
先ず、多くなった共稼ぎの親たちの一日を追い掛けてみよう。

会社への出勤のついでに子どもを託児所に、或いは保育所に預ける。会社が終わって帰る途中に子どもを引き取る。何と云うことない一時預かりの小荷物扱いだ。帰宅すれば当然食事を与える、入浴させる、寝かせる。若しも遊ばせる時間が取れれば睡眠時間を遅らせることになる。幼児の睡眠時間は少なくとも8時間から9時間は必要だが十分とれている家庭は少ないと思われる。間違って子どもが怪我でもしようものなら自分の育児責任には頬被りして託児所の或いは保育園の監督責任を喚き立てる。親は接しられなかった分遅くなっても子どもの睡眠時間を取り上げ、猫可愛がりの親バカとなる。子どもはそれに慣れる。子どもは十分に狡い。泣き声を止(や)めるタイミングを心得ている。親の心理など完全に見透かしているのだ。子どもなりに無理が認められる限界をどんどん拡張する。

昔の人はうまいことを云っている。躾をするのは三歳までに、或いは三つ子の魂百まで(別の表現をすれば“雀百まで踊り忘れず”となる。因に外国にもこれと同じ諺がある。“揺り籠で学んだことは墓場まで忘れない”と)と云って人格形成は三歳までに出来上がると云って躾の大切さを教えたものだ。それを無視する今の親たちは一時預かり所が未だ少ない、もっと増やせと云って大事な肌の触れ合いの時間を減らそうとする。国もご無理ご尤もと受け入れに大童だ。これでは肌の温もりを知らない子供達が増え続け、親の心を酌めないのは当然だろう。他人ではどんなに心を注いでも親の代わりをすることは不可能なんだ。本当に親なればできる子どもを叱りつけ、時には尻を打つて教える躾などを。

その結果が現在の親と子の断絶に近い家庭環境を作り上げる。金品を与えれば親は子どもへの愛情を与えたと錯覚する。必要もない子どもに無闇な大金のお年玉、小遣いを与える。私の子(男)には高校を卒業するまで小遣いは与えなかった。何故ならお金が労働の対価であることを自身で理解できるまで必要がないから。私たち夫婦の両親からくれるお年玉はその時子どもが欲しがったものを買って残りは家族の生活に消費した。学校での子どもはジュースを購入することを要求する先輩のいるクラブ活動からはきっぱり足を抜いた。後に妻から告白されたが可哀相で小額の小遣いを私の目を盗んで与えたことはあったらしいが。

高校生の子どもに月々三十万円もの小遣いを与えたバカ女優がいて話題になったが、子どもはなるようになって悪の道に嵌った。前にも書いたが、同じように子どもには携帯電話など必要はない。家庭で親と子の会話が交わされていれば無用のものだ。それが証拠に携帯がなかった時代の子どもたちに不満があったろうか。金銭感覚のない子どもの無駄な電話代を親が払って不思議に感じない。世の中が贅沢になり、欲望の問題は一つクリアすればその次と、上限がないことで際限のない上へ上へと高望みすることになる。それが望みどおりにならないと切れる!。普段接して十分な会話をしたことのない親たちはどうしていいか解らずにはらはら、右往左往する。そして最後には体格に優る親は手を出すことになる。 ・・・つづく

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勿体無い

毎日新聞(6/20付)記事より。
ノーベル平和賞受賞者のケニア副環境相、ワンガリ・マータイさんが提唱した『mottainai』が、日本の11府県、民間まで含めると18都道府県で「もったいな運動」としての輪を拡げようとしている、と紹介されている。世論調査によると運動について
  共感すると答えた人が 81%
  共感しない、 が    9%

 「共感する」を年代別にみると40歳代が 90% と最も高く
               20歳代が 63% と最も低い

外国人から指摘されて、何を今さらと思う気持ちが残念ながら非常に強い。
20歳代の人間が、この問題に強い共感を抱けないのは、町中に見られる安かろう悪かろうの使い捨てレベルの商品の氾濫に慣れてしまった結果だろう。若年女性層向けの商店の前を通ると、嫌でも外まで臭って来る安物香水の吐き出したくなるような臭い。世間で売られている商品の8割は女性購買層のものと見て、すぐに飽きるであろう色物の綿布、脳のないデザイン、当った商品が出ればその商品の“もどき”。
今までの流行もので日本女性の体形からただ一つ、ミニスカートだけは似合ったものだと思う。足が短く(世界でも特に短い人種)ずんぐりむっくりの体系には、このスカートは良く似合った。ただ現在の露出狂に近い好みはもったいないじゃない、みっともないだけのものに成り下がっている。
これは螢が異性を呼ぶ尻の灯に似て、男たちを誘惑する標(しるし)に見られても仕方のないほどのものだ。だからと云って痴漢を認めているわけではないが。

勿体無いのは日本人が己の美徳を忘れて何十年、無為に過ごして来たこと。使い捨てがもてはやされたバブルの時、逸早く訪れた破綻とその反動に慌てふためいた時、何故自分自身で気付かなかったのか。

私の亡くなった(明治生まれの)母は、何時も押し入れに体を半分潜り込ませて何かを取り出していた。少年だった私には襤褸(ぼろ)としか見えない布切れは、見違えるような寝巻きに変わり、弟たちの浴衣に変化した。
父(同じく故人)の数少ない皮靴は何度も底の皮を張り替え、15年から20年は履き続けていた。私の革靴も父には負けるが長くて十年は持たせている。最近のゴム底でも磨り減れば自分で補修する。自分に馴れ親しんだものは無闇に捨てるには愛情が湧いて無碍にできない。最近はリサイクル・ショップがあるが、要は次に何を買うのかを計算しての予算増しに使うだけの算用だ。結果は消費するだけの話。私のコートは着用を始めてすでに40年になる。その間、煙草で開けた穴を修理し、鍵裂きを埋め、破れたポケットの裏は短くなり、襟は多少色落ちしているが、まだまだお払い箱にする気はない。

人に指摘されて動くしか脳がない日本人には愛想が尽きる。


  

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2005年6月11日 (土)

スーパー、レストランで

私が今住んでいるのは人口約30万人の東京近郊の街。二度目の退職を済ませ、好きな音楽を聴き、読書、或いは趣味の美術書を眺めて毎日を送っている。
一週間に二度、ほぼ決まった曜日に妻について食料品を中心とした買い物に出かける。たまに妻の手を休めるためにレストランに寄り道し、軽食を口にしてから帰宅する。妻専用の運転手である。

さて、外出した当日は兎に角スーパーでも、レストランでも(今風に崩れた日本語を使えば、スーパーとかァー、レストランとかァー、である)殆どは女性客(年令に関係なく)で占められている店内が、これほどまでにマナーに欠け、躾に欠けた親たちで占められていることに驚いた。あちこちで大声を出して親を呼ぶ子ども、“ママー”、たまに一緒にいる“パパー”。ここは日本だぞ! 見てみると、“お母ー”“お父ー”が似合いそうな親子でも。このブログを開設して、処女記事はこれだった。わが子を育ててからその後35年の間聞けなかったが、今年になって“お母さん”の声を若い母親が三歳くらいの女の子にそう呼ばせている場に逢った。なんと、綺麗な言葉だったことか、思わず声を掛けずにいられなかった。“ママなんて、云われたら気持ち悪い”その母親は口にした。しかし、今回はそれを云いたいのではない。ただ、自宅にいて親を呼ぶなら喚こうが大声を出そうが一向に構わない。母親を呼ぶだけならまだいい、棚に並べられた品物の間を走り廻って叫ぶ、“ママー”、見つからなければ火が点いたような声を張り上げる。それを注意する親を殆ど見たことがない。公共の場であることを認識している親がほとんど見かけられない。自分の子どもであれば可愛いいだろうが、他人の子どものこのような姿が好きな他人はそうはいない。我慢ならずに、怒鳴りつけたことが再三ある。『五月蝿い!』その時の親の子どもへの言い種が、『怖い人だから・・・」で、他人への迷惑になることを教えられない。躾の出来ない親の典型である。

その親は商品を手に取り、期限のあるものは賞味期限を確認、次から次に手に取って手前が山になる。きちんと包装されているものは良い、裸の果物や野菜類はどうなんだ、何を基準にして選別しているのか知らないが、これも手垢だらけにして捨てて行く。だから裸で売られている果物や野菜類はどうしても買う気になれない。どんな人間が触ったものか不潔窮まりない。そうかと思うとあの大きなカートを並べて二列になって歩いて通路を塞ぐ、商品の前で立ち止まって長話しをする、人が通り難くて困っていても避けようともしない。

時には家族でレストランに食事に来る。やはり店内が自宅ではないことを教える躾ができていない。子供達がわいわい騒いでいても注意できない。子どもの大声にかき消されるため、親も調子を合わせて大きな声を張って話し合う。食事どきに口を開くと父親から叱られて育った世代には慣れようとしても難しい風景だ。これだって自分の家での食事風景ならこういう時代になったことぐらい理解できる。外に出て知らない人たちに混じっての食事どきのマナーぐらいちゃんと躾けることの出来る親であって欲しい。このようにレストランでも我慢ならず叱った子がいる。もう小学生でも高学年と思われる二人連れの女の子。裏に滑車がついて滑るように動く靴を履いたままレストランに入り、狭いテーブルの間をぐるぐると廻り始めた。私の横を通り抜ける三度目、思わず怒鳴っていた。『ここは遊び場じゃないぞ!』連れて来た親はレストランに入る時注意もしなかったようだ。食事をしている人の邪魔になり、埃の立つことも考えられない親と子。

今日もまた、何処かのスーパーでは“ママー”の叫びが谺しているだろう。


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2005年6月 6日 (月)

躾け

2001年の参院選に立候補した芸能レポーター、通常‘鬼さん’と呼ばれていたそうだが、スポーツ、役者、歌手、キャスター、漫画家、作家ら大勢のタレント候補(6/26付)と共に見事落選、うん、むべなるかな。(うべなるかな、とも云うが、若者には聞きなれない言葉だと思う。パソコンを操作できれば意味を知るのは易しいことだよ。)その後一向にテレビで見なくなった。この人のレポーター時代の出来事、千葉県を走る電車内で‘鬼さん’には傍若無人に見えたらしいが、高校生らしき数人が座っている前で三歳ぐらいの女の子が「外を見たい」とべそをかいていたらしい。止せばいいのにこの‘鬼さん’その高校生に向かって席を立ってやるように声をかけたらしい。
高校生たち、席を譲ったかどうか聞き漏らしたが、次の駅で降りた‘鬼さん’はついて降りて来た高校生に乱暴を受け腕に傷を負った。テレビは仲間意識で大々的に報道し、‘鬼さん’はその包帯を巻いた手を自慢げにカメラに見せた。

本当に余計なことをしたもんだ、次の日テレビ局にメールを送ったがどう読んだのか知らない。なぜ、余計なこととして‘鬼さん’をバカ扱いしたか、三歳にもなって愚図る子を躾けられない親をこそ注意するべきだからだ。同じような風景は幾らでも日常見かける。私の子は逆に大人に席を譲ることを教えて育てた。三歳、四歳となって座る席がない時には親が注意しなくても進んで大人に席を譲る子になってくれた。なぜか、子どもは大人と違ってその時どんなに疲れていても、次の日にはけろり、と回復する力を備えているからだ。泣いている子供がいても席を譲らないと、親は周りを見回しながら何時までも泣かせる。三歳になれば立派に自分の力で子どもは立てる。私は目の前でどんなに泣かれようが自分で立つことのできる子どもには絶対に席は譲らない。

この現象の裏返しのような出来事もまたとてつもなく多い。電車が停まってドアが開く、親が子どもの背を押す、子どもは人を押し退け、掻い潜り、空いている席を見つけると両手を広げて親の席を確保する。これほどバカな育て方をするのが今の日本の親たちだ。いや、そうじゃない、親も全く同じことを毎日のようにやっているのだ。空いた車が停まる、走ること走ること、我れ先を争って走り込んで尻を降ろす。どれほど醜くく浅ましいことをやっているのか解っていない。この親にしてこの子ありだ。私は電車で通勤して数十年、どんな時も走り込んだことはただの一度もない、断言できる。一時間やそこら座って嬉しくもない。それよりは立ったままで本を開いて活字を追い掛けている方が余ほど充実できる。おかげで吊り革にも、手すりにも掴まらず、余ほど激しい揺れでもない限り、ふらつかないで済むバランス感覚が実についた。

電車内での馬鹿女の化粧は書いた、携帯電話のことも書いた、しかし、まだ書くことは幾らでもある。

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2005年6月 4日 (土)

異様な風景

乗り物に乗る度に出会う風景だが、駅に停車して電車のドアが開く。携帯電話を耳に当てたままで乗り込んで来てそのままで喋り続けるやつがいる。どうして話し終わってから乗らないのかな、電車内での会話は法律こそないが常識で考えても迷惑。いや、常識が通用しないからこうだとは思うが。かと思うとやはり(と云うべきか)突然話を始めるやつもいる。どんなに声高に呼び掛けられても現代の日本人には通用しないらしい。
もっと異様なのは立つ人もいない程度の座席を見回せば、必ず10人と云えるほどの人間がしている或る動作が目につく。やっていることと云えば、前屈みになって携帯を片手にしきりに顔うつむけて睨めっこをしている。幾つも駅を通過しても一向に顔を上げない。それほど手持ち無沙汰を楽しむこともできないのか。静かに目を瞑って無想になることもできないのか。テレビでも取り上げられた何か記号を使った幼稚な絵、訳の解らない記号の連続文字。私は携帯電話無用論者だから詳しいことはわからない。

私にとって電車の中は知識を増やす時間が持てる貴重な空間だった。のほほんと過ごした学生時代は、社会に出て始めて取り返しのつかない時を過ごしたことに気がついた。教師が口を酸っぱくして生徒に勉強するように説得したのは紛れもない教師自身の告白と解ったからだ。だから空いていても混んでいても手には必ず書物があって活字を追い掛けていた。携帯を睨んでいる人たちはそれと同じことなのだろうか、どうもそうとは思えない。

小学校の先生は、あと少し努力していれば中学校の教師に、その中学校の教師は同じように高校教師に、そしてまた大学の教授になれたのに、と考えたろう。そう、先生たちは自分の魂からの叫びであったろうと考えた。そのように考えれば胸を抉られるような傷として自分自身を見つめ直すこともできた。
敗戦を切っ掛けにまっ逆さまになった価値基準を先ず疑い、神話を切り捨てた進歩的を任ずる学者(世界中に神話を持たない国はないにも拘わらず、そしてその神話の中には真実が隠れていることも『ギリシャ神話の世界』のようにあるだろうに。)を疑い、人に逆らい全てを疑うことで己を形成して来た。

一億総白痴化が叫ばれたテレビは、その目的を達して低級な番組を毎日毎日作り続け、時にはお隣の国から見るだにおかま風のヨンなる人物を筆頭にした、安っぽいドラマを集中的に放映して安上がりの番組編成で間に合わせる。日本の女たちが菓子に群がる蟻のように集まり、阿呆どもが集団を組んでその国を訪れる。それと同じように携帯電話も白痴化を進めているのではないか。携帯電話が出現して、済ませておかねばならなかった連絡を、いつでも出来る、と運転中に掛ける、掛かる。親は直接顔を見て話し、躾けることもしなくなって監督責任を逃れる。子どもは次の日でもいい話を長々として親に支出させ、親は何も諭さない。その親は生活が苦しいからと働きに出て身の回りをブランドもので飾る。そんな親が日本には満ち溢れている。見てみるが良い、世界中の贅沢なブランドものが日本に集中している。そして、休みの度に海外に遊びに行く。馬鹿の一つ覚えのように行くハワイにはバカな日本人が集まる。

今日もまた電車の中は携帯と睨めっこの異様な風景が見られるだろう。

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2005年6月 2日 (木)

フィリピンで想う

元日本兵か? 一斉に色めき立った記者たちが、(とは言えないテレビで平常タレントの糞のようなゴシップを追い掛け回している連中までが)大挙してフィリピンに飛んで行った。結果、大山鳴動して鼠一匹で終わったような始末。今の平和な日本を象徴するような出来事と思っている。何か珍しそうなものを追い掛け回してニュースにし、面白可笑しく報道する。
昭和47年、横井さんが、二年後の49年に小野田さんが、それぞれグァムとフィリピンのルパングで発見されて日本に戻って来たが、二人とも日本軍人の精神を生き抜いての結果だった。一人は敗戦を知らず、一人は上官の命令がないままに。共通しているのは当事の日本人の精神構造であった‘葉隠れ’の精神であった。「武士道とは死ぬことと見つけたり」これを日本の軍隊は利用した。云う、『生きて虜囚の辱めを受けず』と。現代の若者たちには想像もできないだろうが横井さんが帰国して発した言葉、「恥ずかしながら生きて戻って来ました」は自決もしないで戻ったことに対する自虐のことばなのだ。

「えっ、うそだろう、と云う感じ」と云った小泉首相。歴史認識の乏しいこの人には日本の戦争のことを総括して口にするだけの知識も持たず、己の靖国参拝の根拠にする理由説明もできず、感覚だけでものを云っている気がする。「きけわだつみのこえ」を読んで感動した!。この人感動だけはするらしい。相撲を見て感動した!
「きけわだつみのこえ」は若い学徒兵たちの遺書なんだよ、親を家族を兄妹を、そして日本の将来を憂えての心情を綴ったものだ。彼等が何故死ぬことになったのか、誰が指揮したのか、誰が命令したのか。読んで感動したのは何にか?彼等を犬死に終わらせないにはどうすれば良いのか?あなたのようにアメリカに尻尾を振っていれば良いのか?
「人間の条件」「戦争と人間」「ノモンハン」などを書いた五味川純平が、矢折れ、刀尽きてこれ以上は書けないと筆を擱(お)いたのは、深く書けば書くほどに戦争責任について触れてはならないその人のことを、書かざるを得なくなる究極に来ていたからなのだ。このように日本の戦争責任は有耶無耶のままに幕を降ろし、それ以来日本人の仏ごころは深追いをすることを止めてしまった。それが靖国に居座る東條たち戦犯の姿なのだ。

同じ敗戦国でもドイツと日本は大きく違う、大袈裟に云えばドイツ人はヒットラーを頂点にして、ナチスの犯罪を徹底的に自分達の手で追い掛け、それこそ地の果てまでも追求したのだ。一方日本は自分達の手では何一つ裁くことをせずに、(悪いのは戦前の教育、とばかりに神話を拒否し、進歩的と自らを宣う(のたま)う学者先生たちは昔を切り捨て、日本の歴史を660年短くした)“死んだ者は仏さま、神さま”で蓋をしてしまった。ある雑誌に投稿したことがあるが、死者に鞭打つことのできない日本に健全な将来はない、と書いたことがあるが、今でもその考えは変わらない。

いや、全く横道に逸れて話を進めているようだ。今回の話はフィリピンのミンダナオで発見されたとされる元軍人のことから常々考えていること、腹立たしく思っていたことを書くのが目的だった。もしもその人たちがそうであるならば、その人たちの戦争はまだ終わってはいないだろう。同じように私の心にもまだ戦争は生きている。戦死した親族のこと、私にはもう親は生存していないがそれよりも何十年も先に死んだその人のことが鮮明な記憶として胸の中にある。それがフリピン沖海戦だ。

南の島には数え切れない数の日本軍人の骨がまだまだ埋もれている。私にはそれらの島の何処を踏んでも骨の上に足を置く気がするのだ。グァムしかり、サイパンしかり、ニューギニアしかり、フィリピンしかりである。なんでその地に遊びに行くことができるものか。戦争が負けて終わってまだ60年しか経っていないのだから。戦争を教えない教育、だから知らない人間が増え、平和馬鹿になった日本人はそれら南の島に、ハワイにと羽を伸ばし、大して違わないレベルの大リーグに憧れ、打った打ったと大騒ぎする。どんなに騒いでも10本に7本も打てていないんだ。

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